不幸の前借り
「お願いします。どうか……」
少女が私に頭を下げる。
「……前借りをさせてください」
「そりゃあまあ、やってやれないことはないが……」
下げた頭は微動だにしない。その姿勢から決意の固さは嫌でも伝わってしまう。
「とりあえず顔を上げてくれ」
私の言葉を受けて少女はゆっくりと頭を上げる。姿勢だけでなく、その表情からも窺えてしまう固い決意に心が痛んでしまう。
「しっかりと考えたのか?」
「はい。気持ちは変わりません」
「当分は苦しくなるぞ」
「大丈夫です」
「誰かに相談したのか?」
すると少女はふと目を逸らし、ギリギリ聞こえるぐらいの声で呟いた。
「……それが出来るのなら、そもそもこんなお願いしませんよ」
冷たくそう吐き捨てた少女の視界は一体何を捉え、何を映しているのだろうか。
「……わかった。いいだろう」
「ありがとうございます」
少女は深々と頭を下げる。先ほどまでの気負った表情に、ほんの少しの晴れ間が覗いた気がした。
「……私、面倒なことや嫌なことは先に済ませておきたいんですよ。先延ばししても嫌な気持ちが増すばかりで、何も解決しませんからね。それに、後に楽しみが残っているというのは、励みにもなります」
少女は自分の右の手のひらをジッと見据えた。
「夏休みの宿題を早めに終わらせたり、大好きなお肉より大嫌いなピーマンを先に食べたり」
そして親指、人差し指と順に折りたたんでいく。
「試験勉強には早めに取り掛かりますし、自分の買い物よりお使いを優先させます」
中指。薬指。
「そして、今回も」
残った小指を、少女は優しく折りたたむ。
「そういう選択をしようと思ったんです」
少女は自ら握り込んだ、招き猫を想起させるような拳をそっと散らした。
ゆったりと、しかし力強く。
少女はささやいた。
「それが私の、生き様なんです」
○
それからしばらく時が流れ、少女が再び私の元へやってきた。前に会った時よりもずいぶんやつれていたが、その顔から後悔の念は感じられなかった。
「あとひとつですね」
「……ああ、あとひとつだ」
「ようやくこれで、夏休みを満喫できます」
「そうだな」
「大好きなお肉を味わえます。万全な状態で試験に臨めます。買い物にだっていけます」
「そうだな」
「そういうことなので」
少女は目を閉じる。
「お願いします」
私は少女の顔に手をかざす。すると少女の華奢な体躯はそのまま崩れ落ちた。
「一度に面倒事を片付けるだけじゃなく、良いこと嫌なことに一喜一憂する生き方だってあるのになあ」
生き様なんて言葉を持ち出されたら、止められるわけがないじゃないか。
○
『どうか、これから私に起こる不幸をすべて前借りさせてください』
それはすなわち、一生分の不幸をまとめた沼に飛び込むということだ。
『当分は苦しくなるぞ』
一生分の不幸を前借りするということは、一生分の幸福を後回しにするということだ。
『……私、面倒なことや嫌なことは先に済ませておきたいんですよ』
世界に絶望した少女は、その絶望した世界でのちに起こる不幸をすべて背負い込んだ。
『先延ばししても嫌な気持ちが増すばかりで、何も解決しませんからね』
先延ばしを嫌う少女は、現世で起こる『死』という最大級の面倒事さえ背負い込んだのだ。
『それに、後に楽しみが残っているというのは、励みにもなります』
安らかな顔で横たわった少女をみると、励んだ甲斐はあったのだろうと思う。
「せめて」
今度は少女に両手をかざす。すると少女の身体はスーッと消えていった。
「せめてこっちで不幸を前借りした分、向こうでしっかり幸福を返せよ」