最も長い一秒間
「四周目、とはどういうことだ?」
微笑むカノンに問いかけながら、僕はさらに後ずさる。途中、視線を少しだけずらし、公園の中心にある時計塔に目を遣ると、時刻は十時二十分を少し過ぎたところだった。
後一時間半もの間、話を逸らし続けるのは現実的ではない。何か他の手を探さなければならない。今度は僕独りなのだ。誰の助言も得ることはできない。ひとまず会話を続け、なるべく多くの情報を集めよう。
「ええ、貴方が前回までの記憶を正確に引き継げていないことは知っています。あの忌々しい猫の小細工には毎度毎度一泡吹かされますね。今回も、無知から来る貴方の行動に、何か裏があるのではと余計な勘繰りをさせられました」
「質問に対する答えになっていないぞ。発現も守らないくせにゲームマスター気取りか」
僕は少し強気にカノンを挑発する。普通に話をしても活路が見出せないことくらいはわかっている。それならば、少しでもこの状況を変化させるように動いた方がいい。
精一杯の薄ら笑いを浮かべながら言い放った僕の言葉を受け、カノンの目が憎悪で見開かれ、口元が引きつる。
「…………いいでしょう。では、答えます。その答えを聞いて、大人しく死になさい」
「十二月三十日、今回では無いとある日のこと」
カノンが静かに口を開く。
「黒乃朔馬という一人の人間がいました。彼は私の計画を阻止しようとする者たちの一人でしたが、その動きには目を見張るものがありました。まるで、私がどう行動するのか全て知っているかのような動きを見せていたのです」
そこで彼女は、独り首を横に振った。
「いえ、彼は実際知っていました。私の計画は全て筒抜けだった」
夜の公園を、静寂が包む。
視界を舞う小さな遮蔽物−−−−−−雪が舞い始めていた。
「何をしても貴方に出し抜かれてしまうことに違和感を覚えた私は、貴方の友人を人質に取り、その命と交換に、貴方の秘密を聞き出しました」
それが時間遡行、とカノンは髪の毛をかきあげる。長い黒髪に、ぽつぽつと雪が降りかかる。
「詳しい遡行方法は聞き出すことはできませんでしたが、理由が時間遡行だとわかればこちらのものです。私に〈黄の印〉を与えてくれたあの神様に、私はもう一度祈りを捧げました。神様は、私が願えばどんな力でも与えてくれます。結果、私自身も、時間遡行に対応した身体になることができました。貴方が遡れば、私も一緒に過去へ行く。貴方が時間遡行で一方的に腕を磨き、私の行動パターンを分析できるのに、私は常に初陣と同じなのは、なんとも不利ですもの。これでトントンです」
「……時間遡行が、既に何度も起こっていると?」
僕の疑問とも自問ともつかない言葉に対する答えは、一瞬の静寂だ。確かに、金属を気体にしたり液体にする胡散臭い男や、知能そのものを引き上げる銃なんてものが存在する以上、時間遡行という途方も無い話でさえも、不可能と決めつけるのはおかしいのかもしれない。
「貴方からすれば、あともう少し生き残り、あわよくば五周目にでも行きたかったのかもしれませんが、それは不可能です。私が、今この場で貴方を確実に始末します。私の計画の、唯一の不確定因子である、貴方を」
ちッ____。
やばい。
やばいやばいやばいやばいやばいやばいやばい!
このままじゃ殺される。せっかくの機械仕掛けの舞台神の異能力を、使いこなせている気が全くしない。このまま死んでしまったら、アネクメーネに偶然紛れ込んだ一般人となんら変わらない。それに今、僕の命は、〈ルルイエの印〉の起動と密接に関わっている。ここで死ぬわけにはいかないのだ。
もし鎌を投げつけて来たら、触れて違う軸に沿わせて受け流す。それで−−−−−−。
違う、ダメだ。瞬発力の問題もあるし、鎌が綺麗に手に触れるとは限らない。胴体や、顔に当たっただけで即死は免れないのだ。それに、走って近くまで来られて、あの〈狂気違え〉とかいう魔具を使われたら、本格的にどうしようもない。
フェニックスの時と同じように、〈境界敷〉で『臨』の字でも記して弾き返そうか。
否、魔術的な攻撃や斬撃ならいざ知らず、鎌という物理攻撃にも対応できる保証は無い。
僕は〈境界敷〉の切っ先をカノンへ向ける。であるならなば、他の文字を試すしかない。僕は急ぎから煩雑ではあるが、皆という字を空中に刻み込んだ。すると、空中に浮かぶ文字は途端に振動し、細い糸が文字からほつれるようにほどけていく。糸は新たに布状のものを形成し、カノンの足元に巻きついていく。彼女は忌々しげに鎌を振るうが、布はその見た目の脆さに反して、なかなか千切れない。
相手を束縛している、そう直感した途端、僕は踵を返して走り出した。逃げなければ。それも、今すぐ。
僕は本能的に駆け出した。より遠くに、より、安全なところを目指して。
**
気がつくと、家の前に立っていた。毎日、必ず帰ってきていた我が家の前に。
扉に手をかける。鍵はかかっていない。ドアノブは冷たく、扉の向こうに人の気配は無い。
静かに、音を立てずに扉は開く。
薄暗い廊下を歩く。電気のボタンを押したが、停電している時のように、照明は灯らない。
中を歩く。やはり無人であった。僕以外、虫の子一匹すらいない静寂だけが染み込んでいる。
扉を開け、自分の部屋に入る。机の上のスタンドライトだけが、何故か煌々と辺りを照らしていた。暗い家の中、唯一の灯りに吸い寄せられるように、僕は部屋に足を踏み入れる。
静かに椅子に腰掛け、机の上に広げられた手帳のページをめくる。昨日、教室の中で見つけた愛用の手帳だ。あの時、知らないうちに中身が書き足されていた事を思い出し、ふとページをめくると、そこにはさらに続きの書き込みがあった。
『 黒乃朔馬から黒乃朔馬へ。
この書き出し面白くないか? 笑いのセンスは時間素行に関係ないはずだから、今これを読んでる僕も、この文字列を見てちょっと面白いな、なんて思ってくれているはずだ。緊迫した状況だと思うが、これを読んでちょっとは和んでくれ。
さて、僕がこれを読んでいるということは、もうその回の状況に、僕自身が納得していないという事だ。その時その時の、最善を尽くしてくれる事を願う。
僕の調べによると、どうやら時間遡行には正気消失のリスクが伴う。主に起動法に原因があると思われる。連続遡行は多くて五回が限度ってとこだろうし、僕自身もそう何度も経験したいとは思わない。なにせ起動方法は僕自身の自殺だ。高所から飛び降りるのも、あんまり良い思い出じゃないぜ。〈時戻しの懐中時計〉を握るのを忘れずに。無駄死にするなよ。
過去のループから未来の試行へ向けて、どうやって書き込んでるかって? 詳しい話は僕も正確に理解しているわけじゃないんだが、佐口さんの話によると、異能を使って特殊な機能を持たせていった結果、この手帳そのものにアーティファクト化の兆候が見られるとのことだ。僕の手帳が禁書となるか魔具となるか、そこはまだ不明だけどね。とりあえずこの手帳は、あらゆる試行を飛び越えた連続性を保有するってことは間違いない。便利だね。
そろそろ時間だ。あとは頼んだ。そろそろ怪奇小説よろしく、窓の外を見てみるとする。
ああ、窓に、窓に』
間違いなく僕の筆跡で、最後は走り書きになって綴られた文字を眺める。先ほどのカノンの話と、あの日見た夢。その全てが、ゆっくりと線で繋がれようとしていた。
「……我ながら勝手だな」
そう言って僕は手帳を掴み、上着のポケットの中に仕舞う。あの時感じた通りだ。全ての事象は、ここに繋がっていたのだ。そのことに気付くのに、否、思い出すのに、こんなにも時間を使ってしまった。
チャイムが鳴る。
来客が誰かなんて、扉を開けなくてもわかる。覗き窓に目を当てる。
そこにはカノンの姿があった。律儀に扉の前で、無表情のまま、僕が出てくるのを待っている。吸血鬼じゃあるまいし、促されないと建物の中に入れないわけじゃないだろうに。
僕には心の中で、ただ悪態をつくことしかできなかった。




