きっとまた会えますよ
「おかえりなさい」
家のドアを開けると、玄関にクリスがいつもどおりの笑顔で立っていた。
「恭子さん。具合はいかがでした?」
「うん。なんとか落ち着いてきたみたいだよ」
あの後、なるべく穏便に済ませたいと思っていた俺たちは、恭子を警察ではなく病院に連れて行った。
あの出来事の際、どうにも恭子の人格が分裂しているように感じたからだ。
案の定、恭子は『解離性同一性障害』と診断された。簡単にいえば二重人格だ。
重度らしく、そのまま精神科に入院した。治療にはかなりの時間を要するらしい
両親をなくした直後ということもあり、かなりのストレスを抱えていたようだった。誰も知り合いがいない大学生活に俺とのこと……。相当心にダメージを負っていたみたいだ。
「あんなことになっちゃったけど、これからも恭子に面会に行くよ。大切な友達だからさ」
解離性同一性障害の治療には、医者だけではなく周りの人間の協力も必要らしい。身内らしい、身内が居ない恭子にとっては、俺なんかでも精神的な支えになれるかもしれない。
「ええ。それがいいと思います。早く恭子さんがいつもの生活に戻れますように……」
クリスは目をつむり、胸のところで手を組んでいる。敬虔なクリスチャンにも見えるその姿は聖母のようにも見えた。
ゴキブリの信じる神は一体誰なのだろうか。
「ゴキブリにも信じる神っているのか?」
「ええ。居ますよ。この地球上に生きている三兆四千億匹の頂点に立つゴキブリの神様。害虫の王『ゴキペランサー』様です」
三兆……。この地球上にそんなにゴキブリが……。卒倒しかけてしまう。
「ハハ……。自分たちで害虫って言ってちゃ世話ねーな」
「本当ですね」
上品に笑っていたクリスの表情が突然曇る。
「篤様……お話があります」
「ん?」
「私はそろそろ帰らなければなりません」
突然のことに困惑する。
「そんな突然……帰るなんて」
「本当はもう少し早めに言うつもりでしたが……別れる直前まで、篤様と楽しく過ごしていたかったものですから……」
クリスの顔が更に曇る。
「でも、なんで……?」
「恭子さんに、正体がバレていたようですから……」
そうだ。出会った時に俺以外の誰かに正体がバレてしまったら帰らなければいけないと言われていたのを思い出した。
「そんな顔をしないで下さい。もう二度と会えないわけじゃないのですから」
相当、悲しそうな顔をしていたのだろう。クリスが俺の手を優しく握った。
「そうだな……。今日まで本当にありがとう。楽しかったよ」
「ハイ! 私もです」
クリスは花が咲いたような笑顔で答えた。
「さあ、まだ今日一日は一緒にいることができます。そろそろお夕食の時間ですね。最後にとびきり美味しいお食事をお作りしますよ!」
クリスはそう言って腕まくりをして、台所に向かった。
「じゃあ、電気消すぞ」
クリスとの最後の晩餐が終わり、夜も更けていった。
このまま眠ってしまえば、明日の朝にはクリスの姿は無いだろう。しかし、今生の別れではない。俺たちは湿っぽい別れは望まない。
電気を消しても、そこにクリスがいるのは分かった。
「クリス。まだいるか?」
「はい。まだいますよ」
目を閉じて眠ろうとするが、一向に寝付けない。
「クリス……」
クリスが俺の耳元に口を近づける。
「夜伽は次の機会に」
閉じていた目を開ける。もうそこにはクリスの姿は無かった。
ゴキブリの美少女の恩返し。その夢の様な出来事を胸に俺は眠りについた。
あのゴキブリの恩返しから一年が過ぎた。
大学生活二回目の秋が来た。
幾分か涼しくなり、過ごしやすい季節に入ってきている。部屋の時計を見るとすでに深夜の一時を回っていた。
「もう寝るかな」
そう思い布団をかぶった時にチャイムが部屋に鳴り響いた。
「なんだよ。こんな時間に……」
悪態をつき、玄関のドアの覗き穴から外を見ると……。
いつか見た黒いワンピースに黒いロングヘアの女性がそこに立っていた。
「クリス!」
俺は間髪入れずにドアを開き、その女性の名前を呼んだ。その女性は俺の記憶に残った思い出の笑顔と同じ表情を作り、
「お久しぶりです。篤様」
と答えた。
「本当に久しぶりだな……。また会えて嬉しいよ」
「ええ。私もです」
「クリス……」
「それでですね。今日は私のお友達もたくさん連れてきたのですが……」
友達? クリスと二人きりになれると思ったので、少し意気消沈してしまうが、無下に断ることはできない。
「いいよ。連れてきなよ。でも俺の部屋、狭いけど大丈夫かな?」
「その点は大丈夫ですよ。みんな小さいですから」
小さい……。俺の脳裏に恐ろしい光景が浮かび上がる。ちょっと待って、と言う前にクリスの嬉しそうな声が響いていた。
「みんなー。入っていいってー」
その瞬間。外から何千もの黒い物体が床を覆っていく。黒い絨毯のようなその姿は俺の部屋の床を埋め尽くしていった。
「またお世話になりますね」
俺はその声を最後まで聞くことができず、その場に卒倒してしまった。
小説家になろうでは初めての投稿です。
最後までお読みいただき誠にありがとうございました。
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このたびは誠にありがとうございました。