ミソロジーの落とし仔
割れたガラスを乗り越えて図書館内部に侵入する。薄暗い空気は冷え切っていた。人類がその叡智の結晶として生み出した、本という名の置物がそこかしこで埃の服を着込み、久々の来訪者である僕たちを出迎える。
「予定より時間がかかりましたね。やはりお荷物一人抱えていると、機動力に難ありです」
「そいつは悪かったよ。僕の異能も禁書も、戦闘には不向きなんだ。知ってると思うけどさ」
何かを踏みつけたような気がして、かがんで正体を確かめる。どうやら寝袋のようだ。周囲にはカップ麺やスナック菓子の袋が散乱していることから、誰かがここを籠城場所に選んだのは間違いない。入り口のガラスが全壊していることから、結果はお察しだが……。
「生き残り、居ないね」
「探してないですから。人肌が恋しいのであれば、こんなところに来ずに地下にでも潜ったらよかったのに。はいはい、どうせ私の身体は冷え切っていますよ」
驚いて顔を上げる。カノンなりに皮肉を言ったつもりだろうが、彼女のそんな人間的なふるまいに慣れない自分がまだいるようだ。
「……そういう意味で言ってるんじゃないだろ」
「ふふ、冗談ですよ。ちょっと本体みたいなことを言ってみたかっただけ」
カノンは足元の本を拾い上げると、埃を払い、棚に戻す。そのわずかな仕草が、森賀さんに重なる。
「……みんな、どうしてるかな」
「さあ。案外、もうみんな死んでいなくなってるかもしれませんよ」
「縁起でもないこと言うなよ」
「縁起も何も、この世界はそうですから」
はたと息をのむ。確かに軽率な発言だった。だがカノンは僕の発言を失言とはとらえていないようで、ただ淡々と、事実としてそれを口にしているというのが伝わってくる。
「……何が違ったんだろうな。この世界と、僕のいた世界と」
何かが違ったのだ。それは間違いない。
「……朔馬さん。何が違いであったとしても、ね」
カノンが無言で鎌を構え、躊躇いなく振り下ろす。周囲の暗闇は実体化し、バリケード代わりに道をふさいでいた本棚は粉々になった。道は切り開かれ、迷路のような図書館の奥へと僕らは進む。
「何が違いであったとしても、私たちには関係ないのよ。過去がどうであれ、ここが私たちが生きるしかない世界には変わりないのだから」
彼女の言葉を、眼を、指を、唇を見て僕は確信する。彼女は生きてきたのだ。僕が見棄てたこの世界で。僕が諦めたこの世界で、生を諦めず、ここに立っている。僕に足りないものを彼女は持っているのだ。
それを、覚悟と呼ぶのだと思う。
「…………ここね、〈禁書架〉入口」
二人で扉の前に立つ。扉を守るように、ここより先は誰も通さんと言わんばかりに、一つの遺体が残されていた。渇ききった血の海のなか、煙草代わりだろうか、見覚えのある魔具を咥え込み、安らかな表情で静かに目を閉じる少女。
「ここの生き残りグループを最期まで守っていたようですね。なんとも、彼女らしい」
それは理恵だった。良須賀理恵。縁を重んじ、おせっかい焼きで、心配性なムードメーカーの、変わり果てた姿。致命傷となったであろう胸元の無残な傷跡や、身体中に残る無数の怪我さえ除けば、つい先ほど死んだかと見まがうような、そんな姿であった。
彼女のことだ、僕が来るのをここで待っていてくれたのだろう。なにせ、ここに僕を誘ってくれたのは彼女だったから。
「理恵…………遅くなった」
僕が声をかけると、理恵の身体は埃となって崩れ去る。門番はようやく、その役目から解放された。
僕は彼女の屍を踏み越える。いま、戸は開かれる――――――。
**
「へっくしゅん!」
「なんだ理恵、風邪か?」
遼が視線すらよこさずティッシュ箱を投げつける。理恵が動く必要はなく、箱は彼女の膝の上に着地し、彼女は慣れた手つきでそこから一枚つまみだす。
「あーいや、なんだろ…………」
理恵は首をかしげ、何の気なしに入口の扉を見つめる。その前に誰かが立ってでもいるかのように。
「…………朔馬?」
その瞬間、彼女の中で何かがはじけた。理恵は迷わず立ち上がると、何かに導かれたかのように走り出し、部屋を飛び出す。慌てた遼たちがそれに続くと、当の理恵は図書館の外で立ち止まり、ほう、と空を見上げていた。
まだ明るいというのに、美しい新月が浮かんでいる。
**
黄色い彼岸花が咲き乱れる浜辺で、土御門黄泉は独り海を見ていた。生命の母たる海原には、それとおなじだけの死が満ちている。
「あまりに多くの死に触れすぎると、次第に感覚は麻痺していくそうだ。お前、どう思う?」
黄泉は、たった今隣に姿を現した土御門黒乃に語りかける。彼はとなりにすとんと腰を下ろすと、同じく海を見ながら口を開く。
「君がそれを自覚しているとは思わなかったよ、黄泉。君にとってはそれが当たり前だろう」
「私の肺はいつでも死の臭いに満ちている。私の話ではなく、あの少年の話だ」
大きな黄色い魚の死体が打ち上げられると、黄泉は大きく息を吸い、そして吐き出す。
「あの黒乃朔馬という少年、あれ、なんだ?」
黄泉の目線は、海面にゆらりと浮かぶ満月に注がれたまま動かない。月面はのぞき窓のようにある情景を映し出し、それはまさしく『図書館に辿り着いた朔馬とカノン』の姿であった。今まさに、理恵の死体を飛び越えて、扉をくぐらんとしている。
「なんだ、とはまた投げやりな。何者、と聞くならまだしも……」
「外界から完全に独立しているはずのこの世界にまで、確かな影響を及ぼす存在をヒト扱いしてられるか。お前、どうせ知ってるんだろ。知っていてあのとき私と彼を引き合わせ……」
黄泉は話をやめた。やめざるを得なかった。兄が自分の唇に、そっと人差し指を当てたためである。胡乱な目を向けると、彼はもったいぶりつつも口を開く。まるでこの瞬間を、生まれたときからずっと待ってでもいたかのように、眼を輝かせて。
「そうだな、うーん。なんだと問われたなら…………こう答えるのが正しいかな」
土御門黒乃は月に向かって手を伸ばす。そこはかつての彼の居場所。とうの昔に棄て去り、新たな主を探す玉座。
「彼は神話の落とし仔。真なる神へと至る、黒く輝く道標」
その瞬間、おそらくみなが空を見ていた。ナイアルラも安倍晴明も新崎も、この舞台に上がったすべての者が無意識のうちに月を見上げ、そしてそのうちごくごく僅かな者たちだけが、朔馬たちの姿をそこに見ている。




