6
ひく、と喉が震えた。
目の前に現れたのは、赤く半透明の化け物だ。
いつもの、蛇の形ではない。
ぱっと見たところ、それは猫に見えた。しかし、体の大きさと四肢の太さが明らかに違う。
それの半開きになった口から、緋色の液体が滴った。
そう、色も違う。赤ではなく、全身が緋色なのだ。
カムリの姿は、もうどこにもない。彼の名残は、地面にぶちまけられた血液だけだ。
「い、やだ。嫌だ、嫌だ」
嫌だ。
目と鼻の先にそれが佇んでいるのに、ぐちゃぐちゃに乱れた頭はまともに働かない。
手が震える。手だけではなかった。
全身ががくがく震えて、奥歯がぶつかる音が喧しい。
カムリ。石を体に入れて、失敗したらこんな風になってしまうのか。
不意に、腹部が痛んだような気がした。
じくじくと、膿んだような痛みを放っている。
じっとそれを見つめていたレオが、笑った。
「あーあ。やっぱり駄目だったね。失敗するとさ、こうやってベノムみたいになっちゃうんだよ。知ってた?」
小首を傾げて、微笑む。
アルバートに、その言葉はほんの僅かも届かない。
カムリと話したのは、ほんの少しだけだ。しかし、それでも話した。分隊長に、揃って拳骨を落とされもした。
同年代で、初めて気負わず話ができる人だった。
嫌だ。何も見てない。何も、信じたくない。
アルバートは頭を抱えた。座り込んだまま、動けない。
ローシャがカムリであったはずのそれを凝視し、固まっている。
「ねこちゃん」
ぽつりと呟く。
それは猫ではなく、昔図鑑で見た豹に似ていた。
あくまで体格のみの話なので、本当のところ何なのかはわからない。
ただ、豹はじっとその場に佇んでいた。
視線を感じる。
フラッシュバックする。肉が弾けて、皮が破れて。
化け物が、生まれる。
「う、あっ……!」
嫌だ。思い出したくない。何も、思い出したくない。
じくじくと、胃が痛む。
ひゅる、と小さな音がした。ぴゅうぴゅうと、風が狭い道を通り抜けるような音がする。
鼻を鳴らす、音だ。
頭に、何かが触れた。ぺたぺたと、冷たい。
少なくとも、ローシャの手ではない。
気遣わしげだった。ごめん、と謝られているような気がした。
伸ばしっぱなしの髪の毛を掻き分け、鼻先が、触れる。
思わず、顔を上げた。
豹と、目が合った。つぶらな瞳は、黄色だった。
金色ではない。どこかで見たような、黄色。
「アル」
ローシャの声に、豹がぴくりと耳を震わせる。
きゅう、と鳴き声がした。
「カムリ、ないてる」
わかってる。わかっているから、余計に嫌なのだ。
見た目はベノムそっくりなのに、それは暴走しない。その場にちょこんと座って、首を傾ける。
しなやかな尾を揺らして、肩を落とす。
仕草の一つ一つがやけに人間らしくて、それを自覚する度に心が軋んだ。
理性があるのか。こんなになってしまっても、心は残っているのか。
気になるのに、答えを知りたくない。
どうせ、何もできないのに。
「わー、なんか、格好良くなった!」
レオが場違いな歓声を上げた。
「すごいよ、すっごく強そう。良かったね、強くなりたかったんでしょ? 絶対今の方が強いよ、お兄さん。今なら、誰にだって勝てそう」
無邪気に笑って、駆け寄ってくる。
豹が僅かに頭を下げた。項垂れているように見えた。
ずきりと胃が痛んで、アルバートは顔をしかめた。
やめて欲しい。そうやって、人間らしい仕草をするのは。
もう全てが遅いはずなのに、一瞬期待したくなる。期待したって、もう意味がないのに。
「う、わっ!」
不意に、悲鳴が聞こえた。
顔を上げると、いつの間にかナシュヴィルが立ち塞がっている。何かを振り払ったような、そんな体勢だった。
レオが目を剥いて、右手を押さえている。
「何すんのさ!」
「商隊の、任務は終わってない」
「は? その状態で、どうするの」
何を馬鹿なことを、とでも言いたげな口調だった。
鼻で笑って、レオはナシュヴィルを見つめる。
その様子は、とにかく子供っぽい。陰湿さは微塵も感じられず、自分より下だと判断した者を見下している。
ただ、ちょっとした意地悪をしようとしているだけ。
「どうせみんな、自分と違う奴が嫌いなんだよ。頑張ったって、もう戻れないんだからさ。諦めちゃおうよ。諦めて、僕と一緒に行こう? ミスラに、失敗したのも持って帰ってきてって言われてるから」
レオが、豹に向かって手を差し伸べる。
飼っていた犬か猫にでも呼びかけるような気安さだった。
それにしても、相変わらず彼にとっての中心はミスラなのだ。冷静すぎる、氷をはめ込んだような眼差しが蘇る。
彼女は今もきっと、あの目で何かを観察しているのだろう。レオは、ただ利用されているだけだ。
懐いているのをいいことに、非人道的な行動を取らされている。
レオ自身は、そのことを自覚していない。
酷い、と思う。
彼のような年頃の子供なら、まだまだ楽しいことがたくさんあるはずだ。その全てから遠ざけられて、レオはこんな血なまぐさい場所が当然だと思わされている。
豹がじりじり後退さった。尻尾を股の下に仕舞い込んでいる。
「カムリ、いきたくないって」
「……え」
「いやだって、いってる。そんなとこ、いやだって」
アルバートは、思わずまじまじとローシャを見つめた。
カムリであった豹は、勿論喋ってなどいない。後退して、今はアルバートの後ろに隠れている。少しでも、レオの視線から逃れるように。
嫌だ。俺は、行きたくない。
そんな声が、どこからか聞こえたような気がした。
行きたくないのだ。カムリは、レオに付いていこうとは思っていない。
混乱して、ぐにゃぐにゃにふやけていた頭が、ようやく軋みながら動き始める。本来の硬質さを取り戻す。
まずは、どうすればいいか。
分隊の全員にカムリを見せることは、絶対に駄目だ。
そんなことをすれば、必ず一人はパニックに陥る者が出る。見た目はベノムとさして変わらないのだ。唯一の違いは、目の色が異なること。
たったそれだけの相違点を見つけるには、相当な冷静さを保っていなければならない。
かといって、隠し通すことも難しい。カムリが突然消えたことを、分隊の人間は訝しく思うだろう。
絆が深いからこそ、蔑ろにはしない。
それに、とアルバートは思う。
カムリが逃げ出してしまったと、思われたくなかった。
彼は必死で戦っていた。生傷を作りながら、劣等感に苛まれながら、それでも逃げようとはしなかった。
第三分隊の男たちも、わかってはいるだろう。しかし、いくら理解していてもそれ以外説明が付かない状況は存在する。
何故、カムリはいなくなったか。逃げたから。
少なくとも、分隊よりさらに上の人間たちはそう判断する。それならば。
──第三分隊の、隊長ならどうだろうか。
拳骨を落とされた頭部が疼く。
アルバートは、思わず目を見開いた。
彼ならば。ナシュヴィルに一切嫌悪を見せない、あの人ならば。
ラスプに見せて駄目なら、きっと誰に見せても駄目だろう。まずは、彼の元に行くべきだ。
アルバートは一つ頷いて、立ち上がる。尻に付いた土埃はローシャが払ってくれた。
「隊長のところに行こう。たぶん、あの人が一番ましだ」
「たいちょうさんのとこ?」
「うん。それで駄目なら、後で考えるよ」
「駄目だよ、そんなの」
不意に、レオが割り込んでくる。
ナシュヴィルを睨みつけながら、口を開く。
「どうせ誰も、僕らのことなんて認めてくれないんだ。普通じゃないって言うけどさ、何が普通なの? 何で自分たちが普通だって言えるの?
僕、わかんないよ。何でみんな、偉そうな顔してるのさ。僕らもそいつらも、元々はみんな同じなんでしょ? じゃあ何で、僕らばっかり損しなきゃなんないの」
レオの両肩が、微かに震えた。
アルバートは、言葉に詰まる。
よく考えれば、自分はずっと同じ側の人間とばかり接してきた。事情を知っている者、同じ組織に属する者。
拒まれたことがない。たまに違う側の人間と会っても、彼らの拒否の対象はいつもナシュヴィルだった。
彼が拒まれる分だけ、その反動のようにアルバートとローシャは受け入れられる。
自分は、彼らとさして変わらないのかもしれない。
ナシュヴィルが虐げられていれば、気が滅入る。けれど、一度でも本気でそれを止めようとしたことがあっただろうか。
吐き気が強くなる。
これ以上、考えてはならない。
「ナシュヴィル、レオ止めといて」
「わかった」
ナシュヴィルは、当然のように頷く。
レオが瞠目した。頬が一気に赤くなる。怒りを覚えていることは明白だ。
しかし彼が口を開く前に、ナシュヴィルが攻撃を仕掛けた。振るわれる右腕を、レオがぎりぎり回避する。
「ちょ、っと、待ってってば!」
彼は必死でこちらに向かってこようとしているが、悉くナシュヴィルに妨害されている。
腕が風を切る鋭利な音が、無人の町中に響き渡った。
今のうちだ。
振り返ると、ローシャと豹が身を寄せ合うようにこちらを見上げていた。
「宿に戻ろう」
「しーちゃんなら、だいじょぶ、だよね」
「うん。絶対に大丈夫だ。か……き、みも、それでいい?」
豹が、一瞬俯いた。しかし、すぐさま首肯する。
罪悪感が胸中を掠めた。黄色い目が、苦笑いしているような気がする。
胃が、焼けるように痛かった。
アルバートは無理矢理目を逸らして、ローシャを背負う。彼女がしっかりしがみついたのを待ってから、駆け出した。
豹はこともなげに付いてきた。軽快な足取りで、石の力を使った駆け足に追いついてくる。
それ自体が、彼がもう人ではない証だった。
アルバートはしきりに目を瞬かせて、とにかく走ることだけに集中した。