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神を思ってはならない  作者: 宮野香卵
第六章 そして彼は真実を知る
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 かたん、と微かな音が聞こえた。

 泥の中から這い上がるように、意識がゆっくり浮上する。

 目を開いて、アルバートはぼんやりと天井を眺めた。

 仮の住処として用意された廃屋は、前の孤児院と同じくらい広かった。それこそ部屋は有り余っている。

 室内には、黴臭いベッドと毛布がいくらか。窓から差し込む月光が、室内を淡く染め上げる。

「……ド、ア。鍵、は」

「開けた」

 ドアの側にいたナシュヴィルが、近付いてくる。

 彼は手に、縁の欠けた深皿を持っていた。微かに湯気がたなびいている。

 差し出された皿を、アルバートは何とか身を起こして覗き込んだ。

 のっぺりとした何かが、山になっていた。べちゃべちゃした、灰色っぽい半個体。

 温かな湯気に何の匂いもしないことが、逆に怖い。

 気まずい沈黙が、室内を支配する。

「何、これ」

「消化にいいもの」

 ナシュヴィルが首を傾げる。まさか、彼が一人でこれを作ったわけではないだろう。

 ローシャの顔が頭に浮かんだ瞬間、胸の辺りが刺し貫かれたように痛んだ。



 アルバートの腹にねじ込まれた石は、ローシャの記憶なのか。

 それが真実か否か、確かめる方法はない。今思えば、ミスラの嫌がらせだったのかもしれない。

 結果的に、彼女の思惑通りになったのだろう。

 あの言葉はアルバートの心に深々と突き刺さって、延々と鮮血を吹き零している。

 ローシャの顔が、まともに見られなくなった。

 オルゴールが切れた後、ローシャはめそめそと泣き出した。アルバートが急に余所余所しくなり、まともに返事をしなくなったからだ。

 そしてメンフィスが珍しく慌てたように駆け込んできて、彼は全てを悟ったらしい。

 特に何も言わず、新しい隠れ家に案内された。

 あくまで仮のものだと念を押されたが、アルバートは何も聞いていなかった。そんな余裕などない。

 漫然と時間を浪費している間に、気付けば一週間が経っていた。



 べちゃべちゃの物体に、スプーンが突き刺さっている。

 アルバートは苦笑いした。頬が引き攣って痛みが走る。

「セシリアに、なんか、言われた?」

「……アルバートは、具合が悪い。具合が悪かったら、消化にいいもの、食べればいい」

 ナシュヴィルが皿を突き出す。

 絶望的なくらい食欲が湧かなかった。これは、麦か何かを適当に煮込んだのだろうか。

「置いといてくれれば、後で、食うよ」

「今」

「は?」

「いつも残してるから。ローシャが、ちゃんと見張れって」

 ぐ、と吐き気がこみ上げる。

 無理矢理笑みを浮かべて、アルバートは俯いた。

 痛い。腹が痛い。しかし、それはきっと気のせいだ。

 罪悪感を覚えて、それで痛いような気がしているだけ。自己満足の苦痛だ。

 自分は、申し訳ないと思っている。罪の意識を抱いている。

 それだけでは、到底足りないというのに。

「大丈夫だって。ちゃんと、食べるから」

「嘘だ」

 頑なに首を振られて、アルバートは困った。

 きっと、ローシャに散々言われたのだ。

 ちゃんと食べなきゃだめだから。アルは、ずっとなにも食べてないから。

 あまりにも容易に想像できてしまう。ローシャは心配性だ。

 ナシュヴィルの持った皿から、いつの間にか湯気が消えていた。深く刺さったスプーンが、ぐらりと揺れる。

 慌てて柄を掴むと、驚くほど冷たかった。

 痺れたように、胃が痛かった。

 たぶん、空腹ではあるのだろう。それでも、食べる気が起きない。

 近頃ナシュヴィルにしか会っていないから何も言われないけれど、きっとやつれているだろう。目は落ち窪んで、酷い顔になっているはずだ。

「いいよ。置いといて」

「駄目だ」

「大丈夫だって。それより、水、持ってきてほしいんだけど」

 いつものパターンだ。そう言えば、ナシュヴィルは素直に部屋を出て水を持ってくる。

 案の定、ナシュヴィルは踵を返した。部屋を出て、暫し。すぐに戻ってきた。水をなみなみと湛えたコップを持っている。

 差し出されたので、受け取って飲み干す。

 皿の方はベッドの上に置きっぱなしだ。ナシュヴィルがいない間にじっと灰色の山を見つめてみたが、やはり食べる気が起きない。

 コップを返すと、ナシュヴィルはすぐにおかわりを持ってきた。

 もう一度、口を付ける。半分ほど飲んで、息を吐く。

「ほら、大丈夫だろ。水が飲めるってことは、ご飯も、食べられるよ」

「……本当に?」

「本当だって。大丈夫」

 ナシュヴィルはそれでもまだ粘った。本当に、と大丈夫、をさらに何度か繰り返す。

 最終的に、彼は首を捻りながら出て行った。

 室内が、静寂に包まれる。

 アルバートは息を吐いた。

 スプーンで、皿の中身を掻き回す。ぐちゃぐちゃと水音が鳴った。ほんの少し鳥肌が立った。

 試しに、スプーンの先にほんの少しすくって、口に入れる。咀嚼する。

 元々味がないのか、自分の味覚が麻痺しているのか。

 アルバートは、スプーンを投げ出した。

 駄目だ。やっぱり駄目だ。

 何も食べたくない。口にものを入れるだけで、すぐに吐き出したくなる。

 苦労して飲み込み、ベッドに寝転んだ。

 気付けば、腹を撫でている。

 求めていた石は、ここにあった。

 仮に、石を取り出せたとして。記憶は、本人に戻せるのだろうか。いや、取り出せるのなら、戻す方法も存在すると思う。

 脳裏に、チランジアの地下道で会った不可思議な男の言葉が蘇る。

 石が定着してしまったら、もう手遅れ。

 俄に不安が広がる。

 手遅れではないだろうか。まだ、間に合うだろうか。

 本当は、あの男に会えれば一番いいのだ。彼なら、喜んで石を取り出してくれる。

 アルバートは、ぐっと歯を食い縛った。

 一週間、ずっと思考は絡み合ったままだ。同じことばかり考えて、勝手に一人で傷ついている。

 ベッドの上で、体を丸めた。

 背中の筋が痛い。関節が痛い。腹が痛い。

 体の至る所が、不満を訴えている。四の五の言わず飯を食えと、叫んでいる。

 嫌だ。食欲なんてない。

「──アル」

 びく、と肩が跳ねた。同時に目の前が暗くなる。

 鍵を、かけていない。すっかり油断していた。

 ローシャは、いつもナシュヴィルと一緒に来なかった。自分が避けられていると察しているからだ。

 ナシュヴィルだけならアルに会ってもらえる。だから、付いてこなかった。

「ねえ、アル。ごはん、たべてないでしょ」

 彼女の声は、明らかに不満げだった。

 むくれている。ただ、ドアは開かなかった。

 アルバートは震えながら、内心首を傾げる。

 ナシュヴィルは出て行くとき、鍵を閉めない。いつも、アルバートが体を引きずって閉めに行く。

 じゃあ、何で。

 混乱するアルバートを余所に、ローシャの声は続く。

「ごはん、たべてよ。しんじゃうよ。わたしたちが作ったの、やっぱりおいしくない? がんばってるんだけど、かわんないの。で、でもね、いき、止めてたべたら、ぜんぜんだいじょぶだよ」

 ローシャはいつも、しんじゃやだ、と言う。

 アルバートが窮地に陥ったとき、薄暗い死を吹き飛ばそうとするかのように叫ぶ。

 大丈夫、とアルバートは、心中で呟いた。

 もう一週間もろくに食べていないが、自分が死に片足を突っ込んでいる自覚はなかった。

 もしかしたら、これも石の力なのかもしれない。

 石が、ローシャの記憶が、命を繋いでいる。

 一瞬、崖っぷちでローシャに必死で手を掴まれている光景が浮かぶ。アルバートの体は半ば深淵にはみ出しているし、彼自身も落ちることに抵抗がない。

 それでも、ローシャは手を離さない。駄々っ子のように唸りながら、引っ張り上げようとしている。

「ねえ。ねえ、アル」

 もどかしげな声だった。壁越しに少しでも声を届けようと、彼女は必死だ。

 アルバートは身を強張らせたまま、耳を塞ぐ。

「アル。わたし、なんかした? ……きらいに、なったの? わがまま言ったから?」

 今にも泣き出しそうな声を上げて、ローシャがドアを叩く。

 ふと、声が遠くなる。

「わたしがいい子じゃないから、アル、ごはんたべないの? わがまま、もういわないよ。ごはんも、ちゃんと食べるよ。えーと、あと、あと」

 ぐすぐすと、鼻を啜る音がした。

「あとね、あと、おてつだい、もっとがんばるよ。アルがおそうじしてたら、ちゃんとてつだうから。もう、あそぼって言わないから。

 ……ね。ねえ、アル。わたし、もうはなしかけない方がいい? アルが、いやだったら、ずっとだまってるよ」

 がくんと沈み込んだ声音に、泣きたくなる。

 アルバートはベッドの上で頭を抱えた。何でローシャの声が聞こえるのかと思ったら、いつの間にか耳から手が離れていた。

 ひくりと、喉が震える。嗚咽が漏れた。

 抑えようとしても、堪えきれなかった。

 黴臭い枕に顔を押しつける。臭い。気持ち悪い。

 脳天気に、ローシャの石を探すと言っていた自分が馬鹿みたいだ。探すも何も、石は初めからここにあったのに。

 こんなに近くに。一番近くに。

 勝手にぎゃーぎゃー言いながら、その力に頼っていたなんて。

 涙で顔がどろどろだった。拭っても拭っても止まらない。

 ローシャもドアの向こうで泣いていた。

 子供のように泣き叫んでいるから、きっとアルバートが泣いていることには気付いていない。

 うわあああ、とローシャが叫ぶ。

 この建物の付近に誰かが潜んでいたら、一発でばれそうだ。

 ナシュヴィルが宥めてくれるだろう。アルバートも彼女の慟哭に紛れて、声を上げた。

 どうして。どうして、こんなことになってしまったのか。

 真っ黒な絶望感に侵されたまま、アルバートは目を閉じる。

 どろりとした眠気が意識を絡め取り、勝手に眠りに引き込んだ。

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