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恩返しに来ました

 部屋に充満する湿気で胸を抑えられる感覚を味わいながら俺は目を覚ました。


 灼熱の八月を終え、九月に入ってもまだまだ残暑は厳しい。


 一度大きく伸びをし、体を起こす。

 まるでバケツの水をぶっかけられたように、体中が汗でびっしょりだ。


 シャツは体にべったりと貼り付き、高校時代から愛用している、ジャージのズボンもぐっしょりだ。顔中汗が吹き出していて、溺れてしまいそうだ。

 控えめに二十八度に設定してあるクーラーからは、なんとも頼りない風が部屋中に送られている。


 ふと温度計付きの置き時計に目をやると、デジタル表示は十三時十分の数字を表示している。室温は三十度。湿度は七十六パーセント。

 さよならエコ。ごめんね地球とつぶやき、クーラーの温度を三度ほど下げる。


 涼しい風が室内を満たしていく。再度、惰眠を貪ろうとベッドに倒れ込もうとしたその時……


 チャイムの音が鳴り響いた。


 またか……。と思い少しだけ身を硬くする。

 ……というのも、新居に引っ越してきて五ヶ月。ひとり暮らしの部屋に訪れる人間は宗教勧誘か、新聞勧誘。もしくは某国営放送の人間が大半だ。


 とはいえ、数少ない大学の知り合いが訪ねてきているのかもしれない。俺はまだ、覚醒しきっていない体を起こし玄関の方へ歩いて行った。


 覗き窓から外を見ると、そこには女性がいた。


 覗き窓からの視界なので、はっきりとは見えないが、真っ黒な髪が腰まで伸びている。黒のロングワンピースにこれまた黒のハイヒール。顔は少し下を向いており表情はうかがい知れない。しかし、ラインの整った鼻筋に形の良い唇。結構な美人かもしれない。


 新聞勧誘や某国営放送の勧誘の類ではないな……。となると、宗教勧誘か?


 しかし、その勧誘のパンフレットを持つはずの手には何も握られてはいない。手を胸の前辺りで組み、もじもじと指を絡ませている。


 おそらくこのアパートに引っ越してきた住人が挨拶に来てくれた――というところだろう。


 俺は汗だくの顔を台所にあったタオルで拭き、起き抜けでぼさぼさの頭を手ぐしで整え玄関のドアを開けた。

 ドアの開いた音にビックリしたのか、その女性は肩を少しびくつかせ、こちらを見た。


 ものすごい美人だった。


 まるで宝石をはめ込んだような、大きな目は少し戸惑いを帯びながら俺を見ている。唇はさくらんぼ色をしており妖艶な艶を出している。黒い髪の毛は一本一本が太陽の光に反射し美しく輝いている。


 黒いワンピースから覗く手足は、服の色とは反対に透き通るように白く、蝋人形のように滑らかだ。


「は、はい。何でしょうか?」


 あまりの美人に少し声が上擦ってしまう。

 その女性は少し戸惑いつつも、組んでいた手を下ろした。腰の辺りで組み直し、姿勢を正すと、


「昨夜は危ないところを助けていただき、誠にありがとうございました。今回は恩返しに参りました」


 と、深々と頭を下げた。

 少し固まる。


「恩返し?」


 女性は可愛らしい笑顔で、ハイと答えた。

「助けた恩返しって……。俺なんかしました?」

「ハイ。昨晩私の命を助けていただきました」

 昨晩と言っても……。昨日は昼間に大学の講義が終わってからはずっと家にいたけどなぁ。

「覚えていませんか? 勇敢な貴方様は私を優しく玄関まで誘導し、逃してくださったのですよ」


 そんな勇者がお姫様を助けるような、冒険活劇には全く覚えがない。

 ひょっとしたら、この人ちょっと頭がかわいそうな人なんじゃあ……。


「あ! 噂をすればなんとやら。昨晩、私を襲っていた悪漢がそこに……」

 女性は手を口元に持って行き、目線を俺の頭の上辺りに泳がせている。


「え? どこ?」

「あそこです。貴方様の上に……」


 女性は俺の頭の上を指差す。俺が上を向くと、

 乾いたなにかが俺の顔に覆いかぶさった。

「ぷえっ。何だ」


 手にとったそれは――俺の手のひらほどもある巨大なクモだった。


「うんぎゃああああああああ!」


  クモは俺の腕をカサカサと移動し、肩の辺りまで登ってきた。

 反対の手でクモを掴み、外におもいっきりぶん投げた。綺麗な放物線を描き、クモは飛んでいった。


 女性はいつのまにかスラリと伸びた手で頭を抱え、しゃがみこんでいる。


「ああ。びっくりした。小さいクモなら平気だけど、あれだけでかいとなぁ……」


 女性は未だ起き上がれずに。小さく肩を震わせている。


「もう大丈夫ですよ。どっか行っちゃいましたから」


 女性はしゃがんだまま、潤ませた瞳を俺に向け、


「あれはアシダカグモです。私たちの天敵なんです」


 アシダカグモ? へえ、あのクモそんな名前なんだ。


「昨晩は危うくあのクモに捕らえられ、食べられてしまうところでした。……本当に覚えていないのですか?」

「昨晩って行っても、俺昨日はずっと家にいたし、ゴキブリは出て来るしで人助けなんてしちゃいないですよ」

「私はあの時助けていただいたゴキブリです」


 ……へ? …………はぁ。なんだか変な人に絡まれちゃったなぁ。めちゃくちゃ美人だけど、残念な人だ。


「勇敢な貴方様は紳士的な態度でこの私をアシダカグモから助けて下さいました。あの時のお姿を思い出すだけで私は……」


 女性は手を頬に持って行き、うっとりと一人で話し続けている。


 よく顔を見ると、最初は年上のお姉さんに見えたが、血色の良い肌にタレ目がちの瞳も相まって、印象よりも幼く見える。俺と同い年か少し年下なのかもしれない。


 まったくどうしたものか。なんとかお引取り願いたいが……。


 そんな時、なにかが顔に当たる感触に気がついた。女性の頭のてっぺんから伸びている……黒い枝ように見えるそれは、丸くカーブを描き俺の顔をつついている。時折、ピクピクと動いている。

 無意識にその黒い枝のようなものに手を伸ばし、指先で摘んで引っ張ってみた。


「……その勇敢な貴方様に報いる為には…………ひゃはん!」


 その女性は突然、悩ましい声を上げ、糸の切れた操り人形のようにその場に崩れ落ちた。


「だ、大丈夫ですか!」


 女性は目に一杯の涙をため、少し恨めしそうに俺を見ると、


「触角は……触っちゃだめなんですよぉ……」

 女性の頭から生えている触角? に目をやると、一定のリズムでぴくんぴくんと跳ねている。


「す、すいません」

 俺の手が段々と汗ばんでいくのが分かる。

 こんなおしとやかな女性があんな艶っぽい声を……。俺の心臓は早鐘を打っている。


 ふと女性の頭頂部に目が向いた。

 つむじを中心にして、両側に二本の触角が生えている。趣味の悪いアクセサリーか何かだと思っていたが、ここまで接近して見てみると、確かに触角に見える。


 もう一度、引っ張って見ようか? などと考えていると、俺の視線に気がついたのか、女性は両手で頭を抑えるようにして、


「もう、触っちゃだめですよ……」


 と、上目遣いで俺を見た。


「あ、はは……。いや、本当にゴキブリなのかな? なんて思って……」

 女性は少しだけ、頬をふくらませた。


「あ? 信じていませんね」

「いきなり、私はゴキブリですって言われても……」

「証拠を見せます」


 そう言うと女性は素早く立ち上がり、クルリと後ろを振り返った。そして、いきなり形の良いおしりを俺の方に突き出し、


「これを見てください。尾毛です」


 そんなこと言われても、俺にはどうして良いのか分からない。そんなことよりも、この魅力的なおしりに目を奪われてしまう。


 女性はおしりを突き出したままの体制で、頭だけこちらに向け「信じて頂けました?」と言った。


「あ、ああ……。まあ……」

 確かに腰の辺りから二つの突起のようなものが見えている。これが尾毛とか言うやつか? でもゴキブリが人間に化けるなんて聞いたこと無い。


 女性は振り返り俺の方へ体を向けた。

「信じて頂けたところで、話を最初に戻します。私は貴方様に恩返しに参りました。なんなりとご用件をお申し付けください」


 恩返しならゴキブリではなく鶴だろうに……とは思いながらもこの女性を追い返そうなどという気持ちは消え失せていた。


「あ! でも私のことは他の人に話しちゃダメですよ。バレたら帰らなくちゃ行けませんから」


 いよいよ童話の世界だ。


 とはいえ、とにかく美人で可愛らしいのだ。先ほどの恥ずかしがる仕草や、凛とした態度。多少怪しくはあるが、追い返せるはずもない。これは悲しい男の性なのだ。


 その時、腹が情けない音を立てた。そういえばもう昼を過ぎていた。腹も減るはずだ。


「じゃ、じゃあ、昼飯でも作ってもらおうかな? ……なんて」

 すると、女性は満面の笑みを見せた。


「分かりました! お部屋に上がってもよろしいですか?」

「は、はい。どうぞ」


 女性のあまりの迫力に俺は拒否することもできなかった。

 するりと俺の横を通り抜け女性は部屋に上がっていった。

 急に立ち止まり、振り返ると、


「そういえば、まだ名乗っていませんでした」


 女性は俺を真っ直ぐに見据え、姿勢を正すと、

「私の名前はクリスティーナと申します。クリスとお呼び下さい」


 先ほどの満面の笑みとは違う、柔からな笑顔で答えた。


 それにしても、クリスティーナ――クリス……か。ゴキブリの名前じゃないな。


「俺は藤堂篤とうどうあつしです」

「篤様ですね。今後共よろしくお願いします」


 クリスは人懐っこい笑顔で首をかしげた。おそらくこの笑顔にやられない男はいないだろう。

 こうして俺と人間に化けたゴキブリとの奇妙な生活が始まった。

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