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ローシャが、床に座り込んでいる。おもむろに差し伸べた手の先に、緋色の豹が座っていた。
きちんと姿勢を正して、首を傾げる。
ローシャも同じように首を傾げた。アルバートはそれを、床にモップをかけながら眺めていた。
なみなみと水を注いだ桶にモップを突っ込んで、廊下を擦る。つい先ほどまで、ローシャはしがみついてしつこいくらい遊びをせがんでいた。
しかし、ここ最近外出が多かったせいで掃除が全く追いついていないのだ。遊んでいる場合ではない。
ローシャは今、カムリに芸を仕込むことにはまっている。セシリア辺りの差し金かもしれない。
カムリはいつも、困ったように首を傾けている。
時にはローシャに付き合うこともあるが、本当に時々だ。やたらに人間らしい仕草をしては、確認するようにアルバートを見上げる。
その度に、アルバートは気まずくなった。
まだ、自分は豹のことをカムリと呼べていない。
「ねー、カムリ。カムリ」
ぱしぱしと頭を叩かれて、カムリが鼻を鳴らす。
「おて。おてだよ、おーて」
ローシャが彼の前脚を掴んだ。当然、無理矢理だ。
カムリは顔を逸らして、アルバートが使うモップを眺めている。
とりあえず個室の掃除は終わった。後は廊下を何とかすればいい。
元々孤児院だったこの建物は、とにかく部屋数が多かった。もう少し狭くてもいいのに。
それにしても、今日の昼ご飯は何だろう。ぼんやり考えながら、アルバートはモップを動かす。
麗らかな昼下がりだった。
窓から覗く秋晴れの空には、綿雲がいくつか浮かんでいる。ゆったりと流れる様子を見ていると、昼寝でもしたい気分になった。
しかし、そんな暇はない。昼食を済ませたら次は洗濯だ。
「ねえ、アル。まだ? まだ遊んじゃだめ?」
「駄目。次は洗濯」
「ええー」
頬を膨らませ、ローシャが腰にしがみついてくる。
カムリもぺたぺたと歩み寄ってきた。
しかし、不意に足を止める。耳を動かして、辺りを見回した。長い尻尾が、ぴんと天井を指す。
ローシャが戸惑ったように震えた。
「カムリ? お腹、すいた?」
ふるふると、カムリは首を横に振る。そもそも彼は、特別栄養を必要とする体ではないらしい。一応、ローシャから野菜の切れ端を貰っている。
誰も確信を持てていなかったが、おそらく飢えて死ぬことはないのだろう。
そのカムリが、全身を逆立てて警戒している。
ふと鳥肌が立って、アルバートはモップを壁に立てかけた。ローシャが、今度はカムリに抱きつく。
「……誰か、来た?」
アルバートがしゃがみ込んで問いかけると、カムリが視線を寄越す。
溢れんばかりに警戒心を湛えた、黄色の瞳。縦に開いた瞳孔が、不安げに揺れていた。
アルバートは立ち上がって、膝を叩く。
前にこんなことがあったときは、確かメンフィスが来ていたはずだ。ナシュヴィルがいればすぐわかるのだが、彼は生憎出かけている。
「玄関の方、見てくる。もしかしたら、メンフィスかナシュヴィルかもしれないし」
「アル、だいじょぶ?」
「大丈夫だって。なんかあったら、すぐ──」
どくん、と腹が脈打った。
アルバートは顔をしかめる。瞬く間に冷や汗が噴き出した。腹を押さえて、辛うじて蹲るのを堪えた。
ずきずきと、膿んだような痛みが走る。
カムリに抱きついていたローシャが、瞬く間に表情を曇らせた。
「ア、ル? お腹、いたいの?」
「い、や。大、丈夫」
「やっぱり、わたし見てくる。まってて」
「え、あっ」
止める暇もなく、ローシャはぱたぱたと駆けて行ってしまった。後を追おうと足を踏み出した瞬間、痛みが跳ね上がる。
「ぐっ」
アルバートは今度こそ蹲った。
慌てたようにカムリが寄ってくる。
「っ、うう、う」
それは、不穏な痛みだった。じくじくと、体の内側が腐っていくかのような。
ここ一週間近く、ずっとこの痛みが続いている。
程度は様々で、ただ鈍い痛みが続くこともある。今日のように、腹を刃で切り裂かれたような痛みが襲ってくることもある。
そろそろセシリアに相談しなければ不味い。ただ、踏ん切りが付かない。
怖かった。もし、彼女に「もう駄目だ」と診断されてしまったら。それが恐ろしくて、暫くセシリアとは話していない。
これまでは二日か三日に一度は地下のスクリーンと向き合っていたのに。
カムリが気遣わしげに擦り寄ってくる。彼のゼリーのような体はひんやりしていた。痛みで熱を伴った体には心地良かった。
体を丸めて、必死で堪える。
ローシャが戻ってきたら、メンフィスかナシュヴィルが一緒だろう。ナシュヴィルならまだいい。メンフィスだったら。
思わず、引き攣った笑みが漏れた。
親の怒りを恐れる子供は、こんな気持ちかもしれない。
「いでっ、い、いだだだ」
きゅう、とカムリが鳴いた。鼻面を押しつけてくる。
痛い。痛すぎて、何だか面白くなってきた。
この痛みは、やっぱり石のせいなのだろうか。腹に収まった石が、ぐるぐると暴れ回っているのかもしれない。
アルバートは呻きながら、腹部を掻き毟る。
今日は、特に酷い。痛みが強いときは、大抵すぐ良くなるのに──。
「あー、あうー」
声が、響いた。
「ろー、しゃ?」
顔を上げる。直後、アルバートは呆然と口を開け放った。
ローシャが高い位置からぶら下がっている。ふらふらと、両足が揺れていた。彼女の細い首が、後ろから誰かに掴まれている。
「はーなーしーてー、はなしてってばー」
ローシャが足をばたつかせる。それでも、相手はびくともしない。
彼女自身苦しがってはいない。そのせいで、緊張感は全くと言っていいほど感じない。
「オルゴールは、効いたみたいだな」
彼女の背後から、男の声が聞こえた。
男というよりは、青年と表現した方が正しいかもしれない。落ち着いた、低い声。
不意に、ローシャの首から手が離れた。一目散に駆けてくる姿を見て、アルバートは安堵する。
「アル、アル。お腹、お腹、だいじょぶ?」
「……いたい」
ローシャとカムリがそれぞれ腹を擦ってくれたが、痛みは軽くならなかった。
しゃらん、と涼やかな音が、耳に入る。
音に釣られて顔を上げる。男の手に銀鎖が見えた。そういえば、耳を澄ますと微かに単調な音色が聞こえる。
男が鎖に繋がれた丸い部分をこちらに向けて、蓋を開いた。
懐中時計だ。鈍い銀の煌めき。白地に黒で描かれた文字盤。ただ、本来あるべき長針と短針がない。
男は夕日のようなオレンジ色の短髪だった。涙ぐんでぼやけた視界に、鮮やかな色彩が焼き付く。
見下ろされているせいか、やたらに背が高く見えた。
「これは、特別製なんだ。俺たちにしか効かない」
「とけい?」
「そう。時計の形のオルゴール。例えば、こうすると」
「う、あああっ」
男が時計を一振りした途端、痛みが跳ね上がった。
アルバートは思わず悲鳴を上げ、腹に指を食い込ませる。耳元で血液が逆流する音が聞こえる。
「いやっ、いやだ、いやだアル。し、しな、しんじゃ、しんじゃやだ」
右手を取られて、反射的に強く握り返す。
大袈裟でも何でもなく、本当に、死ぬかもしれないと思った。血の気が引く。
痛い。痛い。
ローシャが、微かに呻いた。
それでも、必死の形相でアルバートの手を握り返してくる。
何とか男の手から時計を叩き落としたい。が、そんな力は残っていない。
「残念だけど、下手な真似をすると、こうなる。それだけ覚えておいて。ちなみに、これがてっぺんじゃないんだ。もっと上があるから」
「何で、なんでアル、いじめるの? アル、なんにもわるいことしてない!」
止める間もなくローシャが男に飛びかかった。両手で殴る。ぱしぱしと、軽い音が鳴った。あまりにも軽い打撃だった。
男は当然動じず、寧ろどこか楽しそうだった。片手でローシャの手を防ぎながら笑う。
「一号も、そろそろ帰ってくるだろ。まあ、来なかったら困るんだけど」
「なに。いちごーって、なに?」
「一号は一号だよ。いっつも会ってるだろ」
ローシャは不思議そうに首を傾げている。
一号。ナシュヴィルも、体に石が入っている。
ここに帰ってきたら、彼も同じような状態になってしまうのだろうか。ナシュヴィルに限って、そんなことはないと思うが。
しかし、期待は呆気なく覆された。
足音がした。軽やかに弾むそれが、どんどん近付いてくる。
「ねえ、クラーク!」
廊下の角から顔を覗かせたのは、レオだった。
ぼさぼさの茶髪を揺らして、駆けてくる。その肩に、黒い固まりを抱えていた。担いだままやってきて、男の前に無造作に落とす。
「しーちゃん!」
ローシャが悲鳴を上げた。
固まりは、いつもの黒いぼろ布を纏ったナシュヴィルだった。がたがたと、大袈裟なくらい震えている。
酷い顔色だった。ローシャよりやや濃いくらいだった肌の色が、異様に青白い。
レオがおもむろにしゃがみ込んで、彼の背中をつついた。
「凄いね! 一号、弱っちくなっちゃった」
「まあ、密度の高い石を使ってるみたいだしな。上も必死なんだろ。それより、あんまり効いてる奴に触るなよ。危ないから」
「わかってるよ。ミスラにも言われたもん」
口を尖らせて、彼はなおもナシュヴィルにちょっかいをかけ続ける。つついたり、引っ張ったり、叩いたり。
反撃されないとわかっているからか、やけにしつこい。
ナシュヴィルは微かに呻きながら、身を捩った。震えながら、緩慢な動きで体を丸める。あまりにも弱々しい抵抗だった。
ローシャが顔を歪めて、レオの手を叩いた。
「やめてよ。しーちゃん、いやだって」
「うるさいなー。いいじゃん別に。僕、わざわざ遊んであげてるんだよ」
「ばーか」
「うっさいチビ」
「いいから運ぶぞ。お前は一号」
「嫌だ。僕、あるばーとがいい」
「はいはい」
抱え上げられて、アルバートは朦朧としながら目を瞬かせた。ぐらぐらと、危なっかしく頭が揺れる。
彼らは何故ここにやってきたのか。そもそもどうして隠れ家がばれたのか。
考えることはたくさんあるはずだが、強烈な腹痛が邪魔をする。痛みが一つに凝縮されて、巨大な心臓と化したように脈打っている。
「ベッドがたくさんある部屋とか、ないか」
「しらない」
「こいつら、床に置いといたらきっと苦しいだろうな」
「くる、しい?」
「死んじゃうかも」
「……ここ、まっすぐ。いちばん、おく」
ローシャはがくりと肩を落とした。
モップも桶も置き去りにしたまま、アルバートとナシュヴィルは廊下の奥にある部屋に運ばれた。
そこは、この廃屋で唯一ベッドが二つある部屋だ。そもそも寝台は、ここが無人になった後に運び込んだものらしい。
部屋数の割に、家具の数が少ないのはそのせいだった。
廃屋には、必要最低限のベッドしかない。元々あった家具類は、強奪されて売り払われたのだろう。
空気を吸い込むだけで、腹が切られたように痛む。
アルバートは微かに息を吐いた。目を閉じる。
悪足掻きのつもりで、レオの腹を蹴る。実際には、足先が薄っぺらい腹部を撫でただけだった。