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神を思ってはならない  作者: 宮野香卵
第二章 赤い毒と赤い眼
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 来訪者は、庭で洗濯物を干している際に訪れた。

 洗濯にはオルゴールで汲み上げた地下水を使っている。基本的に手洗いだ。

 上層には勝手に洗濯してくれるオルゴールが山ほどあるらしいが、この下層にそんな便利なものは存在しない。

 この日は、建物内に無数に存在するベッドからシーツを引っ剥がして洗った。

 元孤児院の二階から建物を囲う塀まで紐を伝わせて、そこにシーツを干していく。ローシャが布を広げ、アルバートがそれを紐に掛ける。

 ナシュヴィルもいたが、毎回力加減を間違えてシーツを破ってしまうので待機させていた。

 時間を持て余しているらしく、時折通り過ぎていく蝶に目を向けている。

「これでおーわりー」

 腕を目一杯広げて、ローシャがシーツを突き出してくる。正直、彼女の身長と腕の長さでは地面に付くぎりぎりの高さだ。

 アルバートは慌ててシーツを受け取る。念のため確認したが、確かに洗濯物を入れていたかごは空だった。

 洗った結果、シーツやタオルケットは元の鮮やかな色彩を取り戻した。元々、そう古いものでもなかったようだ。

 ただ単に、ずっと洗濯されていなかっただけで。

 普段ろくに運動していないため、腕が怠い。せっかく時間だけは余っているのだから、少しは運動した方がいいかもしれない。

 ローシャがシーツを叩きながら笑った。

「ねえねえ、あそぼうよ。みんなであそぼう?」

「え」

 この後は、屋敷内の掃除をする予定だった。

 ローシャにも事前に言っておいたはずだ。

「いや、この後、掃除」

「いーやーだー。おそうじは、いつでもできるもん」

 地面で転がるローシャを、アルバートは慌てて立ち上がらせる。が、すぐに手を振り解かれた。

 また転がる。立たせる。転がる。

 最近、ローシャは駄々をこねることが多くなった。

 まず否定から入る。着替えもシャワーも始めは自分から進んでやっていたのに、今ではやたらに逃げ回るのだ。

 日常会話の勉強も、近頃進みが遅い。

 別にストレスは溜まらない。が、このまま我が侭放題で育ってしまったら、彼女の将来が危うくなるのではないだろうか。

 頬を膨らませて頭を振るローシャは、とても同い年には見えなかった。しかも、厳密に言えばアルバートよりも数ヶ月年上なのだ。

 剥き出しの地面を転がったせいで、白いワンピースは斑模様になっていた。軽く払ってやると、面白がって真似をする。

 とにかく、掃除だ。午後からは屋敷内を徹底的に掃除すると決めていたのだから。

 こうなったら、遊びの一貫だと誤魔化すしかない。

 白い蝶を追って手を伸ばしていたナシュヴィルが、不意に立ち上がった。これ幸いとばかりに蝶が飛び去っていく。

「しーちゃん?」

 ローシャが首を傾げる。

 ナシュヴィルは、簡素な門がある方向を見つめたまま動かない。

「……ナシュヴィル?」

 呼びかけても全く反応がない。だんだん不安になってきた。

 彼が見つめる方向に、何かいるのか。

 しかし、どれだけ目を凝らしても何も見えない。

 殺風景な中庭だけが、壁に沿って延々と伸びている。人の気配はなく、野良猫や野良犬の姿もなかった。

「ねえ、しーちゃん」

 ローシャが、シーツの隙間を通って無造作に歩み寄る。

 一際強い風が吹き、シーツが盛大にはためいた。ローシャの小さな姿が、一瞬隠れる。

「あ」

 間の抜けた声が響いた。風が止む。

 真っ先に目に飛び込んできたのは、やたらと目に眩しい白銀だった。まるで作り物のようだ。

 白髪ではない、銀色の長髪が揺れた。

 アルバートは面食らう。

 忽然と現れたのは、おそらく男だ。身長は高いが、白銀の長髪に痩躯は不気味なほど中性的だ。

 見た目だけなら、まだ青年と表現しても差し支えない。

「あわー」

 彼の腕の中で、ローシャが困ったように眉尻を下げている。もそもそ動き回っているが、一向に抜け出すことができないようだ。

 まともな人間なら、こんなところでローシャを捕まえるわけがない。

 アルバートは腹に力を入れる。胃の少し下の辺りから、じわじわと熱が広がる。

 何度か試したが、残念ながら脚力以外は強化できなかった。腕力が上がったと実感できたのは、最初に石をねじ込まれたときだけだ。

 もしかしたら、もっと方法があるのかもしれない。が、逆立ちしても宙返りしても、全身は強化されないのだ。

 両足が、ぬるま湯に浸したように温かくなった。

 前触れなく地面を蹴る。スピードを上げすぎて、自分の視界さえ危うい。

 青年は、彫像と化したように動かなかった。

 アルバート本人も、制御が難しいのだ。初対面の人間が、動きを見切れるわけがない。

 思い切り地面を蹴り、軽々と青年を飛び越える。

 一瞬方向感覚が曖昧になったが、すぐに持ち直した。

 相手はまだ、気付いていない。ぴくりとも動かない。

「アル?」

 風の唸り声に混じって、ローシャの不思議そうな声が聞こえた。

 体の方に勢いが付いていれば、腕力もある程度カバーできる。

 アルバートは反射的に、真っ先に目に入った青年のうなじに手刀を落とした。

 右手が空を裂く。青年はまだ反応しない。

 絶対に、当たったと思った。瞬間、青年が身を捻る。銀髪が鋭利な輝きを放った。

 手刀が弾かれる。痛みはほとんどなかったが、アルバートは目を見開いた。

 青年は今、全くこちらを見ていなかった。

 驚愕で、動きが鈍る。停止した思考は、致命的な遅延を生んだ。

 濃い紫色の双眸は、背筋が震えるほど冷ややかだった。

 一見、武器は持っていない。それなのに、今にも切りかかられそうな気配がする。

「っ」

 アルバートは咄嗟に後退しようとした。

 靴底で地面が抉れて、嫌な音が鳴る。視界から、青年が消えた。

「は?」

「え?」

 きょとんとした顔のローシャと目が合った。

 瞬間、首の後ろに衝撃。わけもわからないうちに、視界が暗転した。



 アルバートは、額に濡れたタオルを当てたまま嘆息した。

 屋敷の中には、一応応接間らしきものが存在する。

 カビが生えたような三人掛けのソファが二つと、脚が一本ぐらついているローテーブル。

 生活スペースには含まれていなかったが、念のため掃除しておいて良かった。

「ねえねえ、ふーちゃん」

 隣に腰掛けたローシャが、無邪気な声を上げる。

 来訪者は、普通に門から入ってきた。銀髪の青年は、対面のソファに座っている。そもそも敵ではなかったのだ。

「何で、よりによってあんなことしたんだよ」

 恥ずかしくてしょうがなかった。口調も自然と恨めしげになる。

 青年は、凍り付いたような無表情のまま肩を竦めた。

「ああしないと、おとなしくならないからな」

「そんなことないよ!」

「この間もそう言って、散々逃げ回っただろう」

 青年は溜め息を吐いて、アルバートに視線を移す。

「聞いていたのと違った」

「は?」

「セシリアからは、あんたは落ち着いている方だと聞いていたからな。たぶん、大丈夫だと思っていた」

 その言い方はあまりにあっさりしていて、アルバートは反応に困った。

 例え落ち着いている方だとしても、仲間が捕まって動揺しないのはおかしいと思う。

「ねえ、ふーちゃんってば」

 ローシャがソファを叩いた。確かに先ほどから、青年を見つめて口を開いていたような気がする。

 ナシュヴィルは、例の如く部屋の隅に座り込んでいた。顔を俯けていて、時折頭が危なっかしく揺れる。

 時が止まったようなこの屋敷の中で、彼だけがいつも忙しそうにしている。不規則な時間帯に出かけていって、帰るのはいつも真夜中だ。

 今日のように、昼間からずっといる方が珍しい。

 疲労は直接表情に表れていないが、大抵眠そうにしている。また、がくんと頭が揺れた。

「ふーちゃん、ちゃんとおなまえ、いわないとだめ」

 ローシャがやけに大人びた口調で窘める。

 そういえば、名前をまだ聞いていなかった。が、名乗ろうとすると手で止められた。

「メンフィスだ」

「ふーちゃんだよ」

 だから、ふーちゃんなのか。

 決まり悪そうに顔をしかめるメンフィスは、既に否定することを諦めているのだろう。何度試しても効果がなかったのかもしれない。

 テーブル上には、何も乗っていなかった。ここに、お茶のような気の利いた物は存在しないのだ。

 水や食料を補充するのはナシュヴィルの役目だ。が、水は本当に水しかない。そもそも、どこから持ってきているのかも定かではなかった。

 しかし、メンフィスは全く気にする素振りを見せない。これもまた慣れなのだろうか。

 ローシャやナシュヴィルがやたらに痩せているのは、明らかに食生活が原因だろう。そのうち、セシリアに相談しておいた方がいいかもしれない。

「今日は、仕事の話をしにきた」

 唐突に、メンフィスが切り出した。アルバートは目を白黒させる。

 しかし、発言者は眉一つ動かさない。

 あまりに突然の邂逅に、彼が何故ここに来たのか考える余裕もなかった。

「メンフィス、も、オリジン・オルゴールなのか」

「ああ。……ずっと屋敷にこもっているのは、逆に疲れるだろう」

「あー……うん、まあ」

「おつかれー」

 ローシャが無邪気な笑声を上げる。

 それにしても、発言に脈絡がなさすぎる。一体何が言いたいのだろう。

 思わず、似通っているようで微妙に異なった無表情の三人を見回す。

 ナシュヴィルは、無色透明だ。彼の場合は、記憶が奪われたような気配がない。もしかしたら、幼い頃からずっとこんな様子だったのではないか。

 ローシャは、極々薄いパステルカラーの印象がある。これは、彼女の藤色の頭髪と空色の瞳の影響かもしれない。ふとした瞬間に、奪われた記憶の残滓が見え隠れする。

 メンフィスは、そもそも表情を変える必要性を感じていないのではないか。ただ単に面倒臭いだけなのかもしれない。

 とにかく、この屋敷にいると無表情であることが当然のように思えてしまう。

 この場において、異物なのは自分の方だ。

「一週間後、商隊が荷物を運ぶ。それに紛れて外に出られるぞ」

「は?」

「おでかけ? おでかけ?」

 ローシャが急に眼を輝かせ始めた。うきうきした様子で足をばたつかせる。

 今にも飛びつきそうなローシャを押し留めて、アルバートは慌てた。

「いや、遊びに行くんじゃないんだろ」

「そうだな。一応仕事だ。荷はカルセオラリアまで運ぶ。名目上は、馬車の護衛だ」

「かるせお、らりあ?」

「ここから南の方向にある町だ。自分たちより他人を最優先する連中の集まりだな。今回届けるのも、他人への救援物資らしい」

 義務教育課程では、地理についてほとんど習わない。

 ミルニールは首都であるということ。騎士団に入ることができれば、まず首都のほど近くにあるタイムという町に行かなければならないこと。

 地理に関する知識は、それくらいしかない。

 今まで、ミルニールから出ることはないと思っていた。他にどんな町があるのか、知る必要性すらなかったのだ。

 ローシャは既に、行く気満々だ。とてもではないが、仕事になりそうにない。

 しかも、目的は護衛だ。そんなこと、素人にできるわけがない。

 しかし、メンフィスはやはり表情一つ変えなかった。

「それらしくついて行けばいい。元々、人数自体は足りているからな。外がどうなっているか、気分転換がてら見てくるだけだ」

 本当に、それでいいのだろうか。

 疑問に思いつつ、結局アルバートは彼の言葉を否定できなかった。

 ローシャが、あまりにも楽しそうだったからだ。

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