恭子からの呼び出し
「今日のお食事はいかがでしたか?」
クリスが台所で食器を洗っている。今日の昼食は冷やし中華だった。
コクの有るゴマだれのスープに絡むプリプリとした麺。シャキシャキとしたきゅうりがアクセントになり最高にうまかった。
「ああ、めちゃくちゃうまかったよ」
「そうですか。ありがとうございます」
クリスは微笑を作り、手際よく食器を片付けている。
「ごっきー。ごっきー。ごきごきごっきー。お顔にぶーんといっちょくせんー。うふふ」
口ずさむ鼻歌はなんだか気持ち悪かったが、台所で女性が食器を片付けている音を聞きながら、寝っ転がりテレビを見ているのがこんなに安らぐとは知らなかった。
番組はなんてことはないお昼の情報番組だったが、クリスがいると思うといつも以上に面白く感じる。
テレビの上には恭子におみやげとして貰った木彫のクマが、こちらを向いている。
「ところで、篤様」
「ん?」
「夜はどうしましょう?」
顔を台所に向けたままクリスが言った。
「夕食か……。今、腹一杯になったばっかりだから、思いつかないなぁ」
「いえ。お夕食のことではなくて……」
クリスが食器を片付け終え、手をエプロンで拭いながらこちらに歩いてくる。寝っ転がっている俺の後ろに腰を下ろした。
「私が恩返しに来てすでに二週間になります。今まで一度もなかったものですから」
「何が?」
「夜伽です」
一瞬なんのこっちゃと思った。聞きなれないその言葉は耳から入り、ゆっくりと脳に浸透していった。
その意味を理解した瞬間、俺は勢い良く体を起こしクリスの方を向いた。
「よ、よ、よ、よ、夜伽ぃ! 何言ってんの?」
「篤様にご奉仕に伺う前に、この辺り一帯を統べる長老に人間の男性が喜ぶ所作を聞いてきました。それによると、人間は一年中発情期なので、そういった行為が最も喜ばれると……」
「な、な、な」
言葉が出ない。突然のことに頭がオーバーヒートした。
「私のこの姿は、人間の男性にはとても魅力的に映っているはずです。二週間もご一緒なのに一度もそのようなことが無いのはなぜかと思いまして……。伺ってみた所存です」
俺も男だ。こんな綺麗な女性がいるのに全く下心がなかったとは言わない。しかし、俺はヘタレだ。一度も女性という城壁に突入したことがない男は総じてヘタレなのだ。俺だけかもしれないけど。
「長老が言うには、こうやって足を崩し、スカートの裾をまくりあげて、潤んだ目で相手を見つめれば、いっぱつけーおーだと申しておりました」
「なんだよ。その長老は!」
「長老はこの辺りの数千万匹のゴキブリを統べる、ゴキブリの中のゴキブリです。皆、敬意を込めてキング・オブ・ゴッキと言っています」
クリスは話をしている最中も、黒いロングスカートの裾を更にまくり上げている。
「いや。そんなこと聞いてるんじゃなくてね……」
俺はそんなことを言いながらも、クリスの一層あらわになる、真っ白く肉付きが良い太ももに目を奪われてしまう。
「何も履いていませんから……と言うと人間の男性は喜ぶとも聞いております」
頭でオーバーヒートした熱が全身を勢い良く駆け巡る。
「優しく抱いてくださいね……」
決定的な何かが切れた。俺の理性は宇宙の果てまで飛んでいった――と思ったその時、携帯の着信が鳴り響いた。
すぐに理性を取り戻し、反射的に携帯を取ってしまった。
「ハイ! もしもし!」
電話口の声は恭子だった。
「……もしもし? 篤」
「あ……。恭子」
恭子の声は少し怒りを含んでいた。いつもより低めの声で恭子は続けた。
「篤、バイトに行ってるんじゃなかったんだ。まだ一時過ぎだよね」
先ほどまでのピンクな気分はどこへやら。嘘をついてしまったことに対する罪悪感が蘇ってきた。
「い、いや……。あのさ……。バイトに行ったんだけど、シフト入ってなかったんだよね。あはは。俺の勘違いだったみたい。今帰ってきたところだよ」
「……そ。でしょ?」
「え?」
くぐもった声だったので、よく聞き取れなかった。
嘘に嘘を重ねてしまった罪悪感からか、俺は次の言葉を出せなかった。そんな沈黙を破ったのは恭子だった。
「んじゃあ、もう暇になったよね。お昼まだなんでしょ? さっき行ったパンケーキのお店。今から行こうよ」
断る理由は何もない。恭子の明るい声を聞いて心の横からほっとした。
「ああ、いいよ。行こうか」
「うん! じゃあ、駅前で待ってるね」
「分かった。すぐに行くよ」
「……絶対に来てね」
恭子はそう言うと、すぐに電話を切った。
「ちょっと友達から呼び出された。出かけてくるよ」
「そうですか……」
クリスは少し残念そうに目を伏せた。しかしすぐに顔をあげると、
「じゃあ、準備して待っていますね」
うおおおお! 準備ってなんだああああ!
ふわふわした気持ちを悟られないように、財布と携帯をズボンのポケットに押し込んだ。
そして、おもいきりイケメン風に顔を作り、
「行ってきます」
とクリスに笑顔を向けた。自分でも気持ち悪いと思います。
「行ってらっしゃい」
クリスはいつも俺を送り出す時と同じ笑顔を俺に向けた。
ついに大人の階段を登る時が来たようだ。颯爽と玄関を飛び出し、恭子との待ち合わせ場所に向かった。