猜疑と後悔、自己嫌悪
異形の悪魔が、断末魔を上げて倒れ伏す。森賀の用意した義肢は申し分ない性能で、異形退治の戦績も格段に上昇していた。ヤイバは返り血をそっと拭うと、片耳に装着したデバイスをアクティブに切り替え、口を開く。
「戦闘終了。異常はすべて取り除いた。これで、今週六件目か」
正確には、朔馬が姿を消して以後、アネクメーネの浮上が活発になってきている。浮上と言っても小規模なもので、大抵はこうして戦闘員が一人で対応できるレベルのものだが、油断はできない。些細な芽でも潰しておかなければ、後々真綿で首を絞められる事態を招く。やがて僅かなノイズが走り、通信がつながった。
「七件目だ。こちらでもアネクメーネ収束を確認している。お疲れさん、帰投してくれ」
「綿津見か。珍しいな、オペレーター役は佐口の仕事だろう」
「彼女はお客さんに応対中。ミツの方からも今しがた状況終了の報告を受けた。茶でも淹れておくよ」
綿津見は労ってくれるようだが、ヤイバはごくわずかに逡巡して、答える。
「あー、いや。俺はもう少し刀を振ってから帰るよ。腕がなまっちゃ困るからな」
「……わかった。じゃ、気をつけてな」
その返答にも多少の間は開いたが、綿津見はそれ以上追及することなく、通信を終了した。
「………………」
〈禁書架〉にて。終了した通信を眺めつつ、綿津見は独り大きくため息をつく。
「独りで抱え込むのが、お前の悪い癖だよ」
**
ヤイバは〈五輪書〉に手を添えて、その書面から刀を引きずり出す。ひと呼吸おいて、彼は虚空に刀を振り始めた。禁書の恩恵により、彼は剣術の素養を極限まで引き上げられている。どんな刀身の得物でも、柄をとれば手足のように使いこなすことができるが、それでも彼は素振りを欠かさない。だがそれは努力のためではない。
「いち、に」
無意味に口が動く。実のところ、正確な回数を数えたことはない。ただ刀を、剣を無心に振り続けることが目的になっていた。そうすれば頭が空っぽになって、いやなことを考えなくて済むから。この時間は逃避であった。
「いち、いち、いち」
ヤイバは戦闘班である。怪異と戦い、彼らを制圧する力を買われてここに所属している。だがその力は禁書に依存するものでしかない。たしかに禁書に選ばれたのは事実だが、裏を返せばただ選ばれただけである。
「……………」
彼は、魔術を持たない。手にあるのは、刀のみ。
彼は、異能を持たない。手にあるのは、刀のみ。
魔術家に生まれてもそれを継げず、かといって神にも見初められたわけでもなく、ただ偶然にも一冊の本に拾われただけ。自分が単なる一般人であるという事実に押しつぶされそうになったとき、彼は刀を振るう。素振りはいつしか無言に変わり、刀身は代わりにと言わんばかりに音を立てて空を切る。
この手の中にある刀も、所詮は自分の力によるものではない。自分は空っぽなのだ。片腕が疼く。自分に力がないゆえに、失ってしまった腕が。
「……っ、駄目だな。駄目だ、何考えてるんだ、俺」
刀は手から滑り落ち、アスファルトにからんと音を立てる。ヤイバは両手で顔を覆った。
「俺に、俺に、才能がありゃ……」
彼の脳裏には、彼の代わりに魔術を継いだ、愛すべき妹の顔が浮かんでいた。
**
「ヤイバ、いま暇か」
その翌日、綿津見はヤイバに声をかけた。
「暇なように見えますか?」
折しも、彼は淹れたての珈琲をこぼさないように机に運んでいる途中であった。ヤイバは立ち止まり、嫌味を交えて問い返す。カップぎりぎりまで注いでいるせいで、体勢維持に難儀しているようであった。
「飲み終わったらで構わん。で、どうだ。暇か?」
ヤイバは眉をひそめながら席に着き、珈琲をすする。暇か、などと聞いてくる人間は厄介ごとしか持ち込まないというのが、彼の持論であった。
「そんな露骨に嫌な顔するなよ。一つ、頼まれてほしいことがあってな」
「内容によるよ」
これといった用事は無いが、他人から暇と言われると、反発したくなってしまうのが人間というものである。
「確かめたいことがあってな。……潜入してほしいんだ」
「どこに」
「魔術連盟」
「ぶっ………」
吹き出しそうになるのをぐっとこらえて、慌てて口元を拭う。綿津見の口からその言葉を聞くことになるとは、夢にも思っていなかった。
「潜入とは、穏やかじゃないな。何かあったのか?」
「それについては私から」
応接室の扉があき、森賀が言葉を引き継いだ。隣にはデケムの従者、カフの姿がある。ヤイバと目が合い、ぺこりと頭を下げたかと思うと、その姿は霧となって消えていった。どうやらここに来ていた彼女は幻術で作り上げた端末の一つだったようだ。
「彼女からの情報提供でね。ヤイバ、あなた神格装甲って覚えてるかしら」
「ああ、あの注射器みたいなやつ。異能を外部装甲として用いるっていう……」
「そう。それを即時使用中止とするべき事情が、どうやらあるらしいの」
「技術的な欠陥か? それなら、魔術連盟から正式な通達が来るはず……」
「来ない時点で、表立っては言えない話ということになる。もちろん、カフを信じるならばの話だけど」
この様子では、綿津見も森賀も、カフを信じているようだった。当然と言えば当然であり、カフから黒猫への一方的な好意は、公然の秘密と言っていい。今回のリークはおそらく、黒猫の属する、我々〈守り手〉を案じての独断であろう。
「それを調べろと」
綿津見は静かにうなずいた。
「そういうこと。調査員は連盟とも縁が深い君と、隠密調査に向いているミツにお願いすることに…………」
「気が乗らん。それは連盟に対する敵対行為に等しい。カフが正しく、神格装甲に悪意が込められている確たる証拠でもない限り…………」
「ある、と言ったら?」
綿津見の声はいつになく真剣で、ヤイバは神妙な面持ちでソーサーを机に置く。既に珈琲は冷めつつあった。
「わかった、受けよう。すぐに準備をする」
彼は立ち上がり、ふとあることを思い出す。
「そうだ、綿津見。一つ伝えておきたいことが。あの『扉』についてなんだが……」
**
一方そのころ、野上花音は両手を首にやり、暗闇の中で物思いに耽っていた。射手矢裕理の言葉についてだ。
「首が三つ…………」
三、という数字には敏感になる。森賀花音としての異能力の起源モリガンは、姉妹とされる二神を加え、三神でひとつの存在とみなされる。花音もそれをわかっているからこそ、カラスと人形を使い魔として操ることで完全なパフォーマンスを発揮すると考えていた。首が三つとは、モリガンの三位一体としての側面をあらわしたものであろう。そしてそこに載るべき顔がないということは、中枢たるモリガンの異能力を失ったことを意味する。
三つの首に、三つの顔が載れば完全であろう。異能を取り戻し、幾重にも分裂し自立する感情たちに、ようやく宿るべき器を用意できたのなら、それは野上花音としての悲願でもある。
だがその時を何度思い描いても、一向に現実味を帯びることはない。首の一つに、どの人格を置いてもしっくりこないのだ。納得できないのだ。そこに載るべき顔は、あの人を除いてあり得やしない。
「…………カノン」
だれよりも自分であろうとした私の愛し子は、もうどこにもいない。




