序列37番の悪魔
うっすらとした霧の向こうから最初に見えたのは、巨大な黒い嘴だった。
だが、その嘴の持ち主は、鳥ではない。
.........否。鳥ではあったのかもしれない。野生的な目と、二枚の翼のシルエットが、鳥類の面影をうっすらと残しているからだ。だが、唯一、決定的な印象を持つものがあった。それは、鱗である。
全身を覆っているものは鳥類特有の羽毛ではなく、ぬめりと光沢を放つ鱗。その不自然さに、全身を悪寒が走る。
「……フェネクスだ。気を付けろ。不死鳥の方じゃない」
綿津見は僕に聞こえるように、背を向けたままそう呟いた。
ふつうフェニックスといえば、赤と橙で豪華に彩られた優雅な鳥を思い出すだろう。もしその姿を見たら、その姿の優美さに、きっと心を奪われる筈だ。だがしかし、今僕の前に佇むモノはその真逆。暗褐色と緑灰色が織り混ざったような、不安を煽る生き物だ。フェネクス−−−−−−ことにそれがソロモン七十二柱が一柱を指す際、フェニックスとは区別して用いられる呼称だ。
フェネクスは僕を見つめたまま、ゆっくりと嘴を開ける。鳥類には不似合いな細い牙がずらりと並んでいるその様は、グロテスクと形容するに相応しかった。しかし、予想に反してその口から、美しく軽やかな歌声が溢れ落ちた時、僕の耳はまさに釘付けとなった。
「Invert, Eloim, Essaim, frugativi et appelavi」
歌いながら翼をはためかせる大鳥。その異様さに飲み込まれ、言葉を失う。
「ああ……」
ついため息が出るような、魔性の魅力を秘めた歌だった。そこから僕が我に返ることが出来たのは幸運であった。僕のすぐ背中で、ミツと綿津見がウェンプティ達と交戦し始め、激しい音が鳴り響いたのだ。
僕が我に返ったのと時を同じくして、歌を遮られたフェネクスは不快そうに翼をはためかせた。
「喰ハレルモノ。唄ハレルモノ。凶レ。狂エ。躍レ。我ガ声ノ中デ眠レ。眠レ。眠レ。眠レ」
しわがれた老人のような声だ。不快感が神経を逆撫でする。
美しい女性の声で歌い、かすれた老人の声で話す。その二面性こそ、生と死を同時に統べる、かの悪魔の本質なのかもしれない。
その言葉が終わると同時に、大きく開けた嘴の周りに、今度は冷気が集まっていく。気圧が上がっていき、周りの空気が凍てつく。少し離れた僕が吐く息さえも、白く染まる。
危険を察知した。これは、攻撃だ。
咄嗟に転がる。その瞬間、僕が先ほどまでいた空間を、極低温の吐息が槍のように貫いた。その槍はそのまま空を切り、綿津見と取っ組み合いをしていた一体のウェンプティの背中に激突した。瞬きのうちに、ウェンプティの身体は氷に包まれる。綿津見がその腹部を蹴り飛ばすと、氷の像は粉々に砕け散ってしまった。
「朔馬ッ!」
ミツの声が飛ぶ。慌てて顔を上げると、フェネクスの口には再び冷気が集中していた。
次も運良く避けられたとしても、綿津見やミツに当たってしまうかもしれない。次こそは僕が相手をしないと。僕はこれを任されたのだから。
カッターナイフをフェネクスに向ける。〈境界敷〉はすぐさま手の中に収まった。僕が握る指の力を緩めても、ナイフはひとりでに宙に浮いたままだ。
「臨」
僕が口に出すと、ナイフはひとりでに文字を刻み出す。僕の異能力で魔具の動作を操っているのだ。
僕の目の前に半透明の障壁が生み出されるのと、フェネクスがブレスを吐き出すのはほぼ同時だった。恐怖に耐え切れず、思わず目を瞑る。
網膜の裏の暗闇の中、断末魔の悲鳴が鳴り響き、そして止んだ。
恐る恐る目を開ける。良かった。今の叫び声は僕の声じゃない。
眼前には一羽の鳥。だがその体は微動だにしない。その鱗一枚にわたるまで、完全に凍りついていた。
「朔馬、しゃがんで!」
またミツの声が飛んだ。僕は言われるがままに姿勢を低くする。僕のすぐ頭上を投げ飛ばされたウェンプティの身体が飛んでいき、凍りついたフェネクスに激突した。
フェネクスの身体が砕ける。僕はこの瞬間、二度と後戻りはできないことを悟らざるを得なかった。ともかく前に進まなければ。カノンを止めなければという思いが、身体を追い越して前に前に進むばかりだった。




