ここに居る意味
月面の喫茶店、そのカウンターに横並びの三人。さっきから静かになった森賀さんとカノンに挟まれながら、僕はすごすごとグラスを傾ける。なぜか問題なく稼働するドリンクディスペンサーのおかげで、グラスの中には並々とレモンティーが注がれている。いろいろと歩き回った結果、結局出口を見つけることが出来なかった僕たちは、かといって安全の保障されていない宇宙空間に歩き出すことも選べず、無為に時間を過ごしていた。
「……しかし結局、手詰まりだな」
「店内には隠し通路も無し。店の外は無限の宇宙。ここは文字通りの行き止まり、ですわね」
「ねえ。貴女が通ってきた扉、もう一度出現させることはできないの?」
肘をつく森賀さんは溜息をつき、首を横に振る。
「だからあの扉の入口側は〈禁書架〉にあるんですのよ。綿津見が私たちの居場所をどうにか探り当てて、向こうからこの座標に接続しない限りは無理よ」
カノンはその言葉を聞くとちぇ、と唇を尖らせ、また黙ってしまった。
「……〈蜂蜜酒〉はどうだろう。あれを飲めば宇宙空間を移動することが出来るんじゃ……」
僕は以前ミツと一緒に、月まで旅をしていたことを思い出していた。あの〈蜂蜜酒〉は魔術連盟の連盟員に配られているものだったはず。森賀さんなら持っているのではないだろうか、と考えたわけだ。
「〈蜂蜜酒〉はあくまで、月の連続性を利用しているだけよ。月面はあくまで経由地として機能させてい居るだけ。ここが出発点じゃ意味を為さない」
「つくづく理屈っぽいよな、魔術って」
「自分の理屈が通ってなきゃ、余所の理屈に飲み込まれるだけよ。私たちにとって理屈と論理は、自分の存在を神話から守る防壁のようなもの」
「そういうもの、か」
「うん…………。それと。これはカノン、貴女に」
森賀さんは少し目を伏せ、ぽつりと話し始める。
「貴女に言わなくちゃならないことがあるの。私がここに来ている、その理由について」
「……なにかしら」
「貴方の命、私に返してほしいの」
震える声を押し殺し、目を合わせようとしない森賀さんに、首をかしげていたカノンも、やがて顔を伏せた。その言葉の意味が分かったのだろう。僕にだって理解できた。
「そう。ならきっと私は、この瞬間のためにここに来たのね」
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魔術連盟は、そのアメーバのように定型を持たぬ自らの組織形態に苦しんでいた。このまま宇宙よりハティが飛来すれば、世界中の人間が神秘に触れてしまうのは想像に難くない。限られた者が扱えるからこその魔術。その特異性が消えてしまえば、魔術の探求は知識の優位性を失う。本来魔術師同士の緩やかな同盟に過ぎない魔術連盟といえど、この事態は看過できない。
「〈牙〉に送った使者はなぜ戻らない!」
「知るものか。クソッ、あの魔術師気取りがッ……」
「月面の防衛機構も接続できないらしい。至急現地に人員を手配しろ!」
「宇宙間移動はアルカナ級魔術だぞ。そう簡単に言ってくれるな!」
だが看過できないなどと息巻いても、それを実行に移せるかどうかは話が異なる。連盟が組織として動くには、それを先導する優秀な人間が必要だが、それに足る中央委員会つまり《大アルカナ》全員は、なぜかその書庫の扉を閉ざしてしまっているのだ。結果連盟員たちは烏合の衆と化している。部屋という部屋で会議が開かれているが、どれも方向性も検討もまばらで聞くに値しないようだ。
そんな部屋たちを横目で見つつ、歩く影が一人。
「……連盟は良くも悪くも《大アルカナ》ありきだな。あの二十二人が考えてることはいまいちつかめん」
彼の独り言に応える者はいない。やがて廊下の向こう側から小走りの男たちがやってきたため、彼は息をひそめ、その会話に耳を傾ける。
「劫壊の対応を請け負っておいて、いざ始まればこれか」
「これだから異能力者は」
「しかしハティの解放は土御門家の手引きだそうだ。我々にも落ち度があるのでは」
「《安倍晴明》の処遇は後だ。神殺しを為せる魔術、魔具、禁書、すべてかき集めろ。神格装甲もありったけ配備!」
行動を起こさないのは《大アルカナ》だけではない。ハティ観測を以てしても、未だ〈フェンリルの牙〉は沈黙を貫いているようだ。北欧神話に連なる者だけで形成された彼らは、劫壊を阻止することを目的として設立された組織であったはずだ。今まさにそれが始まろうとしているというのに、〈牙〉は誰一人として行動を開始しないどころか、連盟が送った使者すら消息を絶つ始末。
「……叡掠と歌狩がやけに急いでいたのは、こうなるのを知っていたからともとれるな。まったく、誰も彼も腹の内を明かさない」
多様な服装の人間が廊下を走り回る中、ただ一人だけ、まっすぐに人の波をかき分け、歩く男。気休め程度に襟で口元だけは隠してはいるものの、実に堂々と歩く。腰から提げた刀を隠す素振りすら見せない。それもこれも、ミツの異能の加護あってこその芸当である。
『……彼らも連盟を信用しないことにしたってこと。私たちと同じようにね』
ヤイバの耳に、ミツから通信が入る。彼女もまた別ルートから潜入しており、二手に分かれて神格装甲についての情報を集める手はずになっている。通信越しからも誰かが大声で議論している声が聞こえてくるところを聞くに、この雑多な終着のない会議は向こう側でも開かれているらしい。
『……ねえヤイバ。私たち、何を信じればいいのかな。連盟も、牙も、それに綿津見だってきっと。何かを隠してるに違いない』
「そうだな」
『…………私に隠し事、ある?」
「俺がお前に? ないよ」
『じゃあ私とあなた、同じ方向を向いているのかしら?」
通信越しに聞こえていたはずの声は、いつの間にかすぐ後ろから聞こえていた。振り返らずに、ヤイバは口を開く。
「どうしたミツ、お前らしくもない……」
そこまで言いかけて、ヤイバははたと気付く。ミツがいかに優秀な工作員であることは重々承知している。だがそもそもミツとヤイバが二手に分かれて潜入したのは、この魔術連盟が完全に隔絶した二つの区域によって構成されているためだ。その隔絶はたとえ異能による幸運でも覆されない。だとしたら……
「……誰だ?」
今自分の真後ろで、ミツの気配で、ミツの声で喋っているこの女は、誰だ?
ゆっくりと振り返る。そこに立っていたのはやはりミツだった。頭の上からつま先まで疑う余地などない。だが理屈は信用できる。感覚は信用できない。
「流石は相棒ね。ミツさんもすぐに気付いたのよ」
「本物はどこにいる」
「安心して。私の部屋で丁重にもてなしているわ。ついてきて」
にこりと笑う少女。自分が偽物だと見破られてもなお、ミツの姿で、ミツの声で話しかけ続ける姿を追いかけながら、ヤイバにはぞわりぞわり、と少しずつ、悪寒が走っていた。変装が完璧だからではない。背後を取られたことに気付かなかったからでもない。自分でない者に完璧に成り替わるというその芸当そのものに、ヤイバは痛いほど心当たりがあったのだ。そしてそのすべてを見透かしているように、ミツの顔をした彼女が振り返った。
「もう。気付くの遅いよ」
「さ……や?」
「正解だよ。じん兄」
目の前のミツは頷くと、その姿はぐにゃりと曲がる。衣服は繊維となって剥がれ、螺旋を描き、そのすべてが再構築されていく。人の形に。見覚えのある、記憶の奥底に眠っていたひとりの形に。
「……久しぶり」
現〈霧隠才蔵〉はふと笑いかける。かつて霧隠鞘として生きていた、ヤイバの実妹その人だった。
「元気にしてた?」
ヤイバは頷く。当たり前に頷いている自分がいる。今まで負い目という名の隔たりを感じていたのに、いざ目の前にしてみると言葉は自然と口から滑り落ちる。
「まあ、楽しくやってるよ」
「それはよかった。潜入任務?」
「そんなとこかな」
「肯定してもいいの? 潜入ってことはバレちゃいけないんでしょ?」
「サヤにバレた時点でそれは失敗かな。どう、そっちは……」
元気にしてた、などと問える立場ではなかったことに気付き、ヤイバは口をつぐんだ。どの口が言えるというのか。自分はサヤという個を殺したも同然というのに。サヤを殺して、〈才蔵〉の名を継がせたというのに。
「……元気だよ。魔術師としては駆け出しだけど。それにサヤって呼ばれるの久々だから、今のちょっと懐かしかったかも」
サヤはそんなヤイバの心を見透かしたかのように、笑う。サヤは昔からよく笑う子だった。今となって思い返せば、その笑顔の何割かは相手を慮ってのものだったのかもしれない。今のように。
「………ごめん、昔話はこの辺にするね。今はすべきことがある」
〈霧隠才蔵〉は扉の前で立ち止まると、そっと押し開けた。開かれた部屋の中では、テーブルの上いっぱいに広がるお菓子を一心不乱に頬張るミツがいた。ヤイバの姿に気付くと、嬉しそうに手を振る。