虚の螺旋
おうし座散開星団、とある恒星。宇宙の片隅でナイアルラは逡巡していた。土御門黒乃との盟約に基づき、彼は「色」と引き換えに、彼の領地である世界を差し出さなければならない。ではどの世界を対価として支払うか、という点が彼の現在の悩みであり、今まさに彼の目の前にたたずむ星も、その候補の一つであった。
「ですがまさか、こんな先客がいるとは…………」
ナイアルラは星を見下ろし、溜息をつく。丸い星という大地をクッションのようにして、そこには巨大な、あまりに巨大な狼が眠りに就いていた。はるか宇宙空間からでも見て取れるほどに巨大な体躯。セラエノの大きさから推測するに、狼の体長はゆうに地球そのものと同じか、それ以上であろうか。生き物と呼ぶにはあまりに規格外な存在が、星の真ん中ですうすうと寝息を立てているのだ。
「宇宙にはアネクメーネとの境界線が曖昧な地域が少なくないですが、ここもその一つでしょうか。それにしても、セラエノと縁深いかの大図書館を排してまで寝床とするとは、この狼、察するに、壊劫関係でしょうか」
少し高度を落とし、近づく。やがてその視界に幾千、幾万もの楔が映ると、ナイアルラは指先をぱちんと鳴らして、そのすべてを取り払った。
「これじゃあまるで壊劫の手伝いだ。スレイプニルに続いて、星を喰らう狼まで……」
びくん、と身体をふるわせて、狼が目覚める。その巨大な目が、ナイアルラを凝視する。
「……さっさと去ね」
ナイアルラはまるで蠅か蚊でも追い払うかのように、手をひらひらと振る。狼はナイアルラをギロリと睨んだが、特に何か手を出すこともなく、そのまま宇宙空間を飛び去って行った。
「…………まあいい。北欧神話の出しゃばりも気にかかるが、僕は僕のするべきことをするだけさ。なに、どうにかなる」
スレイプニルに、壊劫の狼。連続する怪異の侵攻に、〈フェンリルの牙〉の介入。それらの裏に何者かの意志を感じつつも、ナイアルラは星に降り立つ。地球にもたらされる厄介ごとは、朔馬さんたちが何とかしてくれるだろうとも思う。それが結果的に僕を助けることになるとしても、目の前に迫る脅威には立ち向かうだろうから。
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数時間後、ナイアルラは図書館の椅子に腰かけて、ある人物の到着を待っていた。図書館の設営は完了した。あとはこれを土御門に引き渡せばよいのだが…………その前に、一つやっておきたいことがあるのだ。やがて、石造りの扉が開け放たれた。
「はえ~、ここが例の図書館かいな」
「……来ましたか。で、約束のモノは?」
「もちろん。敵さんの本拠地で、機嫌損ねるようなことはせえへんよ」
ニッと人なつっこい笑みを浮かべたのは、魔術連盟第八席、隠者の従者、ヨッドだった。
「で、ほんとにこの図書館のすべて、俺のモンにしてもええんよな?」
ヨッドはまるで遊園地に来た子供のように、しきりにあたりへ視線を向けている。
「期限付き、ですがね」
「わかっとるわかっとる。土御門の坊ちゃん方が所有者になるまでの期間、だろ。じゃあほな、俺はたゆまぬ知識の研鑽に向かうとしますかね。いやぁ、楽しみやなァ。有史以来、この叡智に触れるのは俺が初めてになるっつーわけだ。なにせ、神の図書館だ。綿津見たちが弄ってる禁書とは格が違う」
ヨッドはのびをしながら歩くと、ナイアルラに一枚の封筒を差し出した。
「ほい、これが約束の奴な。中身の確認は?」
「要らない。もし騙せばお前を殺して、他の者に声をかけるだけだからな」
「はは、流石に弁えてるわ。でもアンタ、極度の人間嫌いって聞いてたけどな。そんなもん欲しがるとは」
「嫌いですよ。今この瞬間も、同じ空気を吸っていることに不快感を覚えています。では僕はこれで。せいぜい発狂しないよう、お気をつけて……」
ナイアルラは封筒を携えると、足元の影にぞぶりと沈んでいく。「個人情報:土御門黒乃」と書かれた、薄い封筒を携えて。
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「いい加減、いじわる止めてあげたら?」
入り口を開けて、姿を現したのは佐口だった。突然の訪問客に、学生三人は揃って驚きを隠せないでいる。
「澪、これはどういう……」
「いやね、綿津見さ、あんたらが来た時に〈扉〉を開けてやらなあかんからって言いはじめてサァ」
「おい、ちょそれは言わない約束……」
佐口がくすっと笑い、口元を隠す。
「ここ数日ずっと〈禁書架〉に泊まり込んでたのよ。何度夜食の買い出しさせられたか」
「そりゃそうだろ。俺が助けに行けって言わなくちゃ動かないようなら、それこそどうしようもない」
綿津見が悪戯っぽく笑みを見せた。
「まあ、森賀が勝算を携えてやってきたのは想定外だったが」
「なに、俺たち試されてたのかよ。こういうのビビるからやめてほしいぜ」
「啖呵切って恥ずかしいんだけど、あたし」
「でも本心なんでしょ?」
そりゃまあ……と言い淀み、顔を背ける良須賀。思わず残りの面々は顔を見合わせる。
「ちょ、なんなのよ皆して! ほら、綿津見はさっさと扉を開ける!」
「はいはい。人遣い荒いねえ」
綿津見はよっこいせと立ち上がると、つかつかと扉の前まで歩みを進める。
「先がどこに通じているかまでは判らん。朔馬とカノンを発見し次第、速やかに合流、保護し、帰投せよ」
〈水神クタアト〉を開き、その書面をなぞる。意味を持たない文字の羅列に、あるはずのない意味が見いだされていく。
「だがお前たちの安全が第一だ。異常が発生したら、速やかに連絡すること。では……幸運を」
そうしてドアノブに手をかけ、道は開かれた。口を開けた暗黒に、三人そろって足を踏み出す…………。
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「皆さん…………?」
気が付くと、森賀は独りだった。長い長い、底へと続く螺旋階段に居た。前方に目を凝らしても、後ろを振り返っても、人の気配はない。既に綿津見が開けてくれた扉は閉じているのか、ここにはなく、戻ろうにも戻れない。『異常が発生したら、速やかに連絡すること』―――わかってはいるが、異常の発生までが早すぎる。さっきから数秒と経ってはいないだろうに。
「どこなのよ、ここ」
だがおかしい。森賀の持つ、あらゆるデバイスが応答しない。電源すら入らないため、連絡さえ入れることはできそうにない。通信機器から懐中電灯に至るまで、あらゆる機械が作動を拒んでいる。であれば…………。
「進むしかない、ですわね」
降りるか登るか。おそらく、進むべきは下であろう。手すりからわずかに身を乗り出せば、どこまでも続くように見える螺旋の果てに、どうやら終着点があるようにも見えるのだ。さらに幸いというべきか、一寸先も見えないような暗闇というわけではない。手すりもやや錆びているが、比較的新しく、階段が崩落する心配もないだろう。ここはどの施設なのだろうか、どの深度なのだろうか、他の二人はどこにいるのだろうか、と森賀の頭は状況の割に冷静で、素朴な疑問がいくつも湧いてくる。二人も十分に強い。自分の身は自分で守れるだろうが…………などと考えながら。どこまでも続く螺旋の階段を、降りる、降りる、降りる。
降りて降りて、降りて降りて降りて降りて、そうしてようやく、底が見えてきた。
そこには扉があった。〈禁書架〉にあるものと瓜二つの、大きな扉。そしてその扉にもたれかかるようにして、横たわっている一人の少女。全身から色が抜けたような、アルビノの美しい少女が、同じく色のない服を身に纏い、すうすうと眠っていた。
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一方そのころ、〈禁書架〉は騒然としていた。一度アネクメーネに踏み込んだ遼と理恵も、慌てて一旦こちらに引き返している。それもそのはず。扉をまたいだその瞬間、森賀花音が皆の目の前から忽然と姿を消したためである。