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神を思ってはならない  作者: 宮野香卵
第六章 そして彼は真実を知る
40/50

 ローシャが、床に座り込んでいる。おもむろに差し伸べた手の先に、緋色の豹が座っていた。

 きちんと姿勢を正して、首を傾げる。

 ローシャも同じように首を傾げた。アルバートはそれを、床にモップをかけながら眺めていた。

 なみなみと水を注いだ桶にモップを突っ込んで、廊下を擦る。つい先ほどまで、ローシャはしがみついてしつこいくらい遊びをせがんでいた。

 しかし、ここ最近外出が多かったせいで掃除が全く追いついていないのだ。遊んでいる場合ではない。

 ローシャは今、カムリに芸を仕込むことにはまっている。セシリア辺りの差し金かもしれない。

 カムリはいつも、困ったように首を傾けている。

 時にはローシャに付き合うこともあるが、本当に時々だ。やたらに人間らしい仕草をしては、確認するようにアルバートを見上げる。

 その度に、アルバートは気まずくなった。

 まだ、自分は豹のことをカムリと呼べていない。

「ねー、カムリ。カムリ」

 ぱしぱしと頭を叩かれて、カムリが鼻を鳴らす。

「おて。おてだよ、おーて」

 ローシャが彼の前脚を掴んだ。当然、無理矢理だ。

 カムリは顔を逸らして、アルバートが使うモップを眺めている。

 とりあえず個室の掃除は終わった。後は廊下を何とかすればいい。

 元々孤児院だったこの建物は、とにかく部屋数が多かった。もう少し狭くてもいいのに。

 それにしても、今日の昼ご飯は何だろう。ぼんやり考えながら、アルバートはモップを動かす。

 麗らかな昼下がりだった。

 窓から覗く秋晴れの空には、綿雲がいくつか浮かんでいる。ゆったりと流れる様子を見ていると、昼寝でもしたい気分になった。

 しかし、そんな暇はない。昼食を済ませたら次は洗濯だ。

「ねえ、アル。まだ? まだ遊んじゃだめ?」

「駄目。次は洗濯」

「ええー」

 頬を膨らませ、ローシャが腰にしがみついてくる。

 カムリもぺたぺたと歩み寄ってきた。

 しかし、不意に足を止める。耳を動かして、辺りを見回した。長い尻尾が、ぴんと天井を指す。

 ローシャが戸惑ったように震えた。

「カムリ? お腹、すいた?」

 ふるふると、カムリは首を横に振る。そもそも彼は、特別栄養を必要とする体ではないらしい。一応、ローシャから野菜の切れ端を貰っている。

 誰も確信を持てていなかったが、おそらく飢えて死ぬことはないのだろう。

 そのカムリが、全身を逆立てて警戒している。

 ふと鳥肌が立って、アルバートはモップを壁に立てかけた。ローシャが、今度はカムリに抱きつく。

「……誰か、来た?」

 アルバートがしゃがみ込んで問いかけると、カムリが視線を寄越す。

 溢れんばかりに警戒心を湛えた、黄色の瞳。縦に開いた瞳孔が、不安げに揺れていた。

 アルバートは立ち上がって、膝を叩く。

 前にこんなことがあったときは、確かメンフィスが来ていたはずだ。ナシュヴィルがいればすぐわかるのだが、彼は生憎出かけている。

「玄関の方、見てくる。もしかしたら、メンフィスかナシュヴィルかもしれないし」

「アル、だいじょぶ?」

「大丈夫だって。なんかあったら、すぐ──」

 どくん、と腹が脈打った。

 アルバートは顔をしかめる。瞬く間に冷や汗が噴き出した。腹を押さえて、辛うじて蹲るのを堪えた。

 ずきずきと、膿んだような痛みが走る。

 カムリに抱きついていたローシャが、瞬く間に表情を曇らせた。

「ア、ル? お腹、いたいの?」

「い、や。大、丈夫」

「やっぱり、わたし見てくる。まってて」

「え、あっ」

 止める暇もなく、ローシャはぱたぱたと駆けて行ってしまった。後を追おうと足を踏み出した瞬間、痛みが跳ね上がる。

「ぐっ」

 アルバートは今度こそ蹲った。

 慌てたようにカムリが寄ってくる。

「っ、うう、う」

 それは、不穏な痛みだった。じくじくと、体の内側が腐っていくかのような。

 ここ一週間近く、ずっとこの痛みが続いている。

 程度は様々で、ただ鈍い痛みが続くこともある。今日のように、腹を刃で切り裂かれたような痛みが襲ってくることもある。

 そろそろセシリアに相談しなければ不味い。ただ、踏ん切りが付かない。

 怖かった。もし、彼女に「もう駄目だ」と診断されてしまったら。それが恐ろしくて、暫くセシリアとは話していない。

 これまでは二日か三日に一度は地下のスクリーンと向き合っていたのに。

 カムリが気遣わしげに擦り寄ってくる。彼のゼリーのような体はひんやりしていた。痛みで熱を伴った体には心地良かった。

 体を丸めて、必死で堪える。

 ローシャが戻ってきたら、メンフィスかナシュヴィルが一緒だろう。ナシュヴィルならまだいい。メンフィスだったら。

 思わず、引き攣った笑みが漏れた。

 親の怒りを恐れる子供は、こんな気持ちかもしれない。

「いでっ、い、いだだだ」

 きゅう、とカムリが鳴いた。鼻面を押しつけてくる。

 痛い。痛すぎて、何だか面白くなってきた。

 この痛みは、やっぱり石のせいなのだろうか。腹に収まった石が、ぐるぐると暴れ回っているのかもしれない。

 アルバートは呻きながら、腹部を掻き毟る。

 今日は、特に酷い。痛みが強いときは、大抵すぐ良くなるのに──。


「あー、あうー」

 声が、響いた。

「ろー、しゃ?」

 顔を上げる。直後、アルバートは呆然と口を開け放った。

 ローシャが高い位置からぶら下がっている。ふらふらと、両足が揺れていた。彼女の細い首が、後ろから誰かに掴まれている。

「はーなーしーてー、はなしてってばー」

 ローシャが足をばたつかせる。それでも、相手はびくともしない。

 彼女自身苦しがってはいない。そのせいで、緊張感は全くと言っていいほど感じない。

「オルゴールは、効いたみたいだな」

 彼女の背後から、男の声が聞こえた。

 男というよりは、青年と表現した方が正しいかもしれない。落ち着いた、低い声。

 不意に、ローシャの首から手が離れた。一目散に駆けてくる姿を見て、アルバートは安堵する。

「アル、アル。お腹、お腹、だいじょぶ?」

「……いたい」

 ローシャとカムリがそれぞれ腹を擦ってくれたが、痛みは軽くならなかった。

 しゃらん、と涼やかな音が、耳に入る。

 音に釣られて顔を上げる。男の手に銀鎖が見えた。そういえば、耳を澄ますと微かに単調な音色が聞こえる。

 男が鎖に繋がれた丸い部分をこちらに向けて、蓋を開いた。

 懐中時計だ。鈍い銀の煌めき。白地に黒で描かれた文字盤。ただ、本来あるべき長針と短針がない。

 男は夕日のようなオレンジ色の短髪だった。涙ぐんでぼやけた視界に、鮮やかな色彩が焼き付く。

 見下ろされているせいか、やたらに背が高く見えた。

「これは、特別製なんだ。俺たちにしか効かない」

「とけい?」

「そう。時計の形のオルゴール。例えば、こうすると」

「う、あああっ」

 男が時計を一振りした途端、痛みが跳ね上がった。

 アルバートは思わず悲鳴を上げ、腹に指を食い込ませる。耳元で血液が逆流する音が聞こえる。

「いやっ、いやだ、いやだアル。し、しな、しんじゃ、しんじゃやだ」

 右手を取られて、反射的に強く握り返す。

 大袈裟でも何でもなく、本当に、死ぬかもしれないと思った。血の気が引く。

 痛い。痛い。

 ローシャが、微かに呻いた。

 それでも、必死の形相でアルバートの手を握り返してくる。

 何とか男の手から時計を叩き落としたい。が、そんな力は残っていない。

「残念だけど、下手な真似をすると、こうなる。それだけ覚えておいて。ちなみに、これがてっぺんじゃないんだ。もっと上があるから」

「何で、なんでアル、いじめるの? アル、なんにもわるいことしてない!」

 止める間もなくローシャが男に飛びかかった。両手で殴る。ぱしぱしと、軽い音が鳴った。あまりにも軽い打撃だった。

 男は当然動じず、寧ろどこか楽しそうだった。片手でローシャの手を防ぎながら笑う。

「一号も、そろそろ帰ってくるだろ。まあ、来なかったら困るんだけど」

「なに。いちごーって、なに?」

「一号は一号だよ。いっつも会ってるだろ」

 ローシャは不思議そうに首を傾げている。

 一号。ナシュヴィルも、体に石が入っている。

 ここに帰ってきたら、彼も同じような状態になってしまうのだろうか。ナシュヴィルに限って、そんなことはないと思うが。

 しかし、期待は呆気なく覆された。

 足音がした。軽やかに弾むそれが、どんどん近付いてくる。

「ねえ、クラーク!」

 廊下の角から顔を覗かせたのは、レオだった。

 ぼさぼさの茶髪を揺らして、駆けてくる。その肩に、黒い固まりを抱えていた。担いだままやってきて、男の前に無造作に落とす。

「しーちゃん!」

 ローシャが悲鳴を上げた。

 固まりは、いつもの黒いぼろ布を纏ったナシュヴィルだった。がたがたと、大袈裟なくらい震えている。

 酷い顔色だった。ローシャよりやや濃いくらいだった肌の色が、異様に青白い。

 レオがおもむろにしゃがみ込んで、彼の背中をつついた。

「凄いね! 一号、弱っちくなっちゃった」

「まあ、密度の高い石を使ってるみたいだしな。上も必死なんだろ。それより、あんまり効いてる奴に触るなよ。危ないから」

「わかってるよ。ミスラにも言われたもん」

 口を尖らせて、彼はなおもナシュヴィルにちょっかいをかけ続ける。つついたり、引っ張ったり、叩いたり。

 反撃されないとわかっているからか、やけにしつこい。

 ナシュヴィルは微かに呻きながら、身を捩った。震えながら、緩慢な動きで体を丸める。あまりにも弱々しい抵抗だった。

 ローシャが顔を歪めて、レオの手を叩いた。

「やめてよ。しーちゃん、いやだって」

「うるさいなー。いいじゃん別に。僕、わざわざ遊んであげてるんだよ」

「ばーか」

「うっさいチビ」

「いいから運ぶぞ。お前は一号」

「嫌だ。僕、あるばーとがいい」

「はいはい」

 抱え上げられて、アルバートは朦朧としながら目を瞬かせた。ぐらぐらと、危なっかしく頭が揺れる。

 彼らは何故ここにやってきたのか。そもそもどうして隠れ家がばれたのか。

 考えることはたくさんあるはずだが、強烈な腹痛が邪魔をする。痛みが一つに凝縮されて、巨大な心臓と化したように脈打っている。

「ベッドがたくさんある部屋とか、ないか」

「しらない」

「こいつら、床に置いといたらきっと苦しいだろうな」

「くる、しい?」

「死んじゃうかも」

「……ここ、まっすぐ。いちばん、おく」

 ローシャはがくりと肩を落とした。

 モップも桶も置き去りにしたまま、アルバートとナシュヴィルは廊下の奥にある部屋に運ばれた。

 そこは、この廃屋で唯一ベッドが二つある部屋だ。そもそも寝台は、ここが無人になった後に運び込んだものらしい。

 部屋数の割に、家具の数が少ないのはそのせいだった。

 廃屋には、必要最低限のベッドしかない。元々あった家具類は、強奪されて売り払われたのだろう。

 空気を吸い込むだけで、腹が切られたように痛む。

 アルバートは微かに息を吐いた。目を閉じる。

 悪足掻きのつもりで、レオの腹を蹴る。実際には、足先が薄っぺらい腹部を撫でただけだった。

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