目覚め
「……おかえり」
そこにはただ一人、仁王立ちする森賀さんだけがいる。右に同じとばかりに、カァ、と一鳴きするネヴァンも一緒だ。教室にいるのは彼女ただ一人。
「災難、だったわね」
その目の色は、彼女が既に事情を把握していることを物語っている。
「まあね。それより、他の皆は?」
ここには生徒の姿どころか、鞄も一つも残っていない。今になって、教室に戻るまでの道中でも、あれほど大量にいた野次馬と誰ともすれ違わなかったのに気が付く。
「帰ったわ」
森賀さんが指さす先、グラウンドの向こうを見ると、列をなして下校する生徒たちの姿が見えた。
「教室の様子は中継されていた。異能や魔術の話もすべて筒抜けよ。今やこの学校に、その存在を知らない者は居ない」
彼女の視線は、教室備え付けのスピーカーに移った。
「紫雲の嫌がらせね」
その時、マイクがオンになる。
『嫌がらせ? だーかーらー、違うんだってば野上の嬢。僕は情報の共有をしているだけだ』
「魔術の根幹はその神秘性でしょ。周知されるぶんだけ弱まるのよ」
『どうだろうね。それは君の家がそうなだけだろ』
スピーカーから流れるのは紫雲の声。森賀さんとの間に、明らかに会話が成立している。
「中学の教室でも朔馬の声を拾ってたよな。どっかにマイクでも隠してるのか、それとも……」
「十中八九、彼の魔術でしょうね。超感覚的知覚も魔術の一種よ」
超感覚的知覚。透視や千里眼、それにテレパシーの総称だ。
「実際にあの場にいた俺たちは自分の視覚に上書きされたが、そうでない者にはテレパスを経由して映像が見えていた、という解釈で良いか? 紫雲が言った『見えるだろうか』ってのは聞き間違いではなく、文字通り------」
森賀さんは頷く。ほう、と感心する吐息がスピーカーからも漏れ出した。
「百聞は一見に如かずと言うでしょう。この十分足らずで、ほとんどの人間が魔術や異能を事実と認知したわ。いま黒猫が……」
『ふゥん、あの子ヘイミャオって……』
「貴方はいちいち茶々を入れないでくださいますか!?」
森賀さんの一喝で、紫雲はおとなしく口を閉じた。代わりに存在を主張するかのように、名前は知らないが聞いたことのあるクラシックを流しはじめる。
「いま黒猫が、全員の記憶に蓋をしています。一年C組……射手矢君のクラスメイトは依然あの教室の中ですが、その他についてはもれなく処置中です。まったく、機密保持もあったものじゃない」
「理恵は?」
「〈安倍晴明〉に報告。二人目を発見した訳だし、一応ね」
僕と遼が適当な席に腰かけると、森賀さんも近くに椅子を引っ張ってきた。
「紫雲に盗み聞きされているのは癪ですが、仕方ありません。会議に移りましょう。……これから、どうするつもりです?」
唐突な質問に、僕と遼は顔を見合わせる。
「……とりあえず、どうにかしてもう一度話す機会を……」
「話して、どうするの。ゆっくり腰を据えて話したからといって、どうにかなると思う?」
僕の代わりに、遼はぎこちなく、首を横に振った。
「気休めで何かやったって、状況は好転しないのよ。判ってると思うけど……」
「判ってる……けどさ、見捨てるわけにも」
僕が目を伏せったのを見て、森賀さんは語調を強める。
「まさか、朔馬さん…………助けよう、などと考えていませんよね?」
彼女はこれ見よがしに溜息をつく。
「彼はもう死んでいるのよ。残念ではあるけれど……」
**
「彼はもう死んでいる。だが興味深いことに…………」
校舎の屋上のフェンスの上に、危なっかしく腰かける少年が呟いた。彼の被るカーキ色の軍帽が、突如吹いた風に飛ばされていく。
「彼は動いて、喋って、笑って、怒って、自分の意志で動いている。それはもう、生きていると言っても差し支えないのでは?」
彼が見つめる先には、屋上の床をぼうっと見つめる土御門黒乃の姿があった。彼の視線は一点を見つめたまま、微動だにしない。
「だが…………心臓は止まっている。黄泉の…………魔術は死霊術であって…………死者蘇生ではない。術の効き続ける範囲だって限られている。人間は未だ…………死神を騙せない」
「……」
ナイアルラは、その虚ろな目をぼうっと覗き込む。ここのところ彼と行動を共にしているが、土御門黒乃という人間を未だ掴みかねているナイアルラであった。土御門黒乃ははつらつとした好青年のようでいて、次の瞬間には絶望の淵にたたずんでいるような振る舞いを見せる。一人称もころころ変わるし、ナイアルラへの態度も一定ではない。どれが本当の姿なのか。きっとどれも偽物なのだろう。
彼から視線を外すと、振り返り、ナイアルラは景色に向かって眼を細める。その視線の先には、教室で机を囲む朔馬たちが小さく映っていた。向こうがこちらに気付いている様子は無い。
「今この瞬間…………」
眼光炯々、唇をギッと噛む。
「彼らに手を下しても良い。毎度毎度、飽きもせずに邪魔ばかり。朔馬さん以外は僕の計画には不要だ。ここで殺してしまった方が全体の都合はいいか……?」
思案するナイアルラは突如足首を掴まれ、言葉を中断した。鬼のような形相の黒乃が足元にいた。
「やめておけと、言ったはずだ」
彼が一語一語を発するたびに、フェンスがどんどんと錆びていく。
「能力者びいきですか。人殺しに躊躇はないくせに、彼らに手を下すことは執拗に拒否する。何か理由でも?」
「僕と君は契約関係であって同盟ではない。手段は同じだが目的は違う。それを忘れたか?」
「だが、君の弟妹たちがうっかり殺してしまうこともあり得るだろう。その時も介入するつもりか?」
突如視界に、覗き込む目が二つ。黒乃はいつのまにかナイアルラの横に腰かけ、その顔を虚ろな目でじいっと見つめていた。足首には、まだ掴まれる感覚が残っている。そろりと目を落とすと、そこには死後硬直した手が張り付いていた。黒乃の腕は……当然のように二つとも健在だ。では、この腕は?
それよりもなによりも、真の神性たる自身に気配もなく接近したことに一抹の不快感を覚え、だがそれを悟られないよう、顔色は一切崩さないように努める少年。
「……判った。君は君の好きにすればいい」
その返事に満足して、青年はにっこりと笑った。
**
『黄泉の死霊術には有効範囲がある。理科室を中心として、ちょうどこの街全体ほどを囲む巨大な円。彼はそこから一歩でも外に出れば……』
「射手矢は死体に戻る」
紫雲の介入は積極的だった。あまりの口うるささは、しびれを切らした遼がスピーカーの電源を切るほどだったが、それでもどこからか話しかけてくるので諦めた。とはいえ悪い話だけではなく、彼は僕らの疑問にも素直に答え、時に重要な情報さえも口にする。
「成程、射手矢悠里に関しては、おおまかに把握した。……だがそもそも、どうしてお前がそれを教える?」
『それが僕の信念だから、と言えば答えになるかい? 共有術は文字通り、魔術を介した情報の伝達だ。今は仕方なく伝達方法を放送に制限しているが、本来はあらゆる情報を収集し、あらゆる情報を共有する』
「プライバシーもなにもあったもんじゃないな」
当たり前だ。と彼は鼻で笑った。
『魔術の到達点を知っているだろう。不老不死、その実現だ。僕の共有術も例外ではない。感情も、思考も、知識も、すべてを全人類で共有する世界を思い描くと良い。その理想郷において、個の死に意味はあるだろうか?』
「お前が目指す不死、集合精神か……」
遼がそっと呟く。
『そうとも呼ぶ。そしてその核となるのが共有術だ。全が個として存続することで、僕達は不死となる』
「お前が推進する王政とは、まったく相反するように見えるが?」
『まあね。でも虚飾も傲慢の一種だよ。それで僕の役目は果たせる』
その時、がらりと音を立て、教室の扉が開いた。理恵か黒猫かが返ってきたのかと思って振り返る……が、そこにいた人物はそのどちらでもなく、まったくの予想外だった。
「取引をしましょう、先輩」
扉にもたれかかって、腕を組んでいる彼は射手矢だった。そこからさらに動く気配はないようだ。僕達の間で、微妙な距離感が生まれる。
「クラスメイトを解放します。精神も限界なのか、もうまともに喋れるのも少なくなってきたので。記憶を消去して、一旦家に帰してやってください。さっきムラサキさんに聞きました。そういうこと、出来るんですよね?」
ちらりとスピーカーを見る。どうやらこちらの話も共有されていたらしい。静かに頷く。
「そっちの要求は」
「終業のチャイムと同時に、消した記憶が蘇るようにすること。最終下校のチャイムでまた忘れ、翌日の終業のチャイムでまた思い出す」
「それは危険すぎる。狂気は蓄積するんだ。いつの日か完全に壊れてしまうリスクだって……」
僕は懸念を口にしたが、射手矢君は一蹴した。
「どうせ最終下校になったら忘れるんです。廃人になるのはたかが数時間ですよ」
鼻で嗤う射手矢に、森賀さんが呟く。
「貴方、最初に会った時とは打って変わって、すっかり王様気取りね」
「なんとでも。彼らはたかが数時間の苦しみですが、一生死に続けるんですよ、僕は」
彼の言葉には重みがあった。教室を静謐に包むだけの重みが。死はそれほどに強い意味を持っている。
僕は彼にどんな顔を向ければ良いのだろう。たった数週間前まで、僕は誰かの死を嫌って時間遡行を繰り返していた。森賀さんが死ぬのは嫌だ。遼や理恵が死ぬのも嫌だ。なのに事件は一旦解決したからって、射手矢君の死は仕方ないと、そう割り切るのか?
「なあ、射手矢。聞いてくれ。僕は、実は時間を------」
「知ってます。教えてもらいましたから。そりゃ、ちょっとは思いますよ。もし他の世界なら、僕はいじめられたりもしてないし、殺されたりだって、きっとしなかったんじゃないかなって。もしも先輩が、他の未来を選んでいたらって。なんで割を食っているのは僕なんですか」
「だから巻き戻せば……」
「それじゃ意味ないんだって! なんでわかんないんですか。僕が死なない世界に先輩は行って、そこで良かったねって話して、そりゃ先輩は満足でしょうよ。でもそしたら、死んでる僕はここに取り残されたままなんですよ!」
射手矢が涙をぼろぼろと零しながら、地団太を踏む。床のタイルは黒く変色し、虚無へと続く大穴に変貌する。
「もう我慢できない。僕とは直接関係ないって割り切るつもりだったけど、僕まで犠牲者にするつもりなら話は別です。世界を救った気になってへらへらと生きて、どれだけの人間に恨まれているか。どれだけの罪をお前が背負っているか、その目で見てくればいい!」
大穴はすぐ足元まで広がってくる。急いで重力に抗おうとするが、そのとき穴から白い腕が伸びて、僕の足首を掴む。
「なッ------」
振りほどこうとするが、強い力に引っ張られ、僕はとうとう椅子から転げ落ちた。
真っ逆さまに、地獄へ落ちていく。
**
薄暗い教室の中で目を覚ます。同じ教室。僕の教室だ。でも座っている場所はさっきとは違う。ここは僕の机で、それに机の上に何か置いてある。つるつるしていて、陶器製の、何か筒のような…………。
「これは…………花瓶?」
花瓶には、大きく白い花が活けられている。まるで死人に捧げる花だ。射手矢君は僕を地獄に落とすと言った。ここが地獄なら、僕が死んでいるのは道理だろう。
だんだんと目が眩闇に慣れてくる。そのうちに気付くことがある。花瓶が置いてあるのは、どうも僕の机だけではない。
全てだった。全ての机の上に、花が置いてある。遼の机の上にも、前の理恵の机にも、森賀さんの机にも…………。
「もしや…………貴方は朔馬さん、ですか?」
がらららと扉が開き、教室に、廊下の灯りがすこし差し込む。その声はどこかで聞いたことがあるような、森賀さんによく似た、でもどこか違う女性の声。いや、まさかそんな筈は。
「今の今まで、一体どこに隠れていたのですか? てっきりどこぞで、怪異に喰われて死んだものだと……」
「…………カノン、なのか」
振り返る。そこには一人の少女。影になって顔は見えないが、その出で立ち、見間違えるはずもない。腰まで伸びた長い髪。その背中に携えているのは、魂まで刈り取るような大鎌。それは間違いなく、彼女だ。
「ええ、そうですが。なんです、死人でも見たような顔をして」