夕暮れの街を歩くのは
「なん.......だよ、これ」
図書館を出てすぐ、僕は眼前に広がる異変に気がついた。頭上に広がるの空の色は紫。あの夢と同じだ。そして、アネクメーネとも同じ。
「いや……これは……真逆そんなはずは………………」
綿津見が苦虫を噛み潰したような顔で呟く。
「何が起こったんです?」
「…………」
僕の問いかけに、綿津見は答えようとしない。
「なァ綿津見。これ、不味くないか」
佐口さんが口を開く。その言葉に無言で頷いたのは、遼とヤイバだけだった。
「ああ、俺たちはもしかすると、想定する敵の姿を間違えていたのかもしれない。認識を改めないと。これ以上の楽観は死を招く」
遼の声は、少し震えてるような気もした。
「どういうことだよ。なぁちゃんと説明してくれ」
遼は一瞬僕の目を睨むように見つめ、そして観念したように、暗い声で呟いた。
「さっき話した通りだ。アネクメーネは日常の裏側に在って、見る目が有れば誰にだって感知できる。そしてあの世界は、日常との乖離の度合いによって世界そのものが連なって存在している。いわば層みたいなものだ。カノンは、表世界の一つ下の層、つまり日常に隣接している『非日常』を、限定的に引き上げた」
「それってつまり.........」
ここは実質的に、アネクメーネそのものということなのか。僕の問いに対する答えはなく、代わりに無人の街に、ヒョー、ヒョー、と、精神を逆撫でするような、聴くものを不安にさせるような音が響く。その音は周期を刻んでいるにも拘らず、どこか生物的な声だと感じられた。生理的な、嫌悪感が背中を這いずる。
「トラツグミの声か。だがこの場に普通の鳥がいる訳ない。となれば鵺だ」
ヤイバが腰に刺した日本刀を抜く。
「厄介だ。別動隊を作って手早く始末するぞ。被害が拡大する」
援護するよ、と遼が一歩前に進む。
「鵺は疫病の発生源でもあるから、朔馬はあんまり近寄らないほうがいい。そうだな……。回復役として理恵は来てくれ。あと索敵役で森賀も欲しい」
了解したわ、と理恵が返事をした。森賀さんは目を閉じ、無言のままだ。
「ちょっと。四人も行っちゃったら、残りが戦力不足気味だと思うのは私だけかしら。誰が朔馬君を守るのよ」
「何甘えたこと言ってるんだ。もうそんなこと言ってる暇はないだろ。自己防衛してもらうしかない」
ヤイバが胸ポケットからカッターナイフを取り出し、僕に放り投げた。
僕はそのカッターを受け取り、刃をカチリ、と出した。するとぐにゃり、と手の中で形を変え、終いには小刀の形になった。ずっしりとした金属の重みが手にかかる。
「脇差〈境界敷〉。俺が所有する魔具の一つだ。これの所有権を君に譲渡しようじゃないか」
僕は手に持った刀の鞘をじっと見る。何やら文字が刻まれているようにも見える。最初の文字は『臨』だ。真ん中のあたりは『皆』だろうか。
「鞘にある九つの文字を、どれでも刀の切っ先で空中に書いてみな」
僕は言われるがまま、鞘から刀を抜き、虚空に文字を刻みつけた。一画目の時点で異変に気付いてはいた。僕の筆跡が、空中に残ったままなのだ。
最後の画を刻み終わると、宙に浮かぶ『臨』の字は青白い光に包まれ、薄い半透明の板に変形した。
「それは第一文字、『臨』だね。効果は反射だ。他の文字も同様で、日本の修験道に伝わる九字をベースに、俺なりのアレンジを加えてある。この魔具を使用するデメリットがあるとすれば、空中に実際に文字を書くということは、戦闘中には隙が大きすぎるってこと。画数が多い感じなら尚更ってことくらいかな」
なるほど。確かにこれは、僕が自衛するのには丁度良い。
「巧く使ってくれよ。じゃあ俺たちは源頼政宜しく鵺狩りに行ってくる。佐口はここで留守番ね」
「わかった。御武運を」
「それじゃ、後ほど合流しよう。…………死ぬなよ」
「定点カラスBに鵺が映りました。海岸線沿いを飛翔中」
四人は森賀さんを先頭に走っていった。僕らはその背中を、ぼうっと見送ることしかできなかった。
「鵼は深山にすめる化鳥。その声をトラツグミと見なすか鵺そのものと見なすか、本質はこの声にのみ宿る…………か。鵺に鎌鼬、妖怪たちの夜行はこの街には似合わないっていうのに」
佐口さんは目を閉じて独り呟くと、何も告げないまま図書室の中に戻っていく。その様子も、僕らはただ無言で見守る。
「……それじゃあ俺たちも中心目指して行きますかね」
ようやく訪れた静寂を嫌うかのように、間髪入れずに告げられた綿津見の言葉に僕は頷き、薄く霧の漂う街へ駆け出した。
**
「.......ちなみにミツの能力って一体どんなものなの?」
街を練り歩くこと十数分。依然、森賀のコピーは影すら見えない。
壁や道路のところどころに血のような染みや爪痕が残っているが、その持ち主さえも姿を見せず、あたりは僕たちが歩く音だけが響いている。
「あたしのは……そんなに華やかな奴じゃないよ。出番も少ないし、出来ることなら使いたくない」
「それってどういう……」
突然、前方を歩いていた綿津見が立ち止まった。
「お話し中申し訳ないが、ご来客だ。ミツ、お前の出番だぞ。いやいや言うから出てくるんだ」
そう言ってミツの背中をぽんと叩き、綿津見は後ろに下がった。
少し遅れて、うっすらと漂う霧の向こうに足音と共に人影が浮かび上がる。
薄ぼんやりとした霧から徐々に姿を現したのは、細身の男だった。
否。距離が近づくと、それは男ではないことはすぐに分かった。。人の形をした化け物、と言うのが正しいだろうか。
ソレは血でところどころ汚れた黒いスーツに身を包んでいる。胸元のバッジは泥で汚れて輝きを失っており、よれよれのネクタイは半分に裂けている。袖から続く腕には長く鋭利な爪が伸びており、不敵な笑みを浮かべるその顔はヒトというよりもむしろ鰐に近い。禍々しく光る歯をガチガチ言わせ、こちらに向かって歩み寄ってくる。口の隙間から溢れる蒸気が、ふしゅー、と気味の悪い音を立てる様は、到底人間とは思えなかった。所々に見えるかすかな人間性が、ソレがかつてはヒトであったことを暗示しているような気がして、僕は思わず目を背けた。
「ウェンプティね、全く、いつ見ても悪趣味。一瞬で還してやるから」
そう言うや否や、ミツはポケットから短刀を2本取り出して両手に握った。銀色の刃が鈍く光る。
ウェンプティは姿勢を低くすると、四つん這いになって走り寄ってきた。ミツはすかさず前に出ると、彼女の方からも走り寄って距離を詰める。接敵する。鰐の頭が彼女の細い脚に喰らいつくその瞬間、ミツは地面を強く蹴って宙に浮いた。がちん、と勢い良く、鋭利な牙が虚空を噛む。
「破ッッ!」
かかと落としは見事にウェンプティの背骨をとらえた。彼女のスニーカーがめり、と音を立てて腐肉に喰い込む。だがウェンプティは絶命するどころか、腹立たしげに身をよじっただけだった。
「可哀想に」
ミツはすぐさま体勢を立て直すと、握りしめた銀色の短剣で、無防備なうなじに切っ先を当て、なぞる。世界がずれた。ミツの切っ先に沿って、世界が斜めに動いた。
驚いて瞬きをすると視界は何事もなかったかのように切れ目などなく、胴体から頭が転がり落ちる瞬間が目に入っただけであった。身体はみるみる塵となって、風に吹かれて消えていった。今のは錯覚か、それとも……。
「ウェンプティ。不死の体で夜の街を闊歩し、伝染病を撒く人災の象徴。理恵が使役する蚊とはまた違った、吸血鬼伝承の姿の一つよ。朔馬、一つ覚えておくと良いわ。アネクメーネに迷い込んだ可哀想な人たちはね、死してもなおアネクメーネの一部となるの。死体はこういう感染系の怪異に汚染され、また新たな犠牲者を探す」
ミツは足元に転がる金属片を拾い上げた。それは間違い無く、さっきのウェンプティが胸につけていたバッジであった。金色のひまわりを象ったそれを、ミツはそっとポケットにしまった。
「あたしはそんな彼らのためにここにいる。《死なずの殺し屋》を宿す責務を、果たすために」
僕より年下の女の子が、この時ばかりはずっと大人びて見えた。僕は頷き返すことも忘れ、自分の両手を、そしてそこに宿る僕の異能力を、まじまじと見つめた。
理恵のような、ミツのような、そんな非日常の力が、僕にもあるのだという。ただ異能を持つだけでない。そのことが意味する自らの使命。その異能の存在意義を自らで見つけ出し、それを抱えて生きている彼女たちの背中は、今の僕には大きすぎた。
僕は運命を飲み込みきれずにいた。




