母の顔
「わお、朔馬のお母さんいつ見ても美人だよね……」
「冗談抜きで忖度抜きで、二十代と言われても納得するレベルだよ」
目が合い揃って会釈を交わしながら、応接室に入っていくこよみを見つめる良須賀と峰流馬。
「一般人の家に生まれてこの世界に関わると、いざ何かあるとこうトラブルが起こっちまうよなァ」
「その点においてだけ、魔術師の家に生まれてよかったと思うワ」
「……朔馬、心配だな」
「そう、ね。それまで私たちが帰る場所を守ってあげなきゃ」
峰流馬は驚いたように良須賀を見つめ、そして笑みを崩した。
「そうだな。きっと帰ってくる」
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「ご足労いただきありがとうございます」
黒乃朔馬の母親、黒乃こよみは、一報入れてすぐに図書館にやって来た。高校生の母親と思えないほどの美貌と若さに驚きつつ、佐口は会釈する。ソファに向かい合うように腰かけると、いきなりではあるが本題に入る。一人息子が消えたという事実を、肉親には伝えなければなるまい。
「いえいえ。朔馬がいつもお世話になっております」
応接室に通された黒乃こよみは深々と頭を下げる。しかし席に着くなり彼女が言い放った言葉に、佐口は耳を疑った。
「ごめんなさいね、あの子はまだ自分の力を引き出せておりませんので」
「力、ですか?」
綿津見と朔馬本人からの報告によれば、異能力や魔術に関する話に深入りせず、それ故にほとんど事情を打ち明けていないとのことだ。学生時代の綿津見の『超能力研究』は遊戯の域を出ていなかったし、朔馬の異能力についても詮索されなかったと聞いていた。だが彼女の言い回しには含みがあった。こちらから襤褸を出さないよう、慎重に聞き返す。
「ええ。あなた達が異能力、と呼ぶ力のことですよ」
「……何の話でしょうか」
「誤魔化さなくても大丈夫ですよ、ミシャグジの瞳を持つ者」
黒乃こよみの顔に笑みが浮かんだその瞬間、佐口の目が激しく燃え上がる。彼女は知っている。知りすぎている。
「……貴女は誰ですか」
「問うまでもないでしょう。あなたにはどう見えるのですか?」
「異能力者ではないようですが、神との関わりは見受けられます。でも貴女は本人、ですよね」
佐口の目に燃える炎が揺らめいても、それでもよくわからないというのが本音だった。射手矢の件といい、自分の異能力がうまく通じない局面が続くことに、若干の焦りと苛立ちを覚える佐口であった。そしてそんな彼女の内面を見透かすかのように、黒乃こよみは優しく言葉を紡いだ。
「ええ。確かに私は異能力者には該当しません。あなた達は神の力を引き出すため、神になぞらえたアザナを名乗る。でも私は違います。私の名前は黒乃こよみ。これは私の名を隠すための蓑」
応接間の空間が一瞬で書き換わっていく。無機質な照明と天井は星々と月の煌く宇宙に。床に敷いたカーペットと観葉植物は一面の麦畑に。
「安直で愚直な偽名でごめんなさいね。私はクロノスなりしツクヨミ。あなた達が神と呼ぶ存在の一つです」
頬を撫でる澄んだ風が、足元に触れる麦の感触が、それらがまさしく本物であることを告げる。驚きで顔を上げると、ツクヨミと名乗ったその女は微笑みを見せた。その背後には、輝く巨大な満月が光を湛えていた。
「神本人、というのですか。すいませんが、にわかには信じがたいです」
応接室は間違いなく異空間に書き換わっている。現実を書き換えるなんてそれこそ神の御業だ。だが佐口は疑を投げかける。問わねばなるまい。それこそが彼女の生きる意味なのだから。その真偽を頭で理解しないことには、彼女は前に進めない。
「少し長い話になりますが、よろしいですか?」
「……はい」
一呼吸おいて、こよみは話し始めた。
「クロノスという神がいます。これが成功例です」
「何の?」
「ヒトが造りだした神ですよ。人造の神です」
「それは……神話や伝承はすべてヒトが生み出した幻想に過ぎない、という意味でしょうか。すべての神格は作り物に過ぎないと」
自称とはいえ神を名乗る存在にする話でもないだろう。こよみは首を横に振る。
「いいえ。神は実在します。あなた達も神口を知っているでしょう。神は実在し、人々はそれを物語る。ですがクロノスは違います」
「ゼウス達オリュンポスの神々の父親たるクロノスが、無から創作された神だと?」
「そうではありません。古くからギリシャの地には、確かにクロノスと呼ばれる神がいました。ですがクロノスの統べる権能は農耕。ええ、オリュンポス神族の父たるクロノスは農耕神でした」
クロノス。朔馬の異能力起源の候補として、名が挙がっていた神格だ。時間を超えて記憶を保有する朔馬との関連が考えられたからであり、この推測はクロノスが時間を司る神であることに由来していた。
「一方」
こよみは目を逸らし、かつて壁があった方に視線を向ける。するとそこには、応接室にかけてあった掛け時計が浮かんでいた。かち、かち、かち、と一定のリズムを刻みながら、針は盤を回ってゆく。風の音と針の音。二つの音だけがその空間を満たしていた。
「時間を意味する単語クロノスは、その発音上農耕神クロノスの名と極めて近しいものでした。クロノスという単語は音を媒介として二つの意味をつなぎ、時間概念の神格化をもって、ついには農耕と時間の両方を統べる神として考えられるようになった。ヒトという存在が、間違いなく神に影響を及ぼした瞬間でした。神を産みだした瞬間と言ってさえ良い」
「神を、産みだす……」
「ヒトの想像力は、ヒトの域を超えることができる。はるか昔から、あなた達はそれを確かに証明してみせたのです。私は時間と農耕、二つの権能はもとより私が司る力。二つを共通点として、創作された神クロノスと強い繋がりを持つに至りました。私がクロノス=ツクヨミと名乗る所以です」
話し終えたこよみは、横に置いた鞄からペットボトルのお茶を取り出すと、口をつける。お茶を出す間もなく話したことを若干後悔しつつ、佐口の頭の中はぐるぐると渦を巻いていた。ふざけた話だ。常人なら信じないだろう。だが佐口の目に揺れる焔は、その言葉全てが真実であることも伝えていた。与太話と真実の見分けがつかないほどには、この目も耄碌してはいまいし、私の脳も衰えてはいまい。
「……では、貴女はツクヨミ神なのですね。アネクメーネのどこかに住まうと囁かれていましたが、まさかこちらの世界にいらっしゃったとは」
「そんな急にあらたまらないで下さいな。私は黒乃朔馬の母親としてここに来たんですから」
慌ててなだめるようなしぐさをしつつ、謙遜する目の前の女性は、不自然なところなどなく人間のように見える。
「そ、そうですか。では朔馬さんの身に今起きていることも……ご存知ですね」
「理解しています。朔馬は舞台の上から見下ろす神。主体性に欠けるのが親としては心配だったのですが、独りで並行世界に投げ込まれたとあれば、良い成長の機会になるでしょう」
「帰還する方法が?」
「さあ、それは私にも。でも彼は舞台神ですから、彼がいる場所が本舞台です。本当にこちらに戻りたいと願ったなら、世界の脚本はそう書き換わり、道はおのずと切り拓かれるでしょう。あの子はそういう子です」
月光を浴びて笑う黒乃こよみには、特有の威圧感があった。威圧感と言っても敵意は一切なく、それなのに気を引き締めないと失神してしまいそうな気迫が無言の中にあったのだ。人の姿をしているとはいえ、紛い物ではない神に相対する機会など、訪れるとは夢にも思っていなかった佐口は、未だ実感が掴めずにいた。
「どうして、私にこの話を?」
「ほら、あなた面白い瞳をしているでしょう?」
「この瞳ですか? ええ、まあ私の異能力ですから」
「ああいや、そちらではなく……」
首をかしげる佐口に、こよみは言葉を続ける。
「あなたは良い目をしているのよ。異能力を使う使わないにかかわらず、あなたには本質を見定めようと努めている。そうして信念を込める目は美しいわ。だからかしら。理恵ちゃんや遼君でもよかったのだけど、彼女たちには先入観なしに、朔馬と向き合ってほしくて」
そう笑いかけると、こよみはソファから立ち上がる。その瞬間、星空と麦畑の世界は応接室に戻った。わずかに風で揺れていた髪先が、動かなくなるのを佐口は感じる。
「そろそろ私はお暇します。本来神とは遥か空の彼方で、人の手の届かぬ場所で見守るもの。人に対する過干渉は、良い結果を招きません」
「綿津見がそろそろ戻ってくるはずです。少しだけでも会っていかれては? かつてのご学友と伺いましたが」
佐口の提案に、だがこよみは首を横に振る。
「いいんですよ。会ったら彼は私ともう、友人として接してくれなくなるでしょう。あなたが私の正体を知ってから畏怖を感じているように。寂しいじゃないですか。せっかくできた友人を、失ってしまうのは辛いです。……あ」
思いついたように、こよみは付け加える。
「このことは、しばらく他の人には内緒でお願いします。もちろん朔馬にも。無用な混乱を招きたくないですし、あなたなら、話すべきタイミングを見極められるでしょう」
「その言い草……朔馬君も、神なのですか」
「それは…………あの子自身が、どう生きたいかによります。人としてか、神としてか。それを決めるのはあの子自身です。今はまだ……」
こよみは遠くに視線を飛ばす。はるか遠く、どこか彼方にいるはずの、我が子に向けて。
「あの子に、その選択をさせたくはないです」
「そう、ですか」
見上げれば、鞄を携え、黒乃こよみは扉の向こうに出ていこうとしている。彼女がこの部屋を後にすれば、しばらく言葉を交わすことはできないであろうことを、佐口は直感で理解する。相手は神そのものであり、自分たちが操る異能の起源であり、非日常の象徴だ。そうやすやすとヒトの前に姿を現してはくれない。勝手に異能を授けておいて、この非日常の戦いに巻き込んでおいて、自分たちはだんまりを決め込む。死んでいった仲間も、傷ついた仲間も、それこそ数えきれやしない。内心ではずっと、身勝手だ。傲慢だ、と思ってきた。
佐口はその背中に、声をかける。
「一つ、尋ねてもいいですか」
背中は答えない。ただ沈黙を以て肯定を告げている。
「わざわざここに来なくても、貴女は現状をすべて把握していた。なのにどうしてここに来て、私にこんな大事な話をしてくれたのですか。過干渉はしないって、さっき言ってましたよね」
やがて彼女は振り向いて、微笑みを見せる。
「ほら、大事な息子がお世話になっている人たちですから、ちゃんと挨拶しとかなきゃって思いまして」
佐口ははっと気付く。その顔はまさしく、子を想う母親のそれであった。