豹変
午前中は涼しく、さわやかな風が吹いていたが、日中になると汗ばむくらいには暑くなっている。
というのもなんだかテンションが異様に高くなってしまい、待ち合わせの場所まで全力で自転車を漕いでいたからだろう。
駅前に到着すると、すでに恭子が待っていた。
いつもよりも大きめの鞄を持ち、まっすぐ俺が来る方向を見つめていた。俺を見つけたのか、遠くからでも分かるくらい笑顔になり、両手をブンブンと俺に向けて振っている。
俺は、待ち合わせ場所のすぐ近くにある駐輪場に自転車を止め、恭子の元へ急いだ。
「待たせちゃったか?」
「ううん。いま来たこと」
「その鞄、いつものと違って大きいよな? 何入ってるんだ?」
「女の子に鞄の中身を聞くのって失礼だと思うよ?」
「あ、ああ……悪い」
恭子はそう言いながらも俺の腕を取り、こっちこっちとパンケーキの店のある方に歩いて行く。
そのお店は駅から伸びる大通りを、一本横道に入った所に佇んでいた。
白を基調に塗られた外壁に、レンガ造りの入り口。大きな窓で店内の様子がよく分かる。
人通りの少ない場所のためか、思ったよりお客は少ないようだ。
恭子はまだ俺の腕を掴んだままだ。少し照れくさくなりながらも恭子に連れて行かれるがままだ。
そんな様子を察しているのか、察していないのかそのままお店に入っていった。
店内は白とブラウンを基調にまとめられており、シックな印象を醸し出している。木材の香りが鼻孔をくすぐる。
恭子と俺は席に付き、注文を取りに来た店員に『今日のオススメパンケーキ』を二つ頼んだ。
テーブルに運ばれてきた水のグラスを一口飲む。恭子は先程までの明るい態度とは一変しテーブルの中心くらいに視線を固定したまま口を開かない。
いつも恭子は一人でしゃべっているので、俺はそれに相槌を打っているだけだ。こんな風にずっと沈黙している恭子は珍しい。やはり、夏休み前の告白のことが気がかりなのか……。
それは俺の自意識過剰かな? と一笑に付しグラスの水を飲み干した。
そんな中、恭子はテーブルに落としていた視線をゆっくりと俺の方へ向けた。その視線に俺はぎくりとしてしまう。なぜならそこには俺が見たこともないほど冷淡な顔があったからだ。
恭子は一切の笑みを忘れたような顔で俺を見据えている。俺の瞳を凝視し、心の奥まで見抜かされそうな目だ。
「ど……どうした?」
今まで見たこともない恭子の表情に戸惑いながらも、何とか声を絞り出すことができた。
「篤……。今日のお昼ご飯は美味しかった?」
「え? いや……まだ食ってないけど?」
「嘘でしょ?」
恭子は声を低くし、さらにくぐもったような声を出していた。店内には他のお客も楽しげな会話をしていて、声が聞き取りづらい。
「……あ、はは。実はバイトからの帰り道で飯食ってきたんだ。確かラーメンだったかな? でもパンケーキくらいなら食べられるぞ」
「……冷や……中……でしょ?」
「え?」
地底から聞こえてくるような声で恭子の言葉がよく聞き取れなかった。
「冷やし中華食べたんでしょ!」
店内に響き渡る恭子の突然の怒号。店内に居た他のお客が一斉に俺たちの方を向いた。
「恭子……みんな見てるって。急にどうした」
と言いながらも俺の背中に冷たいものが走る。俺が昼食に冷やし中華を食べたのは、恭子は知らないはずだ。
「うそうそうそうそうそ。なんで嘘つくの? ひどいひどい。嘘つくなんて」
その後も、恭子は小さな声でなにかをつぶやき続けている。その異様な雰囲気に他のお客も気がついたのか、こちらを訝しげな目で見てくる。
「恭子。どうしたんだよ。と……とりあえずお店出よう」
俺はいたたまれなくなり、店員に注文の取消を頼み、恭子を連れ視線の集中砲火の店内を後にした。
店を出て、更に細い裏の路地に恭子を連れて行った。ここなら人通りも少なく変な目で見られることもないだろう。
恭子は連れてくる途中も顔を下げていた。表情はうかがい知ることはできない。
「……はぁっ……。一体どうしたんだよ? お前なんかおかしいぞ」
恭子はずっと口をモゴモゴさせて何かをつぶやいていたが、俺の言葉を聞くと同時に口を開いた。
「篤が嘘ついたからでしょ?」
「え……そんなことは」
図星を付かれてしまい困惑する。
「私全部知ってるんだよ? あの黒髪の女……誰?」
恭子は下げていた視線を俺に向き直した。憎悪とも、非難とも思える視線を俺に向けてくる。
なぜ恭子がクリスのことを知っているんだ? という疑問が頭を巡る。おそらく、俺の家から食材を買いに外に出た時に、偶然見てしまったのだろう。
一瞬、たじろいでしまうが、俺と恭子は付き合っているわけではない。クリスのことを話しても問題はないはずだ。
「あ……。二週間位前かな? 急に俺の家に押しかけて来てさ……まあ、いろいろあって世話を焼いてくれてるんだよ。恭子が思っているような関係じゃないよ」
「そんなの知ってる」
知ってる? 知ってるといったか? 普通、女の子が男の部屋に寝泊まりしていればただならぬ関係を疑うのが普通だ。
決定的な何かを握っているのだろうか?
恭子は再び、頭を下げてブツブツ何かを言っている。
「あのおんなゆるさないぜったいにゆるさないちくしょうちくしょうふざけんなよなにさまのつもりだよきたならしいからだであつしのいえをよごしやがってむかつくむかつくむかつくいらいらするくそまずいめしいつもいつもつくりやがってあつしがどんだけめいわくしているかしりもしないでくそくそくそくそ……」
全ては聞き取れなかったが、恭子は呪詛のように暴言を履き続けていた。体全体を小刻みに振わせる恭子は、冗談ではなく本当に悪魔に憑依されてしまったのではないかと思った。
「おい! 恭子どうしちゃったんだよ!」
勢い良く恭子の肩を掴むと、呪詛の言葉はピタリとやんだ。恭子は首だけを俺の方へぐりんと向けた。そして、口端を上げ笑顔を作る。いつもと違う醜悪な笑顔に俺は恐怖を覚えた。
「そうだ………殺しちゃお」
殺す……。恭子の口から発せられた言葉に絶句する。なんとか肺に残った空気を言葉にして恭子に投げかける。
「おい。冗談でも言っちゃいけないこともあるぞ! 落ち着けって」
とにかく落ち着かせないといけない。今の恭子は本当に何かを起こしてしまうような雰囲気がある。
不意に恭子は醜悪な笑顔をやめ、表情を真顔に戻した。
「篤はさぁ。私とその女のどっちが大切なの?」
「……! そんなどっちが大切かなんて……。恭子に決まってるだろ」
こう言わないといけないと思った。
実際、どちらが大切かどうかなんてわからない。恭子は大切な友達だし、クリスだって……。
恭子の目から涙が一筋こぼれた。
「嘘だよね」
「そんなこと無い。俺は恭子が大切だよ」
永遠にも思えるほど長い沈黙が訪れた。実際にはほんの数秒の事だったのだろうけど、俺には時間が止まってしまったのではないかと感じた。
「……ごめんね。私もうダメかも」
口を開いたのは恭子だった。全く生気が感じられない表情から、深い悲しみの表情に変わるのを見て、少し安心してしまった。
悪魔の表情から人間味のある表情に変わったからだ。
恭子は服のポケットから小さめのバタフライナイフを取り出した。
それを俺にちらつかせる。
そして、持ってきたいつもより大きめの鞄に手を伸ばし、黒いプラスチックのリモコンのようなものを取り出した。
先端は二股に別れ、先からは金属のようなものが突起している。それを恭子は俺の首に優しく当てた。
これはスタンガンだな? と、思った。頭が妙に冷静になっていた。恭子がまさか俺にそんなもの使うはずがないと思っていた。だから抵抗もしなかった。
そしてバチ、と音がした。