再災会
彼女は部屋の電気を点ける。照明は殆ど切れかかっているが、無いよりは幾分かマシになった。明滅する灯りに照らされて、暗闇の中で何度も彼女の顔が浮かぶ。影はいつもより濃く、落ちる。
「カノン。君は死んだ、筈じゃ」
「……はァ?」
素っ頓狂な声を上げると、彼女はまるで簡単な算数を間違えた生徒を見るような目でこちらを見た。
「勝負に勝ったのは私ですよ。わ、た、し。その後の大厄災だって、この私が乗り越えられない筈もなく、です」
「…………大厄災って、なんのことだ」
カノンはため息をつく。深く深く、呆れを通り越して感心する勢いで、彼女は肩を落とした。
「口を開けば質問質問。貴方はいつだって、状況に取り残されてばかりね」
「たしかに。理解が追いついた試しはないな。で、ここは死後の世界かなにか?」
「は…………何故そう思うのです?」
僕はまっすぐに、眼前に立つ傀儡を指し示す。ソレはもうこの世にはいないと、確かに森賀さんはそう言ったのだ。ならばこれは幻か、はたまたその魂か、そのどちらかに違いあるまい。
「…………まだ冗談を口にする気ですか」
「これが冗談に見えるなら、勝手にそう思っておけばいい。もしそれでも君は生きていると、もしそう云い張るならば、ここは僕の知る世界ではないということを意味する。ここでは僕は、君に負けたんだろう」
振り返る。が、どこにも彼女の姿はない。代わりに立ち並ぶのは花瓶。花瓶。花瓶。
「この花は……」
ほとんど萎れるか、折れるかしている。活けられたのは少し前のようだ。
「……さあ。貴方たちは死者に花を添える習慣があったと聞きましたので、その類と解釈していました。生憎私が備えたものではありませんので…………」
カノンの返事を聞いてさらに混乱する僕をよそに、彼女はつかつかと歩み寄る。左手で僕の顎をひっつかむと、まじまじと顔を見つめた。じいっと見入る両目は食い入る様に瞳の奥を捉え、右手には〈宵闇の嘆き〉が引き抜かれる。
「貴方、自分の置かれてる状況……判ってます?」
試すような声。そして懐疑の目。美しき鎌の切っ先は月明りを反射して揺らめき、僕の背筋を凍らせる。彼女と僕との間に深い深い誤解の溝があることを直感しつつ、僕は首を小刻みに横に振った。
「……まったく、今になって何しに来たんだか」
「うわ、ちょ」
彼女はそのまま僕の胸倉を掴むと、引きずるように教室を出た。廊下に出ると、窓の外には月が見える。
「ま、待て。いったいいつの間に夜に……」
元居た世界では、まだ昼の十二時も回っていなかったはずだ。
「……シッ、静かに」
突然、彼女が僕の口を無理やり押える。もごもご、と続く言葉が潰された。
足を止めた彼女が、ゆっくりと指を唇の前に持っていく。廊下の奥から、異音が聞こえてきた。
ケケケケ、ケケケケ。
不気味な笑い声のような、甲高い音。それは少しずつ近づいてくる。
「静かに。奴らは聴覚に反応するわ」
「だから一体何が------」
そこまで言いかけた時、カノンは僕を廊下に押し倒した。背中を叩きつけられ、鈍い呻きが口から漏れる。直後、彼女の真上を、何か槍のようなものがかすめた。
「------ッ!」
歯を食いしばるカノン。鎌を逆手に持ち変えると、その口から呪詛が吐き出る。それは、廊下の奥でうごめく何かに向けられた。
「先兵ごときが、私の道を遮るか」
切っ先から黒い雫が滴る。それが闇夜に溶けたその瞬間、暗闇から無数の黒針が突き出た。その全てが何かを捉えると、身動きの取れなくなったそれに向かってカノンは瞬時に距離を詰め、その鋭利な刃を振り下ろす。切っ先は確かに何かを捉え、ドサッと音を立てて床に崩れ落ちた。
倒れ伏したそれは、白くてぶよぶよとした生物。巨大なヒキガエルのような身体つきだが、皮膚はゼラチンのように揺れ、てらてらとぬめり気がある。首から上に頭はなく、代わりにピンク色の触手が蠢いていた。
「ケケ、ケ」
「煩い」
刃が飛び、触手は根こそぎ刈り取られた。ゼラチン質の怪物は何度か痙攣し、そのまま動かなくなった。
「さァ、立てますか?」
「え、ああ……」
腕を引っ張ってもらい、立ち上がる。
「助かった。今のは……」
「月の獣。あの混沌に仕える奉仕種族です」
「ムーンビーストって、そんなの聞いたこと……」
直後、僕の頭のすぐ後ろの窓が割れ、生体組織で出来た槍が突き刺さる。
「もう補足されたか…………。戦っても無駄です。走りますよ」
「さっきみたいに倒せば……」
「外を良く見なさい。まだ同じことが言えるなら…………ぜひ貴方一人でどうぞ」
咄嗟にかがみ、窓枠から少しだけ顔を出す。ここからは向かいの校舎が見えるのだが、その壁がどうも蠢いているように見える。コンクリートにしては白く、そしてどこか滑やかに、月の光に反射している。
「あれ、まさか全部」
「ええ。わかったら急ぎますよ」
駆け出した傍から、僕の元居た位置に槍が突き刺さる。歩みを止めれば、次の瞬間どうなるかは明白だろう。
**
床に空いた大穴はみるみるうちに小さくなり、今や針の先ほどの点になった。会話の中心は当然のごとく、その下に落ちた黒乃朔馬の話であった。
「朔馬もアネクメーネに送ったのか。生憎だが、そんな程度じゃアイツは死なないぞ」
峰流馬が苛立たし気に机の天板を爪で弾く。その視線は射手矢に注がれたまま動かない。
「死刑だけが罰じゃない。別に殺すために異界へ送ってるわけじゃないんですよ、こっちは」
「そもそも何の罪なんだ。あいつは一度世界を救っている。その大義のためにやむなくルールが破られても、よほどのことでない限りは咎めるべきじゃない」
「そのために人が死んでも?」
「朔馬は誰も殺していない。断言しよう。あいつはそういう終わりを善しとしない。選ばれたこの世界で、彼が見て見ぬふりをした犠牲などあるはずがない」
『まあ、まあ。双方落ち着こうじゃないか。このお茶でも飲んで…………って飲めるのは僕だけか。じゃ遠慮なく』
ずずずず、と茶飲みをすする音がスピーカーから流れだす。
「時間遡行を勘違いしているようだね峰流馬君。たとえ魔具を用いようと、時計の針を弄った気分になっているのは自分だけと云う事だよ。それはつまり、未来は都合よく上書きしたりなんかできない、ということだ」
峰流馬がポケットから懐中時計を取り出す。それは単なる時計ではない。黒乃朔馬を幾度となく過去へと運んだ、おそろしい力が込められた魔具だ。
「決して自分で使うな。時が来たら、渡すべき人はおのずと現れる。それまで持っておくこと。……これを渡されたとき、俺はそう念を押された。だから過去の俺があいつにこれを渡したというのなら、それは来るべき時が来たということを、意味する」
「過去の君?」
「そうだ。昨年末の戦いで、俺は朔馬にこれを譲渡したそうだ。だからあいつは時を越えて、いま未来を書き換えるに至った------」
「ほう、ではその記憶が君にはあるかい?」
紫雲の問いに、峰流馬は一瞬返答に迷った。あるわけがないのだ。結果として、その未来は回避されたのだから。だからこそこの時計はいま黒乃朔馬ではなく、峰流馬遼の手元にある。
「だが黒猫の異能力で封印されていた朔馬の記憶では、間違いなくそういう事実が存在する。ならばそれが真実だろう」
『そう。確かにそれは起こった。峰流馬遼。君は良須賀理恵とともに死に、そして黒乃朔馬は過去からのやり直しを始めた。本題はここからだ。そのあと、取り残された君たちの死体はどうなったのだろう? 時間の逆行は、本当にすべての事実を無かったことにするのか?』
まさか、と良須賀が声を上げる。
「朔馬が消えても------」
『その通り。彼の時間逆行とは、行き止まりになった世界を見捨てることだ』
**
「面白い話でした。あの日、貴方は過去へと逃亡することに成功した。そこで貴方は私を打ち負かして年末を過ごし、日常を取り戻して同じく三月二十四日を迎えていた、と」
「平たく言うと、だ。まさか夢にも思わなかった。時間遡行とは、文字通り時間を巻き戻すのだとばっかり」
「どうやらそうではないようですね。時間遡行というより、パラシュートで緊急脱出しているような感じでしょうか」
僕はカノンに連れられて、理科室の中に隠れている。ここにはいくつかの薬品が保管されているから、もしもの時に反撃の手段になり得るというのが判断の理由だ。
「ふむ、荒唐無稽な話ではありますが……信じましょう」
「え、ほんと? 正直、僕が逆の立場だったら信じないよ」
「姿を消してから数か月間、考えに考えた言い訳がこんなバカげた話だって方が信じられません。なるほど、ある種の並行世界、とも言うべきでしょうか。その魔具を用いると、世界線がコピーアンドペーストされる。そしてそのまま、新しく複製された世界の過去時点へと降り立つというのが内情でしょう」
カノンの説明で間違いがないなら、この世界では理恵や遼たちは、もうとっくの昔に死んでいるということになる。ここは僕が、見限った世界だ。
「でも、どうしてカノンがあの月の獣たちに襲われるんだい? それに、大厄災ってのは一体……」
カノンの顔に目を遣ったが、彼女の神妙な面持ちに気圧されて口をつぐむ。彼女の顔は、今まで見たことがないほど真剣なものだった。
「そうだな、なんでも聞いてばかりは申し訳ない。自分で考えることに……」
「いえ、その必要はありません…………黒乃朔馬。貴方のおかげで、私に一筋の光が差し込んだように感じます。だからこそ知ってほしいのです。貴方がこの世界から消えた後、何が起こったのか」
カノンが僕の手を取る。かりそめの肉体に宿る、正伝という確かな存在。
「ここは、混沌の支配する世界です」