命≠命
少しの間、僕らは黙り込んだ。僕が〈印〉を起動するところまでは計画通り。問題は、ここから先の計画が無いということだった。
「安全な場所に籠るというのはどうかな。篭城戦を仕掛ければ、がむしゃらに逃げ回るよりも日付変更まで生き延びる確率が高くなる筈だ」
「どこに籠るのよ。この世に安全な場所なんて存在するなんて思えなくなってきちゃった」
次なるを考える僕らの静寂を破ったのは、突如ザザッと流れたノイズ、そして、それに続く女性の声だった。
「あー、マイクテスト、マイクテスト。もしもし、聞こえますでしょうか?」
室内に突然、声が降り注ぐ。
聞き覚えのある、神経を逆撫でするような声。カノンだ。
「あなた達の残存戦力はもうありません。海神サンが私に負けた時点で、あなた方の敗北は確定しました。流石のお二人でも、能力を習得したての足手まといを庇いながら私と戦うのには無理があるでしょう?」
彼女の言葉の意味する事は察した。カノンが近くまで来れたという事は、つまりそういうことだ。彼は、負けてしまったのだ。
「と、いうわけで。あなた達にチャンスをあげましょう。あらら、なんと私の優しいこと」
含みを持った言い方だ。カノンは悪戯っぽく笑い、続ける。
「この〈黄の印〉も、使用を見送ります。そしてこの図書館から、無傷で外に出してあげましょう」
「至れり尽くせりだね___で、条件は?」
遼が、どこからともなく聞こえてくる声に対して、疑問を投げる。
「条件は−−−−−−その扉を潜り抜けられるのは独りだけということです。残りの二人の命は保証しませんし、特に峰流馬遼、貴方が残る場合は確実に始末します。上手く抵抗し続けることができれば、出て行く一人が遠くまで逃げることができるだけの時間が稼げるでしょう。悪い提案では無いでしょうに……」
一瞬の間の後、理恵が吠える。
「不公平過ぎるわ。 朔馬はまだ自分の禁書さえ持ってないのに、なのに独りでなんて……」
「この世界に足を踏み入れたのなら、その覚悟は持っている筈」
「屁理屈よ」
「そうですか、なら…………問答無用で今、殺すまで。私がこの放送室を出て、その扉を蹴破るまで何秒かかるかしら」
冷酷なカノンの返事に悔しげに歯軋りをする理恵。途端、空気が凍りつく。
そこら中に散りばめられた影がどんどんと濃くなり、息苦しい重い空気が漂う。
「いいですか? これは対等な取引ではありません。これは、賭けです。私が進行役であなた達が登場人物。あなた達に拒否権はありません」
「わかったわかった。わかったから!」
僕は耐えきれず、大声を出す。
「わかった。俺が行く。独りでお前から逃げ切ってやる。それで良いな?」
理恵が何か言いかけたが、遼がそれを制止した。
ふふ、と笑い声がスピーカーから漏れ出す。
「ふふふふ、いいでしょう。正真正銘これが最終戦。貴方が勝って世界を救うか、私が勝って世界が滅びるか」
すぅ、と息を吸う音がする。
「始めましょう、デスゲームを」
**
「この建物から誰か独りが出た瞬間、ゲームスタートです。それまでせいぜい、涙の別れでもしては如何でしょう」
プツッ__と不快な音とともに、一方的に通信が切断された。
「朔馬」
理恵が心配そうに声を上げる。
「私は貴方に、死にに行けなんて言えない。貴方を束縛する権利は、私たちには無いの」
そうとも、と遼も口を開く。
「ま、俺だったら逃げるが。ここにいてもどうせ死ぬ。どうせなら一矢報いてやりたいじゃァないか」
「だぁ〜か〜らぁ! 朔馬はあんたみたいにお気楽じゃなくて繊細なの! 何でもかんでも自分の物差しで考えるのやめなさいよこの馬鹿っ」
「鈍感女が何を言っても説得力は無いぞ」
軽口を叩く遼に、突っ込みを入れる理恵。
「−−−−−−ははっ」
つい吹き出してしまった。世界の終わりがどうとか、仲間の命がどうとか、そんな非日常が蠢いているというのに、このひとたちは変わらない。
「……この状況で笑い出すとは、とうとう気でも狂ったか。お前が変な言葉かけるからだぞ理恵」
「なんで私のせいなのよ。ねぇ朔馬大丈夫?」
今まで二人から距離を感じていたのは僕の思い込みだったのだ。二人はいつもと変わらずに、僕の隣にいる。それがただ、ただ、どうしようもなく嬉しかったのだ。
「ありがとう。でも、大丈夫だ。必ず上手くやってみせるからさ、ここでゆっくり待ってなよ」
「お、言うようになったねぇ」
「まぁね」
僕は、少し強がって笑った。遼は何か考えるそぶりを見せながら僕を見つめていたが、やがて小さく頷くと、ポケットから何か取り出した。
「所有権譲渡を宣言する。餞別だ。受け取れ」
宙に放られたそれをキャッチする。それは小さな、金色の懐中時計だった。
「俺も漸く……漸く解った気がする。何故俺がそれを渡されたのか。何故お前の側にいるのか。全部……この瞬間の為だったのかもしれない。それを、朔馬、お前に渡す事が、俺の使命だ。今そう思ったのは間違いじゃないはず。なにせ俺は、頭が良いからな」
「最後までその調子なのね、遼」
理恵がポケットから線香を取り出す。遼もボールペンを胸ポケットから取り出した。
「おいおい朔馬、まさか俺たちが負けるなんて思ってないよな」
理恵と遼に見送られ、僕は〈禁書エリア〉の扉をくぐった。涙を堪えていられたのは、僕にしてはよくやったと思う。
「まさか。じゃあ年明け、学校で待ってるから」
**
図書館の出口をくぐる。行き道とは違い、今度は独りで。外はもう暗い。見上げれば紫の空。足元には傷だらけの道路が広がっている。
夢で見たそのままの光景が。不気味で妖しく、儚いセカイが眼前に広がっている。アネクメーネだ。
図書館から出たら、ゲームスタート。この瞬間から、僕の命が世界の命と同義になる。
「前に−−−−−−進まなくちゃな」
そう。前に進まなければ。後戻りはもうできないのだから。
**
「朔馬、行っちゃったね」
「ああ。後はあいつに任せて、俺たちは出来るだけ、時間を稼げばいい」
「遼」
「なんだ」
「私ね、あなたに前から伝えたいことが……」
「いや、やめておけ。迫る死に焦ってする行動は大抵ロクなことじゃないし、抱いた感情もいずれ冷める気休めだ。吊り橋効果くらい知ってるだろ」
扉が開け放たれた。一人の少女が、音もなく部屋に入ってくる。
「理恵、一つだけ言っておく。背中を預けるのが君で良かった」
「私も。貴方との縁はきっと良縁ね」