余波
「行きますよ。準備はいいですか?」
カノンが扉に足をかける。彼女が蹴り飛ばすのを合図に、この理科室を後にする。
「もちろん。いつでもどうぞ。というか、普通に扉開ければいいんじゃないの?」
「こういうのは勢いが大事なんですよ。なにせこれから、何百何千という敵の中に飛び込むんですから。いきますよ。3、2……」
〈金弓〉を持つ指に力がこもる。
「1、破ッ!!」
彼女が蹴りぬいた扉はそのまま吹き飛び、向かいの窓ガラスは衝撃で粉砕される。間髪入れず僕の指先から一閃の閃光が放たれ、射撃軸線の怪物が消し炭になった。
「目指すは禁書架、最短ルートで駆け抜けます!」
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昨日も今日も、きっと明日も、射手矢による王政は続いている。だというのに私たちに下された命は「待機」の二文字であった。最低限の監視は続行するものの、彼の所業については不干渉を貫くというのが上の判断だ。だがクラスメイト達の精神が限界であるのは間違いなく、いくら記憶改竄でごまかしているとはいえ、その魂に溜まる負荷は計り知れない。ついに耐えかねた黒猫が、佐口に直談判しに行くことになった。
「さすがにこれ以上は見ていられません。多少強引な手段を取ってでも、射手矢の王政を廃するべきです!」
黒猫の目の下には、うっすらと隈ができている。当然と言えば当然で、射手矢の王政の尻ぬぐい―――つまりクラスメイト達の記憶の改竄は彼女が担っているのだ。泣き叫び、あるいは震え黙り、虚ろな目をしてうわ言を吐き散らす後輩たち一人一人の頭に潜り、忌まわしい記憶に蓋をして回っている。その精神的疲弊は計り知れない。
「……そうしたいのは私としても山々だ。人道的に、今すぐにでも介入したい案件だと思っているとも。別に射手矢君の蛮行を黙認するわけじゃアない」
「だったらなんで、命令は『待機』なんですかッ!」
語気を荒げる黒猫に、佐口は努めて冷静に答える。
「なんでもなにも、これは一能力者の暴走という域をはるかに超えている。手を出すにしても作戦が必要だ。これがまず一つ」
佐口は人差し指を立てる。
「射手矢の背後には土御門紫雲がいる。土御門家の失踪した七人の一人。彼が共有術の使い手である以上、下手な行動は『非日常の無作為開示』に繋がりかねない。学校一つのレベルなら、君の異能力で記憶処理することも可能だろう。だがこの町すべてが、怪物や異能力、魔術の存在を認識してしまったら?」
「相手も魔術師の端くれ。それが禁忌であることくらいわかっているはずです。そのような事態にはならないかと」
「いや、彼は既に土御門家から離反している。魔術師同士の協定に縛られてくれているという希望的観測は、極力避けるべきだ。次に二つ目」
彼女は次いで中指を立てる。
「朔馬君が消えて二日目だが、依然彼の影も形も見当たらず、捜索は難航している。思うに、君がついてきたのはそれが理由だろう。森賀」
そこで佐口はようやく、私の方に目を向けた。見透かされているのを誤魔化すように、私はあわてて目を逸らす。
「べ、別に。捜索状況が気になっただけです」
「残念ながら、何の進展もない。君に告げるべきことは、何も」
「並行世界から帰ってくる方法について、なにか心当たりは。遼の懐中時計で再び時間遡行するのはどうです?」
私の問いに、佐口はふぅ、と大きなため息を漏らす。
「新たな並行世界が発生するのが関の山。遡行に耐えうる正気度もあるまい」
「じゃあ……」
「絶望的、だな。気が進まないが、彼の両親と話をしなければ」
黒猫もそれ以上、何も言わなかった。佐口は表情を曇らせたまま、静かに椅子から立ち上がる。彼女もやりきれない思いを抱えていることくらい、誰にだってわかっていた。
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「朔馬さんが消えた、というのは本当ですか?」
夜の学校、その屋上。ナイアルラは貯水槽の上に座り、紫雲から受けた報告にこめかみを押さえていた。珍しく怒りを抑えきれないでいる彼を見て、紫雲は内心ほくそ笑む。このいけ好かない餓鬼にも、想定外ということがあるのだ。
「ああ、文字通り消失した。より正確に言えば、この世界には存在しなくなった、というべきかな」
紫雲はなるべく感情を表に出さないよう努めながら、報告を続けた。
「協力者の異能力は、対象の罪の重さに応じて、相手を異界送りにするというものだ。大抵の人間が一生のうちに犯せる罪の量には限りがある。結果ハザマ、ないしはアネクメーネのいずれかの深度に送り込むというのが彼の能力の発現だが、あの朔馬とかいう男は度を超えていたらしい」
兄である黒乃の顔色をうかがいつつ、彼は言葉をこう結んだ。
「彼が送られた先は並行世界。彼が以前見捨て、脱出した『破滅した世界』だそうだ。彼は自らの罪への罰としてそこに送られた。罰である以上、刑期を終えれば出所できるだろうが、世界をまるごと一つ見捨てた、いや、見殺しにした罪なんて、いつ償いきれるものやら」
紫雲は肩をすくめる。ヒトの寿命で耐えうる刑期とは思えない。それぞ、罪が嘆願により減刑されない限りは。
最初に口を開いたのは、ナイアルラだった。
「僕の危惧していた事態ですよ、土御門の黒乃。朔馬さんが消滅してしまっては、我らの正しき復活は不可能です。どう責任を取るつもりですか?」
ナイアルラの影がぐにゃりと曲がり、肥大化していく。黄昏の屋上を埋め尽くさんばかりに広がる影の中、彼の威圧感は指数関数的に増加する。だがそんなことは意にも介さず、黒乃は紫音に問いかける。
「破滅した世界……。彼がバッドエンドとして忌み嫌い、切り捨てた可能性の一つか。何週目の物だ?」
ナイアルラを宥めるのが先か、兄の質問に答えるのが先か。思案の末、紫音が選んだのは後者だった。共有者の性というものか。
「さ、さあ、詳しくは。なにせ送り込んだ本人も、あいにく送り先については把握していない」
兄は一体、どこまでの事情を把握しているのだろうか。訝しみながら発したその言葉を聞くや否や、にわかに黒乃の表情は明るくなる。ぱちぱちぱち、と、わざとらしく手まで叩いてみせる。
「良かったァじゃないか、混沌の代弁者。ルルイエ浮上後であるならば、その世界は君の手中にあると言っても過言ではあるまい。世界を書き換えるピースを手にしたも同じ」
「話を聞いていたのか? そもそもルルイエ浮上が成功した世界かどうかは不明だろう。それにそこはあくまで並行世界。主人公の消えた世界は滅びるしかない以上、我々の計画に加えるわけにはいくまい」
黒乃はにっこりと笑って、屋上のフェンスを登り始める。
「だが彼は今そこにいるのだろう? であるならば、その意味は必ず存在する。それになんだ、彼がその世界に居続けるのであれば、今度はここが不要な世界となる。それを知らぬ君ではあるまい」
「……何をしている?」
フェンスを登りきり、またごうとしている黒乃に、ナイアルラが問う。
「何とはなんだ。旅行だよ。少しあちらに行かなくてはならなくなった。向こうの君に任せるのはすこし不安でね。僕は僕のシナリオがあるのだから。では、留守を頼んだよ。紫雲」
「え、俺?」
「紫雲が他にどこにいる。時に覚えているだろうか、いつだったか、黄泉が言っていたことなのだが」
悪戯っぽく口元をゆがませた黒乃は、自分の喉元をとんとんと指さす。
「言葉が喉につっかえるように、魂は喉につっかえてしまうらしい。簡単に吐き出せやしないんだと」
「…………は?」
理解できない紫雲を余所に、黒乃はフェンスをまたいだかと思うと、煙のように掻き消えてしまった。落ちたわけでもない。ただ、当然のように、夕の隙間へと消えた。
ナイアルラと紫音。取り残された二人に沈黙が訪れ、すぐさまナイアルラがそれを破る。
「……あの男、魔術師で間違いありませんか」
「なんだ、藪から棒に。土御門家を継ぐ七人が一人、尋ねることすら野暮だろう」
「まあ、一芸は持っているようですね。異能力の類は? それとも魔具の所持を?」
矢継ぎ早に問を重ねるナイアルラに、紫音は些かの気色悪さを感じていた。ナイアルラ。この得体のしれない少年は、魔術の使い手たる自分たちに対してさえ常に高圧的であり、下手に出ることは一度もなかった。土御門黒乃と黒乃朔馬。二人の黒乃を除いて、彼はヒトという種に対して優位に立ちつづけていたのだ。
「いや、無い。少なくとも俺はそう把握している」
「本当に?」
「おいおい俺を疑うのか? 真実の共有を自らに課すこの俺を?」
「弟にも秘密がある、という可能性もあります」
「いや、これに関してははっきり言い切れる。兄に異能起源は存在しない。自身が発案した異能の体外排出機構に、当の本人は一切の効果を及ぼさなかったからな」
「そうですか……ご協力に感謝します。では疑問は残るばかりですね。なぜ彼から神の匂いが……」
気色悪さは確かだった。今や、彼は見下すべきヒトに感謝さえしているのだ。それは、兄に対するナイアルラの疑心がそうさせているのだろうか。焦りが視野を狭めているのだろうか。
ナイアルラもまた、独りで何か考え込むようにして立ち上がり、貯水槽の影の中に蕩けて消えた。
「じゃ、俺も帰るかな。仕事も大詰めだ。道化の下働きも楽じゃない」
紫音も目を閉じ、ハザマに潜る。奇妙で奇怪で歪な会合は、自然消滅と相成った。




