縁の収束
ナイアルラの眉が怒りで歪む。いつぶりだろうか、彼が愉悦以外の感情を抱いたのは。
「土御門…………知らぬ名だな。妙な術を使えるようだが、所詮はただのヒト。僕の障害にはなり得ない!」
「さあ、試してみるか?」
黒乃が微笑むと、ナイアルラの合図で姑獲鳥が、魍魎が、狂骨が、無数の怪異が押し寄せ、攻撃に転じる。一瞬のうちに牙を剥く百鬼夜行。この世界のあらゆる怪異は彼の手足なのだ。常人ならば、眼前の光景に発狂する間もなく、怪物の胃の中に納まるであろう。空中から、四方から、地中から、体内から怪異が迫り、黒乃は百通りの死を迎える。
だがまだナイアルラは慢心しない。今度こそ、殺すと決めた相手は自らの手で葬らねば安心できない。群がる怪異ごと高重力で圧し潰す。荒ぶる力は物理の理を捻じ曲げ、彼の居た場所を起点に半径五十メートルを範囲とし、無人の街は圧壊し続ける。
「ま、その範囲に居れば……だけどね」
ナイアルラは、いつの間にか自分のすぐ後ろで浮いている人間がいることに気づいていた。しかしそれはあり得ない。周辺で瞬間移動や、それに類する事象は観測されておらず、分身やデコイ使用の痕跡もない。それはこの世界で最も神に近い存在たる、ナイアルラの目を以て明らかだった。イカサマはない。今この瞬間も怪異たちの中心で小さな肉塊になっていく、元人間の存在から見ても間違いないのだ。だが……
「どうやってそこに」
「さあ、重要なのは過程ではなく事実だろうに」
返事の隙をナイアルラは逃さない。眼光は鋭く彼の身体を射抜き、その右半身が膨張し、爆発する。消し飛んだ断面から、おびただしい量の血が滝のように吹き出した。
「ふむ、いい瞬発力だ。そろそろお試しとやらは済んだかな?」
今度の黒乃は地上に居た。未だ空からぼとぼとと落ちる自身の血を一身に浴びつつ、空のナイアルラに向けてにこりと笑う。思わず、そうまさしく思わずして、その言葉にナイアルラは身構える。
「では、反撃と行こうか」
**
深夜、二時。図書館裏口前に、二つの影がこそこそと集まっていた。そこにもう一つ、影が姿を見せる。
「おー、遅かったわね、遼」
「すまん、魔具の点検が長引いてな。そっちは準備大丈夫か?」
「私は大丈夫です。異能を失った今、調整すべきは〈宵闇の嘆き〉だけですから」
「私もまあ、問題ないかな。雨も降ってないし、〈蚊繰り線香〉も湿気てない」
三人が集まった理由は他でもなく、朔馬の救出である。射手矢に対する静観も納得いかないが、黒乃朔馬の不在もまた静観し続けられるほど、彼女らの忍耐はしぶとくはなかった。クラスメイト達の記憶操作の必要性から黒猫はしぶしぶ留守番となったが、残る同級生組、すなわち良須賀理恵、峰流馬遼、森賀花音の三人は今晩、命令違反の救出作戦を決行することにした。
「防犯カメラの細工、本当に終わってるんでしょうね」
「もちろん。そのあたりの抜かりはないわ。っていうか遼、ピッキング遅くない?」
「うるさい話しかけんな。俺だって知識はあるとはいえ、実際にするのは初めてなんだよ」
良須賀と森賀は、じっと黙って峰流馬の手先を見守る。数分の格闘の末、軋む音と共に扉は開かれる。
「よし、開いたぞ」
「……じゃあちゃっちゃと行きましょう。れっつ不法侵入、と洒落込むわよ」
「…………朔馬さんには、恩、ありますし」
「ったく、素直じゃねえなお前は。言い出しっぺの癖に」
理恵を先頭に、三人は暗い館内に足を踏み出した。最短距離で本棚の間を通り抜け、〈禁書架〉に通ずる扉に辿り着く。並行世界に移動する術など誰一人として持ち合わせてはいないが、もし考えられるとしたら、〈禁書架〉奥部にある扉だった。いつもアネクメーネへの侵入口として使用しているあの扉は由来も原理も未知で、だからこそ並行世界移動なんて大それたことができ得る可能性を残しているのだ。
「俺の見立てでは、あの扉は概念としての『扉』そのものだ。此方と彼方をつなぐ存在…………ということしか判らないが、彼方、つまり朔馬の居場所を明確に把握することさえできれば、不可能ではないはずだ」
鍵は既に開けてある。扉の前で三人で顔を見合わせると、同時に頷き、代表して峰流馬がドアノブに手をかける。そっと扉は開かれ、中の暗闇が口を開けた。部屋の電気を点ける。ここまでは予定通りだった。だが電気を点けたその瞬間、三人の計画は狂うことになる。
結果から言うと、部屋には先客がいた。電気を点けた一行の目に映ったのは、椅子に座って真っ直ぐにこちらを見る、綿津見真司の姿だった。彼は眉一つ動かさず、口元だけにこりと笑う。
「やあ。こんな夜分に揃いも揃って、忘れ物かい?」
もちろん、その目は笑っていない。初めての命令違反。三人は思わず一歩退いた。普段飄々としていて、実力も権力も定かではない彼だが、只者ではないことくらいはわかる。
「わ、綿津見じゃない。電気もつけずになにしてんのよ」
良須賀が先陣を切って慌てて取り繕おうとするが、言いくるめられるとは到底思えない。待ち構えられていた時点で、こちらの計画は筒抜けと考えていいだろう、と彼女は頭を切り替える。
「…………止まれ」
そしてその想像通り、綿津見の口から言葉が零れ落ちると、床面の一部が一瞬で蒸発した。タイル一枚分、十分にジャンプできる程度の幅だが、問題はできるできないの話ではない。これは警告なのだ。彼の能力の出力次第では、この部屋に充満する空気は一瞬で固体化する。それをしないのは、あくまで彼が無用な殺人をしないという、ただそんな当たり前な倫理観に基づいているにすぎない。
「お前たちをこのまま通すわけにはいかない。言っただろう、お前たちはお前たちで、やるべきことがある」
綿津見の指が鳴ると、音もなく扉に液体金属が群がり、幾重にも張り巡らされた鉄鎖が姿を現す。その様子を見て、峰流馬は口の中で舌打ちをした。
「……どうしてそこまで、朔馬の救出を拒む」
「拒んでいるわけではない。だが俺はお前たちのように、情に突き動かされて動くには背負うものが多すぎる。他の異能集団との調整、魔術連盟の顔色伺い、禁書蒐集……」
「無辜の人々を守るのが俺たちの役目だ、それは判っている」
「判っているなら大人しく退け。万が一朔馬の元に向かうことができたとして、帰りも同じく機能する保証はない。お前たちまで喪えば〈禁書の守り手〉は立ち行かなくなる。朔馬を信じて、彼が自分の力で帰ってくるのを待つしかない」
しばし、沈黙が訪れる。互いの意見が平行線であることは、火を見るより明らかだ。
「…………綿津見、あんた、見損なったわよ」
その静寂を破り、声を絞り出したのは良須賀だった。
「私は世界を守るなんていうこの仕事に、現実感を持って取り組めたことなんて一度もない。私が怪我をしても、血を流しても、その末に怪異を倒したからっていって、世界の均衡が保たれたなんて実感は湧いてこない。ただ魔術の家に生まれて、延々と続く不死の模索に嫌気がさして、持って生まれた異能にすがるようにここに転がり込んだだけ」
綿津見は答えない。
「でも、ここで花音や遼たちと縁を結んで、ようやく気付いたの。私たちは世界を守ってるんじゃなくて、目の前の一人を助け続けてるだけなんだって」
一生のうちに結べる縁には限りはある。世界に何億人の人間が居ても、結局ひとりひとりにとっての「世界」なんて、数えられる程度の縁のみで構成されている。
「この世界を救うなんて大層な目標掲げても、目の前の一人を見棄てなきゃ自分の世界ひとつ救えないんじゃ、ハナから救えやしないわよ!」
「縁故主義も良いが、持てるものは義務を負うのを忘れるな! これはどちらかが正しくてどちらかが間違っているという話ではない。どちらも正しいが、どちらかを優先しなければならん。どちらも選ばぬ理想論では、どちらも守れない」
「くッ…………花音、あんたもなんか言いなさいよ!」
良須賀だってそんなことは判っている。判っているからこっそり潜入したというのに。
「わ、私は…………」
促され、森賀が口を開く。綿津見は冷めた目を向けたが、彼女は意外にもしっかりした口調で、言葉を紡いだ。
「私は、朔馬さんがこの世界に無事に帰還することは、いまわれわれが直面する問題を解決する糸口になると、そう考えています」
「ほう、それはどうして?」
「彼が堕ちた世界には、カノンが、私の分身が居るはずだからです。彼女に協力を求めます」
その言葉に、峰流馬と良須賀も驚いて森賀の方を向く。彼らにとってもこの話は初耳なのだ。
「花音、お前何を考えて……」
「いいですか、射手矢裕理は死んでいます。残念ですが私たちに彼は救えません。だから彼に正しい死をもたさなければならない。射手矢君を対処し、人質となっているクラスメイト達を解放できれば、土御門紫雲の対処は容易い。そうですね?」
「ああ。で、それにカノンがどう関係する」
「射手矢君の肉体は死んでいる。黄泉の死霊術が彼をこの世に繋ぎ止めるための楔としたのは、自分を殺したクラスメイトへの怒りと、自分を助けてくれなかった世界への失望。つまり感情です」
「多重分岐人格で彼の肉体から感情を分離させるつもりか。だがお前の異能力の対象は自分自身だけじゃなかったのか」
「ええ、そうです。だからカノンを呼ぶんですよ」
森賀は自らの首に手をかける。
「射手矢裕理はミシャグジの眼をもって、私には三つの首があると言いました。それは今の私に、一柱の女神のものとして認識していた異能力を、三位一体の女神のものとして受け入れる素地があるということです。モリガン、マッハ、ネヴァン、その三柱を束ねたモリグナへと昇華したとき、私の多重分岐人格は次の段階へ進化する。つまり、カノンという他者を我が内に取り込んだ私なら、射手矢裕理から感情をはぎ取れるはずです」
「なるほど」
綿津見が声を漏らす。
「筋は通っている。お前が異能をそのように解釈するなら、カミはそのように権能を授けるだろう。だが朔馬がカノンと共に行動しているという根拠はどこにある? まがいなりにも、相手は邪神の手先だった人形だぞ。いくら彼がカノンという個を尊重しているとしても、まずそもそも向こうの世界で出会っているのか、出会ったとしても背中を預けているとは到底……」
「あらあら、綿津見もわかってませんね」
「……と、言うと?」
「だって、あの朔馬さんですよ?」