ゆがんだ気持ち
ポツ、ポツ、と何かが顔を刺激する。
重たいまぶたを開けると、暗いグレーの雲に覆われた空が見えた。雨が降り始めたようだ。
アスファルトに横たわっていた体を起こす。ひどくだるく、頭も痛い。立ち上がると目眩を感じ、再び膝を地面につけてしまう。
俺はなんで、こんな所に……。必死に記憶を呼び起こす。
今日は起きてから、大学に行って……昼には家に帰って、昼食を食って、その後は恭子に呼び出されて…………恭子!
そうだ! 首にスタンガンを……。あんなことを恭子がするなんて……。
周りを見渡しても恭子の姿は見えない。
すぐに大通りの方に出てみるも、そこにはいつもどおりの人の往来があるだけだ。
ズボンから携帯を取り出して時計を見ると、午後五時になっていた。パンケーキの店に入ったのが午後一時過ぎだったから……俺は四時間近くも気絶していたのか。
そのまま、恭子の携帯に電話を掛けてみる……が何度掛けても返事がない。
恭子のやつ、なんでこんなことを。
恭子は普通じゃなかった。あの時の恭子の様子を鮮明に思い出すと、ひとつの言葉が俺の耳に残っていた。
――そうだ。殺しちゃお。
頭の先から、つま先まで悪寒が走る。まるで氷の棒を背中に突っ込まれたみたいだ。俺は考えるよりも先に走りだしていた。
パンケーキのお店の前に止めておいたままだった自転車に乗り込み、自分のアパートへと向かう。
俺を殺したいのなら、気絶した後に殺してしまえばいい。殺したいのが俺ではないのなら……。
なぜかは分からないが恭子はクリスのことを知っていた。よく聞き取れなかったが、呪詛のようにつぶやいていた言葉の中には、「あの女」と言っていたような気がする。恭子はクリスのところへ向かったに違いない。
最悪の自体が頭をよぎる。
警察に電話するべきかと迷ったが、できることなら穏便に済ませたい。
スタンガンを俺に向ける前に言った恭子の謝罪の言葉が思い出された。まだ、話し合いでなんとかなるかもしれない。そう思いたい。
俺は自分のアパートにたどり着くと、入り口に自転車を乗り捨て、勢い良く二階の自分の部屋まで駆け上がって行った。
急いで鍵を開け中に入る。
部屋の中に入ると、俺の表情に驚いたクリスが台所に立っていた。
「篤様? 一体どうしたのですか? そんな息を切らせて」
「クリス! 誰か来なかったか? ボブカットの女の子が……」
「いいえ、来ていませんけど……。私もお夕食の買い物で先ほど帰ってきたばかりでしたので」
そうか、良かった。恭子はあのまま家に帰ったのかもしれない。
「篤様。体中泥だらけですよ? お顔も汗びっしょりで……。一体どうなされたのですか?」
クリスがタオルで俺の顔を拭こうとする。その時……。
「いつもいつも気安く篤に触ろうとしてんじゃねーよぉ!」
ベッドの下から恭子が這い出てきた。
まるで人間ではないかのように顔を歪め、クリスに飛びかかっていった。
そのまま恭子はクリスを羽交い締めにし、手に持ったスタンガン……ではなく人間の手の平ほどある刃渡りのナイフを持っていた。
それをクリスの首もとにあて獣のようにうなり声を上げている。
クリスは驚いたような表情をしているものの、思ったよりも冷静だ
「篤様。この方は?」
「てめぇ! 何すましてんだよ! おしとやかに装って篤を寝取ろうだなんて考えてんじゃねえぞ!」
恭子の怒号が狭い部屋中に響き渡る。
「な……なんでお前この部屋に? 鍵かけてあったはずじゃ……」
恭子はナイフを持った右手の力は緩めずに、左手でポケットを弄り何かを取り出した。
鍵だ。
それを俺に見せびらかすように振ってみせた。
「これ、なーんだ?」
「鍵……? 俺の部屋の……」
「前にこの部屋に遊びに来た時に、作っちゃったー」
恭子はケラケラ笑いながら俺の部屋のスペアキーを見せびらかしている。
安アパートの鍵だ。簡単に複製できるだろう。
「鍵だけじゃないよー。ベッドの下のコンセントの中には盗聴器もあるんだよ? 結構大変だったんだよ? 篤の居ない時を見計らってせっせせっせと埋め込んだんだよ。篤の声をいつでも聞いていたいからさー……それとね」
恭子の目線がテレビの上に注がれる。まさか……。
「本当はー。篤もプライバシーがあるから、躊躇したんだけどー。そこの木彫りのクマの目の中にカメラも仕込んであるんだよね。最近の技術の進歩は凄いよね。あんな小さいカメラでもものすごい鮮明に映るんだよ」
俺はテレビの上の木彫のクマを見た。クマの視線が異様なものに見えてくる。
「なんで、お前、そんなこと」
ショックのあまり声がうまく出ない。
「この女がいけないんだ! 篤にきったねえ体を使って言い寄ろうとするからさぁ!」
ナイフを持つ手に力が込められる。クリスの喉元にあてられたナイフが小刻みに震えている。
「恭子! やめてくれ! なんでもするから……」
「なんでもする? やっぱり嘘だったんだね。わたしが大切だなんて……。やっぱり嘘だったんだ! こんなゴキブリ女の方が大切なんだ! 始めてこの女を見た時も、キモいケツ付きだして、尾毛です。とか本当に気持ち悪い!」
え……? なんで恭子はその事を知っているんだ? クリスと出会った日にはまだカメラは設置していなかったはずなのに……。
「な……なんでお前そのことまで……」
「だって私、あの時この部屋に居たもん」
恭子はさも当然というような感じの表情をしていた。
「その日の前日から私ここにいたよ? 篤ってばゴキブリなんかにヒィヒィ言っちゃって可愛かったー」
「お、お前この部屋のどこに居たんだよ?」
部屋をぐるっと見回しても、狭いワンルームだ。隠れるようなところは見当たらない。
「ベッドの下」
恭子は淡々と答えた。
「意外と見つからないもんだね。丸二日くらいは居たけど気が付かなかった? ダメだよ? これじゃあ、変な人が部屋に居ても気が付かないね」
恭子は喉をクツクツ鳴らしながら笑っている。
「クリスをどうするつもりだ?」
正直、ショックと恐怖で腰が砕けそうだった。逃げ出したかった。でもそれはできない。
「どうしよっかなー。この女、散々篤に迷惑かけたんだし。殺しちゃおっかなー」
俺がやめてくれと叫ぼうとした時、
「篤様。この方はご学友ですか?」
クリスはいつもどおり、食事を終え、一段落している時と同じ表情で問いかけてきた。
「しゃべんなよ! 気持ち悪い!」
「初めまして。私はゴキブリのクリスティーナと申します。以後、お見知りおきを」
クリスは今のこの状況を理解していないかのように、いつも通りの笑顔を作り自己紹介を始めた。
「何この女。むかつく」
恭子は部屋の壁際までクリスを押しやった。そして、首元にナイフを当てつつも自分のバッグへ手を伸ばし、黒いスプレーのようなものを取り出した。
「あんたゴキブリなんだってね。これ噴射したらどうなるかな?」
恭子の持っているものは、最近コマーシャルなどでも評判の……ゴキブリ駆除用のスプレー缶だった。
「これ、ゴキブリに噴射すると、一瞬で殺せるんだってね。あんたはどうかな?」
恭子はスプレー缶をクリスに向けると、一気に噴射した。
「きゃ!」
クリスは小さく悲鳴を上げ、体を丸めさせた。
「やめろ!」
恭子に飛びかかろうとするも、ナイフをこちらにちらつかせている。
「近寄らないで!」
恭子はその間もひたすらスプレーを噴射し続けている。部屋中薬剤が撒き散らされ、厚い雲の中にいるようだ。
人間には害はないと入っても、これだけの量だ。目が痛くなり開けていられない。
俺は恭子に近づくのは無理だと判断し、部屋中の窓を開けた。
勢い良く薬剤の雲が外に逃げていく。視界がはっきりした時にはスプレー缶の中身をすべて噴射し終えて、声を押し殺し笑っている恭子が見えた。
その足元には丸くなり倒れているクリスが見えた。
「クリス!」
「ねえ、篤」
恭子はナイフを右手に持ったまま、フラフラとした足取りで、俺の方へ近づいてきた。その顔は妖艶でこんな時でも、ゾクリとさせてしまう何かを含んだ表情だった。
「ねえ……篤。抱いてよ」
俺は恐怖のあまり、口を開くこともできず後ずさりをしていた。
すると、恭子は急に力を失ったように膝を床に落としうなだれた。
「やっぱりもうだめだよね。大切な篤の大切な人をこんなにしちゃって……。こんな私イヤだよね? 気持ち悪いよね? もう私……。お父さんも、お母さんも死んじゃって……篤まで居なくなっちゃったら生きていけないよ」
恭子は目から大粒の涙をいくつもこぼし、床を濡らしていた。
「ごめんね。篤。さようなら」
そう言うと、恭子は持っていたナイフを自分の喉元に突きつけた。
俺は恭子から離れてしまったのを後悔した。数瞬後にはナイフが恭子の喉元に突き刺さるだろう。俺が手を伸ばしても恭子の体には触れることができない。その時、
「冗談でもこんな危ないものを自分に向けてはいけないですよ」
パンっという破裂音とともに、クリスの声が耳に届いた。
前方で倒れているはずのクリスはいつの間にか、俺の後ろに立っていた。その手にはナイフが握られている。
「クリス……いつの間にそこに?」
「ゴキブリは一秒で二メートルは移動できるのですよ。このサイズでこの距離でしたら一瞬です」
クリスは大きな胸を控えめに付きだし、少し得意げだ。
「そ、それに駆除剤をおもいっきり浴びたのに……」
「あのスプレーのことですか? ゴキブリは常に進化しているのです。全く効いておりません」
とはいうものの、クリスの声は少しかすれている。効かないとは言っていてもあれだけ大量に薬剤を浴びたのだ。少しはダメージがあるのだろう。
「そうだ! 恭子」
俺は床に手を付き、突っ伏している恭子の肩を掴んだ。体全体を震わせている。
「篤……。私、私」
先ほどまでの、人とは思えない表情はなりを潜めている。悪いことをして怯えている子供のようだった。
自らの命を絶とうとする前に見せた表情……。いまなら俺の話を聞いてくれるかもしれない。
「恭子。俺……なんて言っていいか分からないけど。いなくなんかならないから……。そりゃ今は恭子を異性として見られない。でも、これからも友達でいたいと思ってるし、恭子のこともいろいろ知りたいと思う。そうしたらいずれは……」
恭子の体がひときわ大きく震えた。
「篤。だめ……私」
「え?」
すると、恭子は女性とは思えない力で俺を押しのけた。その手には小さなバタフライナイフが握られている。スタンガンと一緒に持っていたものだ。
「このクソ女ぁ! まだ生きていやがったのかぁ!」
恭子はそのまま、勢い良く立ち上がりクリスに向かって体当たりを仕掛けた。腰には隠し持っていたバタフライナイフを構えながら……。
一瞬の出来事だった。
ぶつかり合う鈍い音。
クリスが刺されてしまった。
俺は体中の力が抜けてしまうのを感じた。
しかし、一瞬の静寂の後、恭子の持っていたバタフライナイフが乾いた音を立てて床に転がった。
クリスは呆然とする恭子を羽交い締めにした。
「クリス! 大丈夫か」
「大丈夫ですよ。私ゴキブリですから」
「でも、お前、刺されたんじゃあ」
「ゴキブリの表皮って硬いんですよ? 人間サイズになれば、ナイフなんかじゃ傷一つつきません」
俺は肺に溜まった空気をため息に変え大きく吐き出した。
「離せ! 離せよぉ!」
恭子がクリスの腕の中で暴れている。
「ど、ど、どうしましょう」
始めてクリスが慌てた表情を見せた。
「傷つけずに気絶させることはできるか?」
乱暴はしたくはなかったが、この状態の恭子と話しても解決はできない。
「はい。分かりました」
それだけをいうと、クリスは恭子の顎を指でかすめた。
恭子はそのまま力を失い、クリスの腕の中で気を失った。
「恭子……」
恭子の頭を撫でる。
目をつむってはいたが、いつもの恭子の顔に戻っていた。