7
かたん、と微かな音が聞こえた。
泥の中から這い上がるように、意識がゆっくり浮上する。
目を開いて、アルバートはぼんやりと天井を眺めた。
仮の住処として用意された廃屋は、前の孤児院と同じくらい広かった。それこそ部屋は有り余っている。
室内には、黴臭いベッドと毛布がいくらか。窓から差し込む月光が、室内を淡く染め上げる。
「……ド、ア。鍵、は」
「開けた」
ドアの側にいたナシュヴィルが、近付いてくる。
彼は手に、縁の欠けた深皿を持っていた。微かに湯気がたなびいている。
差し出された皿を、アルバートは何とか身を起こして覗き込んだ。
のっぺりとした何かが、山になっていた。べちゃべちゃした、灰色っぽい半個体。
温かな湯気に何の匂いもしないことが、逆に怖い。
気まずい沈黙が、室内を支配する。
「何、これ」
「消化にいいもの」
ナシュヴィルが首を傾げる。まさか、彼が一人でこれを作ったわけではないだろう。
ローシャの顔が頭に浮かんだ瞬間、胸の辺りが刺し貫かれたように痛んだ。
アルバートの腹にねじ込まれた石は、ローシャの記憶なのか。
それが真実か否か、確かめる方法はない。今思えば、ミスラの嫌がらせだったのかもしれない。
結果的に、彼女の思惑通りになったのだろう。
あの言葉はアルバートの心に深々と突き刺さって、延々と鮮血を吹き零している。
ローシャの顔が、まともに見られなくなった。
オルゴールが切れた後、ローシャはめそめそと泣き出した。アルバートが急に余所余所しくなり、まともに返事をしなくなったからだ。
そしてメンフィスが珍しく慌てたように駆け込んできて、彼は全てを悟ったらしい。
特に何も言わず、新しい隠れ家に案内された。
あくまで仮のものだと念を押されたが、アルバートは何も聞いていなかった。そんな余裕などない。
漫然と時間を浪費している間に、気付けば一週間が経っていた。
べちゃべちゃの物体に、スプーンが突き刺さっている。
アルバートは苦笑いした。頬が引き攣って痛みが走る。
「セシリアに、なんか、言われた?」
「……アルバートは、具合が悪い。具合が悪かったら、消化にいいもの、食べればいい」
ナシュヴィルが皿を突き出す。
絶望的なくらい食欲が湧かなかった。これは、麦か何かを適当に煮込んだのだろうか。
「置いといてくれれば、後で、食うよ」
「今」
「は?」
「いつも残してるから。ローシャが、ちゃんと見張れって」
ぐ、と吐き気がこみ上げる。
無理矢理笑みを浮かべて、アルバートは俯いた。
痛い。腹が痛い。しかし、それはきっと気のせいだ。
罪悪感を覚えて、それで痛いような気がしているだけ。自己満足の苦痛だ。
自分は、申し訳ないと思っている。罪の意識を抱いている。
それだけでは、到底足りないというのに。
「大丈夫だって。ちゃんと、食べるから」
「嘘だ」
頑なに首を振られて、アルバートは困った。
きっと、ローシャに散々言われたのだ。
ちゃんと食べなきゃだめだから。アルは、ずっとなにも食べてないから。
あまりにも容易に想像できてしまう。ローシャは心配性だ。
ナシュヴィルの持った皿から、いつの間にか湯気が消えていた。深く刺さったスプーンが、ぐらりと揺れる。
慌てて柄を掴むと、驚くほど冷たかった。
痺れたように、胃が痛かった。
たぶん、空腹ではあるのだろう。それでも、食べる気が起きない。
近頃ナシュヴィルにしか会っていないから何も言われないけれど、きっとやつれているだろう。目は落ち窪んで、酷い顔になっているはずだ。
「いいよ。置いといて」
「駄目だ」
「大丈夫だって。それより、水、持ってきてほしいんだけど」
いつものパターンだ。そう言えば、ナシュヴィルは素直に部屋を出て水を持ってくる。
案の定、ナシュヴィルは踵を返した。部屋を出て、暫し。すぐに戻ってきた。水をなみなみと湛えたコップを持っている。
差し出されたので、受け取って飲み干す。
皿の方はベッドの上に置きっぱなしだ。ナシュヴィルがいない間にじっと灰色の山を見つめてみたが、やはり食べる気が起きない。
コップを返すと、ナシュヴィルはすぐにおかわりを持ってきた。
もう一度、口を付ける。半分ほど飲んで、息を吐く。
「ほら、大丈夫だろ。水が飲めるってことは、ご飯も、食べられるよ」
「……本当に?」
「本当だって。大丈夫」
ナシュヴィルはそれでもまだ粘った。本当に、と大丈夫、をさらに何度か繰り返す。
最終的に、彼は首を捻りながら出て行った。
室内が、静寂に包まれる。
アルバートは息を吐いた。
スプーンで、皿の中身を掻き回す。ぐちゃぐちゃと水音が鳴った。ほんの少し鳥肌が立った。
試しに、スプーンの先にほんの少しすくって、口に入れる。咀嚼する。
元々味がないのか、自分の味覚が麻痺しているのか。
アルバートは、スプーンを投げ出した。
駄目だ。やっぱり駄目だ。
何も食べたくない。口にものを入れるだけで、すぐに吐き出したくなる。
苦労して飲み込み、ベッドに寝転んだ。
気付けば、腹を撫でている。
求めていた石は、ここにあった。
仮に、石を取り出せたとして。記憶は、本人に戻せるのだろうか。いや、取り出せるのなら、戻す方法も存在すると思う。
脳裏に、チランジアの地下道で会った不可思議な男の言葉が蘇る。
石が定着してしまったら、もう手遅れ。
俄に不安が広がる。
手遅れではないだろうか。まだ、間に合うだろうか。
本当は、あの男に会えれば一番いいのだ。彼なら、喜んで石を取り出してくれる。
アルバートは、ぐっと歯を食い縛った。
一週間、ずっと思考は絡み合ったままだ。同じことばかり考えて、勝手に一人で傷ついている。
ベッドの上で、体を丸めた。
背中の筋が痛い。関節が痛い。腹が痛い。
体の至る所が、不満を訴えている。四の五の言わず飯を食えと、叫んでいる。
嫌だ。食欲なんてない。
「──アル」
びく、と肩が跳ねた。同時に目の前が暗くなる。
鍵を、かけていない。すっかり油断していた。
ローシャは、いつもナシュヴィルと一緒に来なかった。自分が避けられていると察しているからだ。
ナシュヴィルだけならアルに会ってもらえる。だから、付いてこなかった。
「ねえ、アル。ごはん、たべてないでしょ」
彼女の声は、明らかに不満げだった。
むくれている。ただ、ドアは開かなかった。
アルバートは震えながら、内心首を傾げる。
ナシュヴィルは出て行くとき、鍵を閉めない。いつも、アルバートが体を引きずって閉めに行く。
じゃあ、何で。
混乱するアルバートを余所に、ローシャの声は続く。
「ごはん、たべてよ。しんじゃうよ。わたしたちが作ったの、やっぱりおいしくない? がんばってるんだけど、かわんないの。で、でもね、いき、止めてたべたら、ぜんぜんだいじょぶだよ」
ローシャはいつも、しんじゃやだ、と言う。
アルバートが窮地に陥ったとき、薄暗い死を吹き飛ばそうとするかのように叫ぶ。
大丈夫、とアルバートは、心中で呟いた。
もう一週間もろくに食べていないが、自分が死に片足を突っ込んでいる自覚はなかった。
もしかしたら、これも石の力なのかもしれない。
石が、ローシャの記憶が、命を繋いでいる。
一瞬、崖っぷちでローシャに必死で手を掴まれている光景が浮かぶ。アルバートの体は半ば深淵にはみ出しているし、彼自身も落ちることに抵抗がない。
それでも、ローシャは手を離さない。駄々っ子のように唸りながら、引っ張り上げようとしている。
「ねえ。ねえ、アル」
もどかしげな声だった。壁越しに少しでも声を届けようと、彼女は必死だ。
アルバートは身を強張らせたまま、耳を塞ぐ。
「アル。わたし、なんかした? ……きらいに、なったの? わがまま言ったから?」
今にも泣き出しそうな声を上げて、ローシャがドアを叩く。
ふと、声が遠くなる。
「わたしがいい子じゃないから、アル、ごはんたべないの? わがまま、もういわないよ。ごはんも、ちゃんと食べるよ。えーと、あと、あと」
ぐすぐすと、鼻を啜る音がした。
「あとね、あと、おてつだい、もっとがんばるよ。アルがおそうじしてたら、ちゃんとてつだうから。もう、あそぼって言わないから。
……ね。ねえ、アル。わたし、もうはなしかけない方がいい? アルが、いやだったら、ずっとだまってるよ」
がくんと沈み込んだ声音に、泣きたくなる。
アルバートはベッドの上で頭を抱えた。何でローシャの声が聞こえるのかと思ったら、いつの間にか耳から手が離れていた。
ひくりと、喉が震える。嗚咽が漏れた。
抑えようとしても、堪えきれなかった。
黴臭い枕に顔を押しつける。臭い。気持ち悪い。
脳天気に、ローシャの石を探すと言っていた自分が馬鹿みたいだ。探すも何も、石は初めからここにあったのに。
こんなに近くに。一番近くに。
勝手にぎゃーぎゃー言いながら、その力に頼っていたなんて。
涙で顔がどろどろだった。拭っても拭っても止まらない。
ローシャもドアの向こうで泣いていた。
子供のように泣き叫んでいるから、きっとアルバートが泣いていることには気付いていない。
うわあああ、とローシャが叫ぶ。
この建物の付近に誰かが潜んでいたら、一発でばれそうだ。
ナシュヴィルが宥めてくれるだろう。アルバートも彼女の慟哭に紛れて、声を上げた。
どうして。どうして、こんなことになってしまったのか。
真っ黒な絶望感に侵されたまま、アルバートは目を閉じる。
どろりとした眠気が意識を絡め取り、勝手に眠りに引き込んだ。