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神を思ってはならない  作者: 宮野香卵
第五章 選ばれた子供
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 ひく、と喉が震えた。

 目の前に現れたのは、赤く半透明の化け物だ。

 いつもの、蛇の形ではない。

 ぱっと見たところ、それは猫に見えた。しかし、体の大きさと四肢の太さが明らかに違う。

 それの半開きになった口から、緋色の液体が滴った。

 そう、色も違う。赤ではなく、全身が緋色なのだ。

 カムリの姿は、もうどこにもない。彼の名残は、地面にぶちまけられた血液だけだ。

「い、やだ。嫌だ、嫌だ」

 嫌だ。

 目と鼻の先にそれが佇んでいるのに、ぐちゃぐちゃに乱れた頭はまともに働かない。

 手が震える。手だけではなかった。

 全身ががくがく震えて、奥歯がぶつかる音が喧しい。

 カムリ。石を体に入れて、失敗したらこんな風になってしまうのか。

 不意に、腹部が痛んだような気がした。

 じくじくと、膿んだような痛みを放っている。

 じっとそれを見つめていたレオが、笑った。

「あーあ。やっぱり駄目だったね。失敗するとさ、こうやってベノムみたいになっちゃうんだよ。知ってた?」

 小首を傾げて、微笑む。

 アルバートに、その言葉はほんの僅かも届かない。

 カムリと話したのは、ほんの少しだけだ。しかし、それでも話した。分隊長に、揃って拳骨を落とされもした。

 同年代で、初めて気負わず話ができる人だった。

 嫌だ。何も見てない。何も、信じたくない。

 アルバートは頭を抱えた。座り込んだまま、動けない。

 ローシャがカムリであったはずのそれを凝視し、固まっている。

「ねこちゃん」

 ぽつりと呟く。

 それは猫ではなく、昔図鑑で見た豹に似ていた。

 あくまで体格のみの話なので、本当のところ何なのかはわからない。

 ただ、豹はじっとその場に佇んでいた。

 視線を感じる。

 フラッシュバックする。肉が弾けて、皮が破れて。

 化け物が、生まれる。

「う、あっ……!」

 嫌だ。思い出したくない。何も、思い出したくない。

 じくじくと、胃が痛む。

 ひゅる、と小さな音がした。ぴゅうぴゅうと、風が狭い道を通り抜けるような音がする。

 鼻を鳴らす、音だ。

 頭に、何かが触れた。ぺたぺたと、冷たい。

 少なくとも、ローシャの手ではない。

 気遣わしげだった。ごめん、と謝られているような気がした。

 伸ばしっぱなしの髪の毛を掻き分け、鼻先が、触れる。

 思わず、顔を上げた。

 豹と、目が合った。つぶらな瞳は、黄色だった。

 金色ではない。どこかで見たような、黄色。

「アル」

 ローシャの声に、豹がぴくりと耳を震わせる。

 きゅう、と鳴き声がした。

「カムリ、ないてる」

 わかってる。わかっているから、余計に嫌なのだ。

 見た目はベノムそっくりなのに、それは暴走しない。その場にちょこんと座って、首を傾ける。

 しなやかな尾を揺らして、肩を落とす。

 仕草の一つ一つがやけに人間らしくて、それを自覚する度に心が軋んだ。

 理性があるのか。こんなになってしまっても、心は残っているのか。

 気になるのに、答えを知りたくない。

 どうせ、何もできないのに。

「わー、なんか、格好良くなった!」

 レオが場違いな歓声を上げた。

「すごいよ、すっごく強そう。良かったね、強くなりたかったんでしょ? 絶対今の方が強いよ、お兄さん。今なら、誰にだって勝てそう」

 無邪気に笑って、駆け寄ってくる。

 豹が僅かに頭を下げた。項垂れているように見えた。

 ずきりと胃が痛んで、アルバートは顔をしかめた。

 やめて欲しい。そうやって、人間らしい仕草をするのは。

 もう全てが遅いはずなのに、一瞬期待したくなる。期待したって、もう意味がないのに。

「う、わっ!」

 不意に、悲鳴が聞こえた。

 顔を上げると、いつの間にかナシュヴィルが立ち塞がっている。何かを振り払ったような、そんな体勢だった。

 レオが目を剥いて、右手を押さえている。

「何すんのさ!」

「商隊の、任務は終わってない」

「は? その状態で、どうするの」

 何を馬鹿なことを、とでも言いたげな口調だった。

 鼻で笑って、レオはナシュヴィルを見つめる。

 その様子は、とにかく子供っぽい。陰湿さは微塵も感じられず、自分より下だと判断した者を見下している。

 ただ、ちょっとした意地悪をしようとしているだけ。

「どうせみんな、自分と違う奴が嫌いなんだよ。頑張ったって、もう戻れないんだからさ。諦めちゃおうよ。諦めて、僕と一緒に行こう? ミスラに、失敗したのも持って帰ってきてって言われてるから」

 レオが、豹に向かって手を差し伸べる。

 飼っていた犬か猫にでも呼びかけるような気安さだった。

 それにしても、相変わらず彼にとっての中心はミスラなのだ。冷静すぎる、氷をはめ込んだような眼差しが蘇る。

 彼女は今もきっと、あの目で何かを観察しているのだろう。レオは、ただ利用されているだけだ。

 懐いているのをいいことに、非人道的な行動を取らされている。

 レオ自身は、そのことを自覚していない。

 酷い、と思う。

 彼のような年頃の子供なら、まだまだ楽しいことがたくさんあるはずだ。その全てから遠ざけられて、レオはこんな血なまぐさい場所が当然だと思わされている。

 豹がじりじり後退さった。尻尾を股の下に仕舞い込んでいる。

「カムリ、いきたくないって」

「……え」

「いやだって、いってる。そんなとこ、いやだって」

 アルバートは、思わずまじまじとローシャを見つめた。

 カムリであった豹は、勿論喋ってなどいない。後退して、今はアルバートの後ろに隠れている。少しでも、レオの視線から逃れるように。

 嫌だ。俺は、行きたくない。

 そんな声が、どこからか聞こえたような気がした。

 行きたくないのだ。カムリは、レオに付いていこうとは思っていない。

 混乱して、ぐにゃぐにゃにふやけていた頭が、ようやく軋みながら動き始める。本来の硬質さを取り戻す。

 まずは、どうすればいいか。

 分隊の全員にカムリを見せることは、絶対に駄目だ。

 そんなことをすれば、必ず一人はパニックに陥る者が出る。見た目はベノムとさして変わらないのだ。唯一の違いは、目の色が異なること。

 たったそれだけの相違点を見つけるには、相当な冷静さを保っていなければならない。

 かといって、隠し通すことも難しい。カムリが突然消えたことを、分隊の人間は訝しく思うだろう。

 絆が深いからこそ、蔑ろにはしない。

 それに、とアルバートは思う。

 カムリが逃げ出してしまったと、思われたくなかった。

 彼は必死で戦っていた。生傷を作りながら、劣等感に苛まれながら、それでも逃げようとはしなかった。

 第三分隊の男たちも、わかってはいるだろう。しかし、いくら理解していてもそれ以外説明が付かない状況は存在する。

 何故、カムリはいなくなったか。逃げたから。

 少なくとも、分隊よりさらに上の人間たちはそう判断する。それならば。

 ──第三分隊の、隊長ならどうだろうか。

 拳骨を落とされた頭部が疼く。

 アルバートは、思わず目を見開いた。

 彼ならば。ナシュヴィルに一切嫌悪を見せない、あの人ならば。

 ラスプに見せて駄目なら、きっと誰に見せても駄目だろう。まずは、彼の元に行くべきだ。

 アルバートは一つ頷いて、立ち上がる。尻に付いた土埃はローシャが払ってくれた。

「隊長のところに行こう。たぶん、あの人が一番ましだ」

「たいちょうさんのとこ?」

「うん。それで駄目なら、後で考えるよ」

「駄目だよ、そんなの」

 不意に、レオが割り込んでくる。

 ナシュヴィルを睨みつけながら、口を開く。

「どうせ誰も、僕らのことなんて認めてくれないんだ。普通じゃないって言うけどさ、何が普通なの? 何で自分たちが普通だって言えるの?

 僕、わかんないよ。何でみんな、偉そうな顔してるのさ。僕らもそいつらも、元々はみんな同じなんでしょ? じゃあ何で、僕らばっかり損しなきゃなんないの」

 レオの両肩が、微かに震えた。

 アルバートは、言葉に詰まる。

 よく考えれば、自分はずっと同じ側の人間とばかり接してきた。事情を知っている者、同じ組織に属する者。

 拒まれたことがない。たまに違う側の人間と会っても、彼らの拒否の対象はいつもナシュヴィルだった。

 彼が拒まれる分だけ、その反動のようにアルバートとローシャは受け入れられる。

 自分は、彼らとさして変わらないのかもしれない。

 ナシュヴィルが虐げられていれば、気が滅入る。けれど、一度でも本気でそれを止めようとしたことがあっただろうか。

 吐き気が強くなる。

 これ以上、考えてはならない。

「ナシュヴィル、レオ止めといて」

「わかった」

 ナシュヴィルは、当然のように頷く。

 レオが瞠目した。頬が一気に赤くなる。怒りを覚えていることは明白だ。

 しかし彼が口を開く前に、ナシュヴィルが攻撃を仕掛けた。振るわれる右腕を、レオがぎりぎり回避する。

「ちょ、っと、待ってってば!」

 彼は必死でこちらに向かってこようとしているが、悉くナシュヴィルに妨害されている。

 腕が風を切る鋭利な音が、無人の町中に響き渡った。

 今のうちだ。

 振り返ると、ローシャと豹が身を寄せ合うようにこちらを見上げていた。

「宿に戻ろう」

「しーちゃんなら、だいじょぶ、だよね」

「うん。絶対に大丈夫だ。か……き、みも、それでいい?」

 豹が、一瞬俯いた。しかし、すぐさま首肯する。

 罪悪感が胸中を掠めた。黄色い目が、苦笑いしているような気がする。

 胃が、焼けるように痛かった。

 アルバートは無理矢理目を逸らして、ローシャを背負う。彼女がしっかりしがみついたのを待ってから、駆け出した。

 豹はこともなげに付いてきた。軽快な足取りで、石の力を使った駆け足に追いついてくる。

 それ自体が、彼がもう人ではない証だった。

 アルバートはしきりに目を瞬かせて、とにかく走ることだけに集中した。

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