2
腕に、鋭い痛みが走る。
注射針を刺されても、ろくに抵抗できなかった。ベッドにぐったりと横たわったまま、ただ呼吸を繰り返す。
それは、ナシュヴィルも同じようだった。寧ろ、彼の方が症状は酷い。
誰も掃除しない部屋は、どんどん埃っぽくなっていく。
一つだけある窓は外から板を打ち付けられてしまい、そもそも開けられない。
室内は常に薄暗かった。たった一つ放り込まれたランプが、ぼんやりとした白い光を放っている。
本当にここは、毎日過ごしていた廃屋なのだろうか。
薄暗く埃っぽく、三人分の吐息が籠もって湿っぽい。
まるで、ここは牢獄だ。
「……アル」
ローシャに呼びかけられて、アルバートは何とか身動ぎした。じゃら、と耳障りな金属音が響いた。
ベッドに転がったまま、口の中がどろどろに溶けてしまいそうな熱い息を吐き出す。
返事をしたつもりの口からは、荒い吐息が零れた。
ローシャが今にも泣き出しそうな顔をしている。ベッドの横に椅子が置いてあって、彼女はその上で膝を抱えていた。
唯一の抵抗手段である指輪すら奪われて、ローシャは項垂れていた。時折、思い出したように身震いする。
一度アルバートが注射されるのを阻止しようとして、レオに殴られた。それがずっと尾を引いているらしい。
ふと思いついたように、ローシャはアルバートの首に触れた。正確には、そこにはめられた金属の首輪に。
首輪とベッドの柵は、無骨な鎖で結ばれている。こんなものがなくても、どうせ逃げ出す力など残っていないのに。
ちなみに、ナシュヴィルの首に輪はない。
彼は胸を押さえて、ベッドで仰向けになっている。呼吸は浅い。胸部がゆっくりと上下している。目を凝らさなければわからないほど、緩慢に。
じわじわこみ上げてくる危機感に、吐き気を覚える。
ナシュヴィルは──このまま、死んでしまうのではないか。
「ろー、しゃ」
「……ね、なんで? なんで、アルもしーちゃんも、いじめられるの? なんで、わたしたち、だしてもらえないの?」
ローシャが唇を噛み締めて、俯く。
「セシリアも、ふーちゃんも、きてくれるよね。だし、て、くれる、よね?」
縋るように見つめられて、アルバートは目を瞬かせた。
腹部の痛みのせいで、熱っぽい。両目にはずっと涙が溜まっていて、瞬きする度に目尻を滑り落ちる。
今この廃屋には、クラークと呼ばれた青年とレオ以外にも何人か入り込んでいる。白衣を纏った男が数人。
血を抜かれたり、妙な機械に繋がれたり。同じようなことを毎日繰り返される。
カムリはいつの間にか、消えていた。どこかへ連れて行かれたのかもしれない。
食事は与えられず、点滴で最低限の栄養が補給されている。ローシャは、小さなパンや薄いスープを貰っている。
それをまずアルバートとナシュヴィルに差し出し、やがて諦めたように自分でかじる。
ぐすぐすと、ローシャが鼻を啜った。
「ねえ、アル。やっぱり、いたい? くる、しい?」
「い、たい」
「いたいの。いたいの、いやだ。……しーちゃん、ぜんぜんね。わたしの話、きいてくれないの。いたいから、かな?」
「そ、う、だな」
慰めるために、頷いた。強張っていたローシャの表情が、ほんの僅かに緩む。
彼女は床に足を下ろすと、今度はナシュヴィルの側に向かった。
彼は完全に意識を失っているようで、全く反応を示さない。額に汗を浮かべて、眉を顰めている。時々、微かに呻いている。
ナシュヴィルはベノムに襲われても、どれだけ絞め上げられても、平気そうな顔をしていたのに。仲間のはずの人間に突然切りかかられても、罵倒されても。
「やっほー」
不意に、ノックもなしにドアが開いた。ローシャがびくりと震えた。
レオが遠慮の欠片もなく入り込んでくる。
見るからに怯えて、ローシャが身を縮こまらせた。
レオはそんな彼女を愉快そうに一瞥して、すぐに視線をアルバートに移した。
ローシャが駆け寄ってきて、間に入ろうとする。しかし、直前で身が竦んでしまったようだ。おどおどと視線を彷徨わせている。
「あるばーと、元気?」
そんなわけがない。
アルバートはそう思ったが、反論する余力がなかった。精々不満げに聞こえるように、息を吐く。
「そっか、元気なわけないよね。僕はやったことないからわかんないけど、クラークはそれ、一回使われたんだって。すっごく苦しかったって、言ってた」
一瞬だけ顔を曇らせたが、レオはすぐにまた笑う。
いつも通りの、無邪気な笑み。しかし、頬の辺りが僅かに引き攣っているような。
彼は何度か口を開閉して、ベッドの端に座った。
「ねえ。……ちょっと、って、どれくらいかな」
「ちょっと?」
ローシャが首を傾げる。一瞬怯えていたことも忘れたように、真剣に考え込んでいる。
「わかんない」
「でもさ。ちょっとって、少ないってこと、だよね」
「わかんないよ。でも、たぶんそう」
レオの顔が強張った。ぴしりを音を立てて凍り付き、笑みが萎れる。
アルバートは、内心首を傾げた。
レオがこんなに落ち込んでいたことなど、あっただろうか。良くも悪くも悪気がなく、自分の欲を追求するのが彼の特徴だ。
ローシャも、異変を感じ取ったらしい。
「なんか、へん」
「……そんなわけ、ないじゃん。僕、普通だよ」
苦笑いして、レオは俯く。
シャツの裾を掴んで、ベッドを叩いた。何度も、何度も。薄暗い室内に、軽い音が響く。
アルバートはふと身動ぎした。体がべたべたする。気持ち悪い。
一体彼らがやってきてから、どれくらい時間が経ったのだろう。ずっと痛みで微睡み、日の光も浴びていない。時間の感覚はとっくになかった。
ローシャは時々シャワーに連れて行ってもらっているようだから、それだけがまだ救いだろう。後は、彼女のベッドがあればいいのだが。
二つの寝台はアルバートとナシュヴィルが使っているので、ローシャは床で寝ている。床に毛布を重ねて、その上で体を丸める。
寝心地は当然良くないだろう。実際、いつもぐずっている。
「れ、お」
何とか呼びかけると、彼はびくりと肩を跳ねさせた。
弾かれたように顔を上げ、また項垂れる。視線を合わせようとしない。まるで、親に叱られるのを待つ子供のようだ。
「ろーしゃ、が、ねやすい、よう、に、して」
「……え?」
「もうふ、でも、なんで、も、いい、から」
レオは束の間、拍子抜けしたような表情を浮かべた。ぽかんと口を開け放ち、アルバートを見つめる。
じりじりと、ランプの方から嫌な音が聞こえた。
もうずっと付けっぱなしであることを抗議するかのような。
レオが不意に、笑った。笑い声自体は快活だったが、顔は今にも泣き出しそうだった。
「それより、あるばーとと一号がシャワー使う方が先だよ。この部屋、すっごい臭いもん。ミスラに、頼んできてあげる」
勢い良く立ち上がって、レオは弾むように部屋を出ていく。ばたん、と大きな音を立ててドアが閉まった。
しかし、アルバートは元よりローシャですら驚かない。
「へんなの」
ローシャが、ぽつりと呟く。
全くだ、とアルバートは思った。
部屋を出たレオは、真っ先にミスラの元へ向かった。
ここは、元々孤児院だったらしい。部屋はたくさんあって、レオは初めて自分の部屋を貰った。
例の地下施設に、彼の部屋はない。レオの部屋ではなく、あくまでミスラの部屋に間借りしている状態だった。
彼女とずっと一緒にいられることは、嬉しい。
しかし自分以外の子供たちは、個別に部屋を持っていた。いくらレオでも、そうなると不満を抱かざるを得ない。
そんな中で部屋を一つ貰えたのだ。実は、躍り上がるほど嬉しかった。
けれど、部屋は本当に一時のものだ。
すぐに出て行かなければならないから、家具も置けない。誰かを部屋に呼んで、一緒に遊ぶこともできない。
「ちょっとだって、言ったのに」
レオは、憮然とした面持ちのまま呟いた。
無人の廊下に、拗ねた声が空しく響く。
そういえば、クラークの姿を暫く見ていない。
レオは落ち着きなく視線を巡らせながら、歩き続ける。
彼は地下より、この地上にある大きな建物の方が好きだった。古いし黴臭いし、決して綺麗ではないが。
それでも、ここは暖かい。日の光を浴びるのは心地がいいし、外に出てぼんやり空を眺めるのも全く飽きない。
ふと、憂鬱になる。
ここには、ずっといられるわけではない。
密かに外に出て、小さな骨や綺麗な石を拾ってきて並べているあの部屋も、いずれ出なければならない。
不意に、怒鳴り声が聞こえた。罵声だ。口汚く何かを罵っている。けれど、何を言っているのかは判別できない。
レオは思わず立ち止まった。顔をしかめる。
客間、というらしい。あの男が根城にしているのは。
いつの間にか、すぐ隣に少年が立っていた。
「あいつ、また怒ってんの」
「……クラークかな」
「どうせそうだろ。俺とかお前だと抵抗するからって、あいつクラークしか怒鳴れないんだよ。俺、あんな奴がバディじゃなくてほんと良かった」
げ、と舌を出して嫌悪を露わにしているのは、リオだ。
ばさばさの髪の毛は焦げ茶色で、目は緑色。
似ている、とよく言われる。レオは認めたくなかったが、名前まで似ているのだからどうしようもない。
乾燥しきった髪の毛は、焦げ茶と亜麻色。似ている。
目の色だけが、緑と桃色でかなり異なるのだが。
ピンクは、女の色だ。女々しい色だと、今まさに怒鳴っているあの男に笑われたこともある。
リオと違って良かったと思うこともあるけれど、やっぱりピンクの目なんて嫌だ。嫌いだ。
「なあ、あいつさ、今度ぶっ殺してやんない? いい加減ムカつくんだよね。なんか、俺らを下に見てる感じするじゃん。あいつ、別に何もしてないのにさ」
口を尖らせて、リオが床を蹴る。
ヒステリックな怒鳴り声は相変わらず響いていて、胸がもやもやした。レオは眉根を寄せて、胸を掻く。
「ねえ。あるばーとたちにあれ、使うのって」
「あれって、あれ?」
「うん。苦しい奴」
「俺も試したことないしなー。まあ、クラークは嘘言わないだろうけど」
肩を竦め、リオが無言で先を促す。
「ちょっと、って言ってたよね? ちょっとって、少しって意味だと思ってたんだけど、僕」
「そういえば、最初言ってたより長いかもな。俺、すぐ帰れると思ってた。けど、何だかんだもう一週間は経ってるだろ」
怒鳴り声が、不意に止んだ。二人は反射的に耳をそばだてる。
客間は、一番豪華な部屋だ。家具も他の部屋より揃っていて、寝台はクラークが運び込んでいた。
レオは一度ちらりと中を見ただけだったが、ベッドより寝心地の良さそうなソファが二つもあった。テーブルも置いてあった気がする。
ご飯を食べるには、あまり良くなさそうな低いテーブルだった。
リオは深々と息を吐いて、レオの腕を引っ張る。
「とばっちりも嫌だし、話すなら俺のとこに行こう」
意味なく怒鳴られるのは、苛々する。
レオは頷いて、自分より少し背の高い少年について行くことにした。
埃っぽい空気を吸い込んだせいか、くしゃみが出る。
本当に、ちょっとだったはずなのに。
レオは先ほどとは違った胸のむかつきに、小さく呻いた。