はじまりのための幕引きを
「魔術師にとってのアザナは魂そのもの。それがきっと、次の貴方の一手になるはずです」
彼女は首だけ動かして振り返り、少しだけ寂しそうに笑う。
「次こそは次こそは、上手く行くことを期待しております。過去の私を、どうぞよろしくお願いしますね」
「……」
「さァ、もう行って下さい……早くッ!」
僕は小さく頷くと、彼女の台詞に突き飛ばされるように、走り出す。
カノンの相手は、その本物に任せるしかない。その間、僕は、僕にしかできない事を為すのみだ。そう割り切って、気を引き締めていこう。
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じゃりっ、と砂を踏みにじる音が耳につく。夜の学校は、ただそれだけで不気味な空間だ。窓ガラスは粉々に砕け、所々に血だまりさえあり、壁も崩れて瓦礫が散乱しているのなら、尚更だろう。
僕は他人事のようにその光景を見ながら校舎の中に入り、靴も履き替えずに廊下に出る。
此処は、今アネクメーネ−−−−異界の真っ只中だ。マナーは二の次。最優先は身の安全だ。
その角の陰に、何かいるんじゃないだろうか。どこかの扉が開いて、今にも何かが襲いかかってくるのではないだろうか、という不安は、いつまでも背後につきまとう。
事実、この学校のどこかに何かが巣食っているのだろう。生徒や教師の喜怒哀楽が染み付いた校舎だ。それを糧とする悪魔やら魔獣やらが、物陰の向こうで牙を研いでいるに違いない。
だがまあ、もうちょっと待ってもらおうじゃないか。
あと、もう少しだけ。
学園の中心部へと続く廊下−−−−−−先ほど、一度は目を逸らした戦いの場となった中庭続く廊下は、夜の凍えるような風の所為か、通行人の存在を全く感じさせないほどに、ひどく冷めきっている。
僕はその廊下の向こうに思いを馳せ、振り返り、階段を登る。廊下を進み、引き戸を開け、中へと入ったその教室は、1–A、僕の自教室だ。
勿論、教室の中には僕以外の影はない。
自分の席−−−−−−教室の真ん中から少しだけ窓よりの机に手を置き、椅子に腰掛ける。
僕は目を閉じ、思考を整理する。ここに来たのは他でもない。落ち着いて、策を練るためだ。
一つ。
カノンと僕はこれまで4回、この狂気に満ちた世界で相見えた。つまり、今までに3回のタイムリープを行なっていることになる。僕が一昨日に観た夢は、それらのうちの、どこかの記憶が断片的に送信されたものだろう。対照的に、カノンは過去のループの記憶を、ほとんど全て引き継いでいる。この差は、そのまま僕たちの敗北を招くことになった。知識量の差は、そのまま戦力差を意味するからだ。
二つ。
まだもう一つ、カノンとの会話の中から得た知識がある。僕は『猫』と会わなければならない。何より、一昨日の夢で僕自身も『猫が全て知っている』と、カノンにそう言い放ったのだ。それにその存在を証明するのは、手帳に書き込まれた文字だけじゃない。今思い返せば、僕は様々な状況で、『猫』なる第三者の存在を感知する機会があった。
僕はここまで考えると、一人で頭を抱える。現在残っている不安要素なら腐るほどあるのだ。
その中でも最大の難点は、このまま時間遡行をして、果たして「今回の記憶」は次回に引き継がれるのだろうかという事。時間遡行の方法そのものは、自分の部屋で手帳に書かれた文字を見たときに理解した。かつての自分の手帳の書き込みなのだ。信じるしかないが、その方法が正しいという絶対的な保証はない。
そうだ、この不可思議な記憶の空白の存在だって謎のままだ。部分的に消えた記憶の行方と、それを阻む鎖のイメージ。
僕はまだ、知らないことが多すぎる。
「……滅茶苦茶だな、僕は」
僕は小さく息を吐き、窓の外に見える星を睨みつけた。呪うなら、こんな運命を押し付けた神様だろう。責任とってくれよ。
秒針が12を指し示し、たった今11時を10分ほど過ぎたところ。もうこんな遅い時間だ。森賀さんは上手く足止めしてくれているらしい。
あと1時間弱生き残らなければならない。僕の心臓が拍動する限り。僕の思考が稼働する限り、ルルイエの浮上は阻止できる。そうすれば邪神の復活とやらも防ぐことができるし、僕たちは平穏な年末の日を迎えることもできるのだ。この恐怖の連鎖から、抜け出すことができる。
でも。
僕は、ポケットから〈境界敷〉を取り出す。ゆっくりと刃を押し出すと、カッターナイフは小刀へと姿を変える。
僕は刀を一旦、机の上に静かに置き、もう片方のポケットをまさぐる。遼から貰った懐中時計と、綿津見が遺した〈ルルイエの印〉を掴む。
冷んやりとした感触が手の中に残るのを感じながらも、僕は〈ルルイエの印〉を静かに机の上に置いた。これを使うのはまた違うときにするのだ。
「……所有権放棄を宣言する」
立方体は僕の宣言を聞き届けると、静かにその形を変え、元のしおりの形状に戻った。
僕は決めていた。誰にも犠牲になって欲しくなんかない。僕が望む結末を迎えるまで、何度だって世界を巻き戻すと。そう傲慢に、強欲になることにした。だからこそ僕は、既に何度もやり直してきた。これからもそれを続けない理由は無い。
僕は真鍮製の懐中時計を手に取る。そして左手で強く握りしめ、震える右手を〈境界敷〉へと伸ばした。
柄は氷のように冷たい。汗で滲んだ指先に、力を込める。
目を閉じ、ひんやりと冷たい刃を首に当てた。薄い皮に細い切り傷がつく感覚に少し怯む。ここで踏み止まるな。この後はもっと痛い。
「次こそは」
指に力がこもる。足が、恐怖で震える。なにせ、これから始めることは、僕にとっては初体験なのだ。ちょっとぎこちないのは大目に見て欲しい。
僕は息を止めて覚悟を決めると、勢いよく、刃の先端を自らの首に突き刺す。一瞬の冷感、次いで、激痛と共に熱を帯びていく。切腹もしていないのに介錯だなんて正気の沙汰じゃない。でも。
頭と胴体の中間に、確かな境界を刻み付ける。これは、僕なりの決別の証だ。
まだだ。
めりめり、と肉を断つ音が。
ぴちゃ、と教室に何かが飛び散る音が、無人の教室に響き渡る。痛い、痛い痛い痛い痛い痛い。でもこれで良い。そういう仕掛けだったんだ。夢の最後で僕は舌を噛んだ。今回は首を切った、それだけのこと。
声は、ひゅうひゅうと小さな風となり、喉を通る。
僕はなんとか目を開けて、小さくも最後の思考を振り絞って、最期くらい、としっかりと前を向く。視界の先、教壇の上には、少女のシルエットが朧げに見えた。きっと幻覚だ。でもあれは、一体、誰だろうか……。
「……何度もごめん。次で必ず終わらせる、朔馬」
教卓の少女は僕の名前を呼ぶ。その声に聞き覚えは無い。いや、もしかすると、記憶の鎖の向こう側に……。
急激な失血で貧血になる。意識がぼやけ、世界が暗転する。