侵食、ならびに浸食
「遼と理恵はまだ帰ってこないが、先に話を進めておこう。我々に残された時間はあと10時間。日付が12月31日に変わった瞬間、森賀のコピー、カノンがルルイエの浮上を完成させることが明らかになった。止めないと何が起こるか、知識のある者なら容易に想像がつくだろう。あの島で何が眠っているのか、知らない筈がないからな」
クトゥルフだ。僕はすぐさま、昨夜調べた記事を思い出した。海底都市ルルイエに眠る邪悪な神。怪奇作家が見た深海の夢。
「浮上するって、そんな物騒なものが……いま海の底にあるってことですか」
「まだ存在しない。だがアネクメーネの中には存在する。それが存在ごと浮かび上がれば、現実は異界に書き替えられる。極めて稀な話だが、あり得ないことじゃない。もちろん星辰の位置を無視することはできないが、半永久的に表層に留まることも考えられる。そこで、だ……」
時間がないから手短に行こう、と彼は厳しい眼になる。
「ルルイエの浮上を止める為の方法は一つじゃない。刻々と変化する戦況に応じて、俺たちは柔軟に選択する必要がある」
綿津見は人差し指を立てる。
「一つ−−−−−−術式の完成前に、その術者自身を機能停止に追い込むこと。これはほとんどの術式を停止させる一般的な方法であり、その分カノンも警戒を強めている筈だ」
続いて中指。
「二つ−−−−−−祭壇を破壊すること。魔術師の家系を除いて、現代の人間が魔術や奇蹟を引き起こすことは不可能だ。だから通常、そのハンデを補う特殊な祭壇のようなものを設置することで、術式を成立させることが多い」
「でも、指令を受けて俺たちが発見、そして破壊した祭壇はダミーだった。なァ、ミツ」
「ダミーというか、意思表示ってカンジです。今からこっちで派手にやりますってサイン。律儀に宣戦布告してくるなんて、人形にしては礼儀正しいです」
「ってことは、犯人は魔術が使える人間……」
で、合ってるだろうか。
「合ってる。だがその正体は不明だ」
綿津見は遼と目配せをすると、言葉を続けた。そして彼は、薬指を立てる。
「そして、方法はもう一つだけある。これはルルイエに関する事例にのみ有効な手段であり、その汎用性も極めて低い。だが全員、記憶の隅には放り込んでおいてくれ」
魔具〈ルルイエの印〉。彼の口から発せられたその単語に、僕はどこか見覚えがあった。
「ルルイエとセットで紹介されることが多い魔具の一つに、〈ルルイエの印〉というものがある。現在アネクメーネの下層域に存在しているルルイエの深度を、操作することができる魔具だ。所有を宣言した者が死亡すればルルイエは上昇し、生存し続ければ下降し続ける。万が一カノンの撃破が難しい場合、もしくはルルイエが浮上してしまった場合には、こちらの起動を最優先目標とする」
「で、その〈印〉ってのはどこにあるんだ。そんな危険な代物、魔術連盟のあたりが回収してそうなモンだが」
「いいや違う。あれを発見したのは俺だ。そして俺の〈禁書〉との関連性が極めて高い物であることが確認、立証され、管理も俺が担当している。所有宣言はしていないがな」
「何故すぐに宣言しない。すればそれで済む話だろう。なにもわざわざリスクを犯してカノンを倒しに行かなくても……」
「甘いぞヤイバ。〈印〉を使ってこの局面を切り抜けても、ここに〈印〉があるということが全世界に発信されてしまえば、それこそ一部狂信者たちが押し寄せて全面戦争になるぞ。先のことまで見通すなら、使わないに越したことは無い。だから最後の手段にとっておく」
「それ、出し惜しみにならなければ良いのですが」
森賀さんが、はぁ、と溜息を吐く。
「基本は彼女の破壊を優先することになりますわね。ですが彼女も丸腰ではありません。私の自邸も襲撃され、魔具が奪われ、予備のドールも全て破壊されました。ドール18……いえ、カノンの犯行で間違い無いでしょう。私とドールたちは所有権を共有していましたので、彼女も〈宵闇の嘆き〉の権能を使用することができます」
〈宵闇の嘆き〉。森賀さんの話によると、『影』を自在に操ることができる能力を所有者に付与することができる、大鎌の形状をした魔具であるらしい。勿論サイスとしての斬れ味も抜群であるそうだ。
「魔具の所持数が変わったのなら、どんな事情でもすぐに連絡してって言ってるでしょ」
黙って話を聞いていた佐口さんが、ぶつぶつと文句を言いながらタブレット端末を操作し始めた。
「実際に戦闘行為をするのは貴女たちだけど、そのバックアップは私の仕事なんだから。戦力と戦況は、正確に把握しないと……」
「戦況なら、いままさに動いているぞ」
ドアノブが回る音がする。振り返ると、扉を開けて遼と理恵が入ってきた。ただ二人の服はところどころ千切れており、遼の頬には切り傷がついている。ちょっとそこまで出歩いて来たにしては、二人ともボロボロだ。
「二人とも、何にやられた」
「野生の鎌鼬だ。痛みは無いから気にするな。鎌鼬ってのはそういうもんだろ」
遼は親指を扉の向こうに向け、僕たちをぐるりと見渡して続けた。
「この部屋には窓がないっていうのが問題だな。外に出てみな。先手を打たれたぞ」