圧倒的な不条理
「さて、次からは朔馬くんもちゃんと戦闘に参加してもらわなくちゃならないかもしれない。少なくとも自衛くらいはしてもらわないと。子守しながら戦うってのは、誰も得意なわけじゃないのでね」
綿津見にそう言われると、ポケットに入っているカッターナイフがずっしりと重くなるのを感じた。子守......などと挑発まがいに言われてしまえば、自分の身は自分で守らざるを得ない。とはいえ、あのような怪物相手に僕なんぞが張り合えるのか。
物を軸に沿って動かす。ただそれだけの能力を、どう応用すればいいのか。もちろんその答えは
未だ出ていない。でも僕は少しずつ、『わかる』ことを増やしていくことしかできないのだとも思う。
「.........僕たちが目指しているのって、アネクメーネ側の街の、その中心部ですよね」
「ああ、そうだが?」
僕は素直な疑問を口にする。
「あの……この町に住んでいた人たちは、どこに行ったんでしょうか。一人も見当たらないんですけども」
なぜ今まで気付かなかったのか。自分のことに精一杯で、すっかり頭から飛んでいた。この町には僕の家族や友人たちが住んでいるのだ。彼らの安否が気にかかる。どこかに隠れているなら、避難の誘導をしないと、危険な目に遭ってしまうかもしれない。
素早く答えたのは綿津見だった。その口から、無情な言葉が流れていく。
「……諦めろ。こればかりは俺たちにはどうしようもない。もちろん目の前で襲われてりゃ助けるが」
「そんな、じゃあみんなもう……殺された、とでも言うんですか!」
夕方、街に人通りが全くないなんて普通じゃない。
「まぁまぁ落ち着きなよ。アネクメーネに一般人は入れないんでしょ。じゃあここがアネクメーネになった時に、全員街の外に弾き出されたんじゃないの」
ミツが口を挟むが、綿津見は厳しい表情で首を横に振った。
「寝てる人間も、風呂に入ってる人間も、犬も、猫も、鳥も全部か? そんな情報は入ってきていない。これは例外だ。ここは表世界のままアネクメーネの一部となったんだよ」
万が一助かっているのなら、と綿津見は坦々と続ける。
「それか、建物の中にいるかどちらかだ。怪異といってもヒトを探し回って攻撃してくる奴らばかりじゃない。異変を察して、家で静かにしてやり過ごしてるのかもしれない。お前ら、地面にべったりついた血痕も、道路中に停まってる無人の車も、映画の演出か何かだと思っていたのか。表から裏へ移動する際の、あの独特の落下感覚が無かっただろ。だったらこの地面は間違いなく、表のものだ」
厳しい口調の綿津見を見て、その表情の変わらなさに、僕は思わず声を荒げて言い返していた。
「そ、そんな簡単に街一つがまるごと死ぬ筈なんかないじゃないですかッ。もしそんな簡単に人が死にかねないのなら、どうしてもっと今までこういうことが報道されていないんですか。もしそうだとして、じゃあなんのために貴方たちがいるんですか。〈守り手〉じゃなかったんですか」
「じゃあ俺たちが走り回って、この街の人間全員を守り続ければいいとでも言いたいのか?」
「出来るなら、すべきじゃないんですか」
「甘いことを言うんじゃねえ。そんなことは不可能だろうが!」
助けてくれ、と叫び声が僕と綿津見の口論を遮った。弾かれるように綿津見が駆けだす。僕とミツもその後を追った。現場へ向かうと、そこにはスーツに身を包んだ、サラリーマンと思しき男が地面に倒れていた。腰が抜けてしまっているのか、這いずってこちらによ寄ってくる。彼のさらにその向こう側に視線を向けると、そこには、よだれを撒き散らしながら近づいてくる一頭の牛がいた。口の周りや、立派な二本の角には血がついている。僕は思わず目を背けた。あれはきっと、肉食の牛だ。
「た、助け......」
怯えた彼の言葉より早く、綿津見は動き始めていた。男と牛の間に飛び込むと、彼は右手の拳で殴りかかる。直撃の直前にポケットから滑り出した金属が彼の素手を覆い、鋼の拳が牛には不釣り合いな鋭い牙を砕いた。不服そうな嘶きと共に、牛は頭を振った。
その隙に、素早い動きで綿津見が男を助け起こす。
「立てますか?」
「あ、ああ。なんとか……」
「どこか建物の中に入って、部屋なりなんなりに籠っていると良いです。中央図書館まで走れますか」
「あ、ああ。こ、これでも高校時代は陸上部だったんだ。大丈夫だ、きっと、は走れるとも」
「それは良かった。それじゃあ急いで行ってください。ミツ、道中護衛してやってくれ。着いたら戻ってきて」
彼の言葉に静かにうなずき、ミツは男の鞄を拾う。なんとか立ち上がった男を先導して、彼女は元来た道を引き返していった。そんな彼らの後姿が、角を曲がって見えなくなるまで僕は見送る。
「うォりゃあああ!」
綿津見は頭突きを見事にかわすと、生成した剣を勢いよく振り回す。金属製の剣は角を見事に切断し、牛は踵を返して走り去っていった。足元に乾いた血で染まった角が転がってきて、僕は気味が悪くなって蹴り飛ばした。
「はァ……ひとまず追い払ったか」
綿津見が剣をブレスレットに変形させ、こちらに歩み寄った。僕の顔をじっと見つめるその顔は真剣そのもの。
「いいか朔馬、よく聞け。力を持ったものが全てを守らなければならない、なんてのはな、理想論なんだよ。俺がさっきの彼を助けているまさにその瞬間、一つ横の通りで失われた命があったかもしれない。いや、きっとあった筈だ。それに、俺たちはカノンを止めるべく前に進むが、さっき助けて走って行った彼は、護衛のミツが一瞬目を離した隙に何かに殺されてしまうかもしれない。違うか?」
僕は無言で、首を横に振る。いや、違わないとも。
「じゃあ今の俺の行動は無意味だったのか?」
僕はまた首を横に振る。無意味だなんて、言えるはずないじゃないか。
「それじゃあきっと、ただのエゴなんだ。でも俺はわざと、そうは思わないようにしているんだな」
彼は自分の腕に目をやる。そこには風に揺れる、先ほどのブレスレットがあった。ゆっくりとしたその動きを、彼はぼうっと見守っている。
「人っていうのは結局、手を伸ばして助けられる人間しか助けられない。だから偽善でも何でも、俺たちは俺たちが出来る範囲で、出来るすべての努力をしなきゃならない。欲張った結果、目の前の誰かが救えないなんて本末転倒は、死んでも御免だろう」
彼はそこで一旦言葉を区切ると、改まるとなんだか恥ずかしいな、とはぐらかすように笑みを浮かべた。でも、その笑みは心からの笑みではないことくらい、僕でもわかっていた。どうしてだろう。どうして。
「どうして……どうして、そんなに、強くいられるんですか」
「なんでだろうな。俺にもわからん。わからんなりに、今の状況に適応してみようとしているだけさ」
前に進もうか、と彼に促され、僕は黙って後をついていった。綿津見は少しずつ、現在想定される状況を教えてくれた。
「もちろんこんなことは簡単に発生するようなものではない。通常こういう状況を作り出すには、数年かけて、数百人規模の術者が術式を組み立てる必要がある。君が言った通り、それは本来ずっとコストが高いものの筈だ。でもこの街に、ここ数年間そんな兆候は無かったことは断言できる。この局面はどう考えても、俺たちが図書館の中にいるごく短い期間で完成されたものだ」
「どういう……ことですか」
「つまりだ。この一連の騒動は、カノンひとりで為せる技じゃない。彼女の裏には、何かの存在がある。しかもそいつはチンケな魔術師や異能力者なんてレベルじゃない。この騒動が公になって、街が一つまるごと死んだと世間が騒ぐことなんて全く気にもしてないような、もっと大きな、何かだ」
足元に血痕が飛び散っている。ペリュトンと戦った時も街は血で染まっていた。でもそれは理恵が雨を血に変えたからであり、あの場で血を流して死んだ人がいるわけでは無かった。でも今は違う。この血痕を、辿った、先にはきっと。
視線を辿りきることが出来ない。不快感が胃を逆撫でし、耐え切れなくなった僕は吐き出していた。縁石が吐瀉物で汚れる。今まで勝手に勘違いして、きっとみんなはどこかに逃げてるとばかり思い込んで、見えてるものからさえも目を背けて、その上自分ばかり特異な目に合っているとばかり勘違いして、なんて自分は能天気なんだ。悲劇のヒロイン気取りかよ。
それじゃあ先生も、母さんも、クラスメイトも。待ってくれよ。人の命がこんなに簡単に潰えてしまうなんて、僕そんなの聞いてないよ。聞いてない。
口を袖で拭って顔を上げた。それでも、さっきの男の人は助けられたじゃないか。ミツはもう走って戻ってきていた。心配そうに、僕の顔色を覗きこんでいる。
「図書館は私たちの拠点だし、敵にばれているかもしれないでしょ。隣の喫茶店に案内しておいたわ。あそこの従業員室なら、ひとまず安全なはずよ」
ミツからの報告に静かに頷いた彼は、その手を僕の肩に置いた。
「……いいか朔馬。感傷に浸るのは、今後一生をかければ良いさ。だが今しなければならないことを今しなければ、それこそ今まだ生きている誰かの命を見捨てることになるぞ。俺たちには俺たちの仕事がある………………ほら、敵襲だぞ。身構えろ」
とん、と前に押し出される。睨みつけるように前を向くと、道路を挟む塀や足元の道に、先ほどまで無かった苔が生えているのが見えた。否、苔はどんどんと勢力を増し、向こうから広がってくる。
湿度の高く、生暖かい一陣の潮風が辺りを吹き抜ける。
「前方に一」
「……後方に三よ。綿津見、あんた私と後ろを処理しなさい」
「デウス・エクス・マキナ。君には前を任せる」
声に釣られて後ろを振り向くと、さっき僕らが歩いてきた方角から、見覚えのある怪人−−−−−−ウェンプティが三体、ふらついた足取りで歩み寄ってくる。
「これ、私の元知り合いって可能性もあるよね」
「もちろん。だがそれなら尚更、弔いになるだろうさ。安らかに眠ってもらおう」
ピキキキ、と軋むような音で僕は前方に注意を戻した。足元に張っていく霜を、迫りくる怪異が踏みつけた音だった。僕はポケットからカッターナイフを取り出す。なるべく早くこの状態を解決することが、今隠れて生き延びている名も知らぬ誰かを助けることに繋がる。他人事じゃないんだ。僕が戦わなければいけない理由を、僕はようやく見つけた気がした。
真っ赤に血走った大きな目が二つ、僕を捕らえた。




