いいよ
ハザマを越え、都市を越え、地中を越え、射手矢と紫雲は落ちる、落ちる、落ち続ける。めまぐるしく変わる景色はまるで制御不能のエレベーターのようで、紫雲は抵抗する気を既になくし、射手矢をじっと見つめていた。この行き先を決めているのは彼らの罪の重さそのものではなく、罪に対する神の判決。射手矢が自分たちの罪をどのように規定するか、それだけが行き先を決定する。
「うッ……」
途端、射手矢が肺を抑えて苦しみ始めた。途端、落下の速度が異常に早まった。紫雲は少し後ずさって、その様子を注意深く見守る。
土御門黄泉の死霊術には有効範囲がある。物理的距離ではないにしろ、アネクメーネに向けて下降を続ければいつかは有効範囲から出てしまうだろう。魔術が解ければ、射手矢は死体に戻る。
「…………くッ……はぁはぁ、はぁ」
射手矢は胸をかきむしり、膝をつく。とうとう潮時かと思ったが、その後もしばらく彼はもがき苦しみ続ける。
「ぐッ、う、ううううう…………ッあああああ」
「…………」
とうとう射手矢は倒れこみ、それでもなおのたうち回って苦しむ。
「あああッ、はぁ、あァ」
「…………大丈夫、か?」
しばらく黙ってみていたが、いつまでも苦しみ続ける様子を見て、紫雲はつい話しかけた。相手が誰であろうと、目の前で苦しまれるのは気分のいいものではない。
「か、かはッ、の、喉に、な、何かが…………」
「喉?」
紫雲は、射手矢が手で抑えている部分をじっと見る。どうやら喉元に何かがつっかえているようだ。
「まさか…………」
紫雲は、姿を消す前に兄が言っていたことを思い出していた。黄泉曰く、魂は喉につっかえてしまうのだと…………。
「おい、待て待てそれを吐き出すな! なんとか飲み込め飲み込め!」
紫雲は大慌てで射手矢に近付き、身体を助け起こす。どうにかそれを飲み込ませると、紫雲はふと一息ついて、その近くに腰を下ろした。
もはや紫雲には、彼と敵対する気が失せ始めていた。もとより、この状況は彼にとって好都合と言えなくもない。大狼の怪異が現界した責任を押し付けられている現状、異能によって隔離されていることはむしろ、歓迎されない他の来客達から身を守ることに繋がるからだ。
「どうやらこれ以上落ちるとマズいか。なあ射手矢君、この辺りで一度……………………射手矢悠里?」
射手矢はまだ生きている。それは確かだ。しかし彼の意識は限界のようで、俯いた彼はもはや苦しみも悶えもせず、静かに表情を隠し、座り込んでいる。
「おい…………聞こえてるか?」
「……うん」
返事はある。しかしまともな状況には見えない。当たり前だ、先ほどまで彼の喉元に出かかっていたのは彼の魂そのものなのだから。一度魂が離れかけたのなら、そうすんなりと元に戻りはしないだろう。
紫雲の口から舌打ちが漏れる。彼と敵対する気がないのは事実だが、今の現状を全肯定できるかと言われれば決してそうではない。論理と実証に裏打ちされた魔術と違い、不正確な異能力はまさに神の気まぐれ。そんなものにこれ以上付き合わされるのはごめんだ。それに今この瞬間、異能は射手矢の手を離れている。異能暴走ほど予測の立たないものはない。
「死んだか?」
「……うん」
「生きてるか?」
「……うん」
だがそのあと何を話しかけても「うん」以外の相槌が返ってくることはなかった。意識が回復することはあるのだろうか、と少し不安になる。このまま生きながら死んでいるような彼に付き合わされて、無限に落下を続けるのだけはごめんだ。彼の顔色を見ようとして、俯く彼の顔を覗き込んだ。そして射手矢の眼を、表情を直視する。
彼はその両目をしっかりと開けていた。瞬き一つせず、見開かれた両目。
「お前…………その目」
その目を見た瞬間、思わず一歩、二歩後ずさる。共有術を使うまでもなく、紫雲はあることを理解した。その目を昔見たことがあるのだ。昔々に、鏡の中に映った自分と同じ目だったのだ。
人は自分にないものに惹かれるという。自分はこの射手矢裕理という人間の行いに興味を惹かれていたと思っていた。全ての知識や感情、記憶が共有された世界を目指す彼にとって、断罪という行為は決して相容れない概念だと、自己と他者を隔絶させる最も顕著な行為だと紫雲は考えていたから。だから傲慢の色彩を抽出する相手が彼であったことに、単なる偶然以上のものを感じていた。傲慢にも他者の罪を裁くその姿を、これほど近くで見ることができる。それは目指す世界に不要なものをしっかりと見据える手助けになると、そう考えていた。
だから、紫雲は射手矢を自身の対極にいる存在だと考えたのも当然であった。射手矢の見せた傲慢さは決して好きではなく、むしろ彼にとって嫌いな人種の部類だったが、彼の能力自体は評価していた。相手の言い分も、境遇も、裁量に加えるかどうかはまさに神の気まぐれ。自分とは違い、他者に目を向けることなく、自分の内だけで完結する判断基準の中に生きていると、そう考えていた。
だが紫雲は今気付く。射手矢の根底にあるのは確かな判断基準ではなく、恐怖心なのだ。他者への恐怖、理解への恐怖。だから自分一人で裁定する。一人で決めないといけない。他人は信用できない。それは彼が他者による死を経験したことで、さらに強固になったのだろう。射手矢の裁定はいわば拒絶。他者への拒絶、理解への拒絶。そしてそれらは、自分の中に在るものとそう遠くはない。
他人は信用できない。他人の考えていることは理解できない。共有術はその壁を越えて他人を理解しようとする試みだと、紫雲は考えていた。射手矢は自らの対極にいるのではなく、自分と同じように恐怖し、自分と同じように乗り越えようとして、結果取った手段が違うだけなのだ。だから射手矢は目を開いている。拒絶すべき相手を見失わないように。目をそらさないのではない。目をそらせないのだ。
「で、同じように傲慢に溺れ、他人の人生を狂わせた、か」
「……うん」
今の返事にも意味はないだろうが、その噛み合いの良さに紫雲は思わず苦笑した。ばらばらだったピースがはまる音がする。射手矢が他人に異能力を使う時、目をそらさないのは傲慢が故ではない。視界から消えるその瞬間まで相手を恐怖していたのだ。そして、彼をこうさせたのは自分だ。他者との間にある厚い壁の恐怖は重々知っているつもりだったのに、理論で自分は理解できたと思い込み、彼を扇動して恐怖を植え付けた。共有する真実を限定し、信用すべき人間を規定し、断ずべき悪を規定した。
紫雲は手の中にあるスポイトをじっと見る。スポイトの中に音もなく静かに、あでやかな紫色が満ちていくのを、じっと。
ほぅ、と息を吐く。ミイラ取りがミイラになるとはこのことだろう。他人は永遠に理解できない。その事実を直視できたのは、紫雲には兄妹たちがいたからである。永遠に理解せずとも同じ方向を向くことはできる、同じ景色を見ることはできると知ったのだ。ずっと放送室の中に居たから、射手矢の顔などまじまじと見やしなかった。たとえ見たとしても、ただの道具だとして注意を払わなかったのだろう。
彼はスポイトをぎゅっと握りしめた。思っていたのとは違う方法でだが、目的のものは手に入った。ならば、自分がするべきことは一つだろう。紫雲はもう一度、今度はゆっくりと射手矢に歩み寄った。射手矢が顔を上げ、あの日の目で自分を見る。
「俺はお前を対極の存在として理解していた。理解した気になっていた。俺はお前を他者として区別し、遠ざけ、拒絶していた。それは昔の自分を、地続きの自分と認めたくなかったのかもしれない」
「……うん」
「…………悪かったな、駒の一つだなんて言って。俺たちが勝手に生き返らせただけなのにな」
「…………うん」
紫雲は射手矢に語り掛ける。彼にこの言葉が届いているかはわからないが、ともかく謝罪はしなければならない。他人の罪は裁けずとも、自分の罪を認めることはできるのだから。下降はゆっくりと減速し、やがて暗い昏い暗闇の中で二人は止まった。
「…………僕」
終着点に着くと、射手矢がぽつり、と言葉を紡ぎ始めた。紫雲は黙って耳を傾ける。
「僕も…………先輩に、謝らないと」
それだけ言うと、射手矢の首はがっくりとうなだれた。
紫雲は深く深くため息をつく。肺の中に残っているものを吐き出せば、今あるこの感情も一緒に吐き出してしまえるかのように。深く、深く深く。
「…………よし、決めた。お前は今日から俺の弟子な」
返事の代わりに、射手矢の口からは短く小さな咳が聞こえて、床に何かが転がる音がした。紫雲は覚悟を決めたような顔つきで、それを大切に拾い上げた。