はじまりの夢
荒い息を吐きだし、暗い路地を走る。擦りへった靴底がコンクリートを踏みしめる感覚は気味が悪いほど鮮明で、これが夢だということを、うっかりすると忘れてしまいそうになる。夜の闇にとろけるような路面から、ひんやりとした空気が舞って、くるぶしをそっと撫でる。
そう、だがこれは夢だ。どれほど五感が刺激されようが、どれだけ胸騒ぎがしようが、結局はただの夢に過ぎない。僕が一日の終わりを迎え、さきほどベッドにもぐった事実は変わらないのだ。明晰夢はどれだけ鮮明でも、夢である以上現実以上の意味はない。だがここが夢かどうかに関わらず、僕は走り続ける。見慣れたコンビニの横を駆け抜け、去り際に横目で見るが、中に人影はない。二十四時間営業を知らせる電光看板が、不気味な明滅を繰り返す。
突然視界が上を向いた。見上げる空は紫。縁起が良いやら悪いやら、妖しげな夕焼けのような光に、僕はなにか漠然とした不安を覚える。それは何かの前兆か、はたまた終わりの合図か。一定間隔で横切る電柱には、爪痕のような切り傷がいくつも見えている。頭上の電線はところどころ千切れて火花が散っており、間違いなく街に異変が生じていることを告げる。だがそんな異様さに立ち止まることなく、僕は無言で走り続ける。そう、立ち止まってしまっては追いつかれると、言わんばかりに−−−−−−。
十字路を右に曲がり、走りながらズボンのポケットに右手を滑らせた。すぐに指の先に当たるのは、冷んやりとした金属のような感触。小さな箱状のそれを握りしめると、ゆっくりとポケットから取り出し−−−−−−。
そして、はたと足を止めた。
視線の先、路地の奥には、見覚えのない一人の少女。電灯に照らされ、足元に濃い影が映っている。長い黒髪が月光を反射し、風に吹かれてかすかに揺れた。
「見つけましたよ朔馬さん。毎度毎度、鬼ごっこが下手な人ですこと」
そう言って歩み寄り、彼女は笑顔を見せる。細い左手をゆっくりと前に差し出すその動作は、有無を言わせぬ強い圧力を、無言のままに添えていた。
「さあ、そろそろ疲れたでしょう。はやく−−−−−−」
諦めなさい、と凛と張った声が響く。僕は一歩ずつ後ずさる。ゆっくりと首を横に振ると、乾いた唇を開けて声を発した。
「−−−−−−ここで諦めたら、今までの僕たちの苦労も意味がないだろ。次、次こそは必ず止めてみせる」
僕は足が震えている。腕もだ。彼女にそんな弱気を気付かれないよう、力を込めて前を睨む。すると、言葉を聞いた少女の表情が強張った。目を細めて、呟く。
「そう、また世界を無駄にするつもりなのですね。なんとまあ強欲で、傲慢なこと。これでやっと、私が全て壊してあげられるというのに」
左手を下ろしながら発するその声はか細く、だが強い怒りがこもっていた。彼女の頰が幽かに紅潮する。うつむいて一息ついた後、彼女は覚悟を決めたように髪止めを取った。
「貴方だって、そろそろ終わりを望んでいるはずです。この狂気と恐怖の連鎖から逃れたいと」
澄みきった目が紅く濁っていく。空気はさらに冷え切ってゆき、影はどこまでも長く伸びて伸びて、僕の足元まで達した。
「貴方にも言っているのですよ。そろそろ見えはじめる頃合いでしょう、 次の朔馬さん?」
次の。その言葉が指し示すものを、僕は直感的に理解した。僕のことだ。今少女と向かい合ってる夢の中の僕のことじゃない。僕を通して夢を見ている、この僕自身に彼女は問いかけているのだ。彼女の射抜くような視線に射抜かれ、焦りだけが頭の中をめぐる。得体のしれないこの少女は、僕が夢を通してこの景色を見ていることを知っているのだ。
一方の僕の身体は依然口を閉ざしたまま。ただ風の音だけが聞こえ、何も言わず、いやおそらく何も言えずに少女を睨みつづける。
「……いいでしょう、無言は肯定と見なします。あなたに付き合ってあげることにしますわ。なんといってもこれは遊戯。貴方がもう一度やり直すというのなら、私にも一度手順が回ってくるということ。次こそは決着をつけます。貴方がさらに一歩、狂気へ近づいたスタートを切る次こそは」
僕もやっとの思いで、唇を動かす。
「……問題はない。大切なことは全て猫に託している。狂気とやらが僕に追いつこうとも、人形如きには邪魔させないさ、次こそはな」
僕はそう言い放ち、今度は胸ポケットから、真鍮製の懐中時計を取り出した。チェーンを握り、目線の高さまで時計を持っていく。針は逆行している。ぐるりぐるりと止まる気配もなく、秒針と長針が短針を追い越す。
僕の仕草を見ると、少女の表情が曇った。諦めたように首を振り、やや不機嫌な目で僕を見据えると、彼女は今度は右手を前に突き出す。そして−−−−−−。
「遺言は以上ですね。では、ペナルティを与えます」
直後、腹部に一瞬の冷覚。続いて痛覚が身体を駆け抜けた。あつい、いたい、で頭の中が埋め尽くされていく。涙の滲んだ視線を落とすと、一本の黒く鋭利な刃が腹に刺さっている。お気に入りの白いパーカーが赤く染まっていき、感覚のすべてが麻痺する。ナイフ? 包丁? いや違う。少女の袖から、黒い刃が突き出されているのだ。まるでそれ自体が意志を持っているかのように、正確に腹部を貫いている。
「では朔馬さん、また会う日まで」
さらに追加で、2本の黒い刃が体を貫く。つぎは右脚と、左肩だ。痛みから僕は絶叫する。だが夢の中の僕の喉からは、かすれたうめき声しか出ていない。叫んでいるのは夢を見ている僕だけだ。痛覚まで正確に共有されている事実に舌打ちしたくなるようなリアルさだった。
バランスが崩れる。腹部がどんどんと熱を帯びていく。膝をつくと、口から咳とともに血が溢れた。痛い。こんなに痛いのは生まれて初めてのような気がする。いや、気のせいだろうか。僕は前にも、もっと痛い思いをしたような−−−−−−。
地面に体が打ち付けられた衝撃で我に返った。九十度に傾いた視界の中を、赤い液体が広がっていく。出血は止まらない。さすがの僕でもわかる。これは致命傷だ。
少しづつ霞んでいく意識の中、僕は救急車も助けも呼ばず、ただ両手に力を込めた。右手には、先ほどポケットから取り出した立方体。左手には懐中時計。夢の中の僕には自分の行動に主導権は無い。倒れ伏した僕が、血で粘つく口を開けるのを見守るのみ。それは誰に言うのでもなく自分自身に言い聞かせるようだった。
「次こそは……」
ゆっくりと、僕の意識が途絶えていく。
「次こそは、上手くやれ」
少年は最後の力を振り絞り、血に塗れた手で時計を握りしめ、意を決して舌を噛む。
**
目が覚めた。
シャツはぐっしょりと汗で濡れ、おまけに不快感が全身に張り付いている。幸い目は冴えている。たった今見た夢の意味を、僕はこれから知らなければならない。
これは予知夢だ。なんていったって、僕は予知夢を見る体質なんだから。