3
「なーまえー、おーなまえー」
ローシャが、奇妙な節を付けて言う。無表情ではあったが、ライトブルーの瞳が好奇心で輝いていた。
アルバートが連れてこられたのは、下層にある廃屋の一つだった。
孤児院か何かの跡地らしく、建物は無駄に広い。どっしりとした木造二階建ての建物には、部屋が無数にあった。
その一室で、アルバートはローシャと向き合っていた。
部屋はそう広くない。古びたフローリングは剥き出しで、家具はベッドのみ。それ以外のものは、おそらくどこかに運び出されてしまったのだろう。
アルバートはベッドに腰掛けていた。ローシャは、自分でどこからか持ち込んだ椅子に座っている。
部屋の入り口近くには、ナシュヴィルが佇んでいた。ちなみに彼は、下層に入る際文字通り壁を駆け上った。
絶対に死んだと思ったので、あのときのことは正直一生思い出したくない。
「ねえねえねえ」
「……何?」
「なまえ! なまえ!」
辿々しい口調のまま、ローシャは椅子の上で跳ねる。
薄紫色の髪の毛が、肩胛骨の辺りまで伸びている。
その様子を、ナシュヴィルがぼんやりと眺めていた。彼の身長は、アルバートよりやや低い。相変わらずぼろ布を体に巻き付けていた。
ぐい、と袖を引っ張られて、アルバートは我に返る。
「ねえ、なまえ……」
ローシャが、涙目になっていた。アルバートは慌てて口を開く。
「あ、アルバート。アルバート・ガードナー」
「あー、あ、あるばー?」
一気に名前を口にしたせいか、ローシャは困惑したように首を傾げている。
その様子に、アルバートは内心首を捻った。彼女は、まるで心だけが幼児のようなのだ。
見た目は自分と変わらない年頃なのに、紡がれる言葉はとにかく覚束ない。
アルバートはほとんど無意識のうちに、頭に巻かれた包帯をいじる。
昨晩この建物に運ばれて、気絶するように寝入った。
朝目が覚めたら、乱雑に包帯が巻かれていたのだ。とりあえず、後頭部の傷はきちんと処置されたらしい。
しかしあまりにも大雑把に巻かれているせいか、包帯は少しの弾みでずれてしまう。
うんうん唸るローシャを眺めながら、アルバートはようやく包帯の具合を調整し終えた。
「言い辛かったら、アルでいいよ」
「ある?」
「そう。そっちの方が、言いやすいだろ?」
ある、ある、とローシャは何度も呟いた。こくこくと頷いて、目を輝かせる。
「うん。じゃあ、アルってよぶね」
嬉しそうに足をばたつかせる彼女を余所に、アルバートは入り口の横の壁にもたれているナシュヴィルを見やる。
しかし、特に名乗る素振りはない。彼はじっと、アルバートとローシャを見つめている。
「……あんた、名前は?」
アルバートの問いに、ナシュヴィルはゆるりと首を傾けた。
不思議なほどにローシャと似通った無表情は、片時も崩れない。
「さっきも言ったけど、俺はアルバート。よろしく」
「……ナシュヴィル」
「しーちゃんだよ、しーちゃん」
得意げに口を挟んだローシャにも、ナシュヴィルは特に反応を示さなかった。ということは、しーちゃんと呼ばれることに反対はしていないのだろう。
アルバートは一つ深呼吸をして、ナシュヴィルを見据えた。おそらく、事情を知っているのは彼の方だ。
「昨日の、あいつらは何なんだ?」
「昨日」
「そう。昨日の、夜の」
昨夜出会った二人は、とにかくおかしかった。
女の方は、明らかに人間ではなかった。
無理矢理表現するならば、機械人間、だろうか。全く視認できなかったが、ナシュヴィルが破壊したのだと思う。
そして少年の方も、凄まじい勢いで投擲された鉄の塊を手刀で粉砕した。あんな巨大な鉄を処理したら、まず手が使い物にならなくなるはずだ。
しかし、あのときは悲鳴一つ聞こえなかった。
おかしい。絶対に、おかしい。
疑念が恐ろしい勢いで心中を埋め尽くした。じわじわと、危機感がこみ上げてくる。
ナシュヴィルは、ぼんやりとした眼差しで首を傾げた。
「あれは、こども」
「……こども?」
「石が入ってる。こども」
「石?」
石が入っている、子供。
それは、どういう意味だろうか。
「すとーん、なんとかっていうんだよ」
「ストーン……ってことは、やっぱり石か」
「ストーン、チルドレン」
「石の子供たち、ってこと?」
ますますわけがわからない。
アルバートは首を傾げ、眉根を寄せた。
石というのは、エネルストーンのことだろう。それが、あの少年の異常に関係しているのか。
後頭部の傷だけではなく、何だか頭全体がずきずきと痛む。
「セシリアが、全部知ってる」
「せしりあー」
「セシリア?」
「こっちこっち。セシリアー」
言うや否や、ローシャに手を引っ張られてアルバートは立ち上がる。引かれるままに歩くと、ナシュヴィルも無言で付いてきた。
セシリアという名は、この国ではかなりメジャーな名前だ。有名な童話のヒロインの名前で、親がこぞって子供に付けたがる。
とにかく、事情のわかる人間のところに連れて行ってくれるらしい。それならそれで、好都合だ。
連れて行かれたのは、地下室だった。
黴臭い上に、薄暗い。石材の階段に、三人分の足音が反響する。ナシュヴィルがいつの間にか取り出していたランタンの光が、不規則に揺れた。
階段を下りきり、細い廊下を進んだ先は意外にも広かった。
貯蔵庫というよりは、ただ地下に持て余された空間といった趣だ。家具の類は一切なく、がらんとしている。
正面の壁には、一面に白い布が張られていた。どうやら最近張られたようで、ぴんと伸びきった布地には傷みも汚れも見当たらない。
部屋の中央には、小さな真四角の箱が置いてあった。
ナシュヴィルはおもむろに近付くと、しゃがみ込んでそれをいじっている。
アルバートは、思わずきょろきょろと周囲を見回した。
が、見るものはほとんどない。室内に落ちているのは、驚くほど大きな埃の塊だけだ。掃除は行き届いていない。
じりじりと、固いものを無理矢理削るような音が響く。同時に、どこか物悲しい調べが流れる。
直後、白い布に光が照射された。僅かな間の後、光の中に人影が浮かんだ。
白いローブ姿。フードを目深に被っていて、人相は定かではない。映像は、あまり画質が良くなかった。
『やっほー。こんにちは』
「……こん、にちは」
声は、まだ幼い少女のものだった。ローシャよりずっと幼い。その割に、口調は大人びている。
『私、セシリア。君は?』
「アルバート」
「アルだよ。アル」
『アルバートだね。よろしく』
人影は、ほとんど動かない。
『それで、君はどうしてここにいるの? 記憶は……大丈夫だよね』
「……取られる寸前」
『あ、そうなの? てことは、助けてあげたんだね。偉い偉い』
「わたしも! わたしもいたよ!」
『そっかー。偉いね、ローシャ』
ローシャがぴょんぴょん跳ね、セシリアが笑う。
そのまま雑談に移りそうな気配だったので、アルバートは堪らず口を挟んだ。
「あの、ストーン、チルドレンって何?」
それを口にした瞬間、笑い声が途切れた。
人影に動きは見られなかったが、十二分に緊張感が伝わってくる。
アルバートは、思わず唾を飲み下した。
これは、禁句だったのかもしれない。いや、十中八九禁句だ。
つい先ほどまで和やかな会話が繰り広げられていたのに、一瞬で凍結してしまった。
おそらく、ローシャとナシュヴィルはあまりよくわかっていないだけだと思うが。
ふと、息を吸い込むような音がした。
『それは、どこで聞いたの?』
「いや……あの、ナシュヴィル、から。昨日、変な奴に会ったんだ。小さい男の子と、変な女で。女の方は、機械、みたいな」
『ああ、それはちょっと、しょうがないか……。でもさ、とりあえず、君は石のことについて聞きたくない?』
「あ、ああ、それも聞きたい」
何だか、話を逸らされたような気がする。
アルバートはそう思ったが、とりあえずおとなしく話を聞くことにした。
『僕らが使っているエネルストーンはね、特殊な素材でできてるんだよ。何だと思う?』
「いや、石の素材は……素材っていうか、そもそもどっかで掘ってるんじゃないのか?」
『それが、違うんだよねー。君は、もう取られかけたんでしょう?』
セシリアの声には、どことなく楽しげな色が含まれていた。まるで、なぞなぞの答えを明かす子供のような。
しかし、アルバートはただその場で硬直していた。
そう、記憶を売ると両親は言っていた。それは、何のためなのか。
否、そもそも、質問の意図を考えただけでもう結論は出ているのだ。
どっと、冷や汗が噴き出した。
「……きおく」
掠れた声が漏れる。セシリアが、一つ手を打った。
『当ったりー。政府が成人した人たちの記憶を集めてるのは、石の材料にするためだよ。
この時期の記憶が、一番柔軟性があってエネルギーも豊富なんだって。それ以上大人になっちゃうと、記憶も固まっちゃって取り出せないらしいんだよね』
頭が痺れたように、ぼんやりと霞がかっている。
普段何気なく使用していた石。石は上下水道以外の全てに用いられているといっても過言ではない。
石を用いた機械の類は、オルゴールと呼ばれる。それというのも、使用した直後にある種の旋律が漏れ出すからだ。音色は、使う石によって異なる。
ラジオも電灯も、突き詰めればオルゴールということになる。音が流れるのは最初の一瞬だけなので、それが邪魔になることはない。
実際、床に置かれた通信機も既に沈黙している。
「……じゃあ、成人したら上層に行く、っていうのは」
『うん、嘘だね。まあ、正しいと言えば正しいのかもしれないけど。君の周りの大人は、みんな無表情で無感動で人形みたいだったでしょ。記憶を抜かれて再教育されると、みんなそんな風になっちゃうんだ』
アルバートの脳裏に、両親の姿が浮かんだ。常に無表情で口数が少なくて、不気味なくらい似通っていた二人。
人相は勿論違う。にも関わらず、二人は血が繋がっているのではと訝ってしまうくらい似ていた。
再教育、という言葉の響きに、背筋が粟立つ。
両親は、同じ部屋に詰め込まれて機械的に教育を施された人間だった。
「じゃ、あ、理想郷、っていうのは、何なんだ」
その言葉に、僅かに考えるような間が空いた。
『ああ、それね。それは、周りの町から人を集めるための方便だよ。外で、ミルニールが何て言われてるか知ってる?
あんまりにも居心地が良すぎて、一生出たくなくなるんだってさ。そういう噂を広めて、外から来た人間が帰ってこないのを誤魔化してるわけ。性格悪いよねー』
「……そう、だな」
確かに、性格が悪い。
アルバートは、胃の辺りに膿んだような痛みを覚えた。
今まで知らなかった、知るはずもなかった事実がどんどん明らかになっていく。これまで何の疑問もなく使っていた石は、人の記憶から作られたものだった。
頭の傷が、思い出したように疼く。
思わず顔をしかめると、ローシャが急に慌て始めた。
表情自体に変化はないが、動作がとにかく慌ただしい。腕をばたばた振ってみたり、急に背中をさすってきたり。
「だいじょうぶ? だいじょうぶ?」
「あ? ああ、大丈夫。ちょっと、頭痛いだけ」
「たいへんだ、たいへん。あたまいたいの、こまった」
「い、いや、だから、大丈夫だってば。これくらい、寝てれば治るよ」
そう言い聞かせても、ローシャは半べそをかきながらうろうろ歩き回っている。
特に何かするわけではない。というより、何をどうしたらいいのかわからないのかもしれない。
ナシュヴィルは、その様子をただ眺めている。
しかしアルバートは気付かなかった。ナシュヴィルだけではなく、セシリアも二人を凝視していることに。
ローシャは一向に落ち着かず、アルバートは必死で彼女を宥めた。
『ねえねえ、アルバート』
「何?」
『君さ、ローシャの教育係になってあげてよ』
「……はあ?」
彼にとって、その一言は突拍子のないものだった。
教育係。思わず見下ろすと、すっかり平生通りになったローシャはアルバートの右の袖を掴んで揺さぶっている。特に意味はないようだ。
顔を上げても、セシリアの影はぴくりとも動かない。
『見ての通りローシャは記憶を取られちゃったんだよね。ナシュヴィルがいつの間にか連れてきてたから、私も詳しいことはわかんないんだけど』
その言葉は、半ば予想の範囲内ではあった。
つまり、ローシャは自分と同い年のはずだ。アルバートも、昨夜両親の会話を聞かなければこうなっていた。何もわからなくなって、まるで幼児のように。
ローシャはまだ、可愛らしい。しかし、それを自分に置き換えると鳥肌が立った。
記憶を全て奪い取られ、抜け殻になった自分。
駄目だ。気持ち悪い。
アルバートは、思わず口を覆った。
何故、記憶を奪い取らなければならないのだろう。一体どこから、こんなことが始まってしまったのか。
考え込むアルバートを余所に、セシリアの声は明るい。
『ローシャには一から色々教えてあげなきゃならないんだけど、ナシュヴィルもそういうとこ鈍感だからさー。実際、ちょっと困ってたんだよね。
だってさ、ローシャが着替えてるとき、当然みたいな顔して一緒にいるんだよ? 常識なんて、そんなもの欠片も持ってないんだから、もう』
「いや、っていうか……そもそも、あんたたち何なんだよ」
慌てて放たれた問いに、何故かスクリーンの中の人影は胸を反らした。
急に仰々しい口調になって、おどけたように言い放つ。
『ああ、うん。申し遅れました。私たちは、商隊“オリジンオルゴール”のメンバーです』