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青年は、強くなりたいと思っていた。
強くなければ意味がない。戦えなければ意味がない。
そもそも商隊に入ったのは、両親の差し金だ。
本当は、絵を描くのが好きだった。それで生計を立てようとは思わなかったけれど、少なくとも将来は荒事とは無縁の仕事をしたいと思っていた。
というより、荒事など到底無理だ。少女たちより細い腕は、常に嘲笑の的だった。
両親が、嫌がらせでこんなことをしたのではないのはわかっている。良かれと思って道を開いてくれた。
ただ、その道は彼にとって一番歩みたくない道だった。
戦うどころか、喧嘩も苦手だ。喧嘩を売られたら、大抵ろくな抵抗もできず殴られた。その度に泣いて、助けてくれたのはいつも幼なじみだった。
強気で、命令ばかりしてきて、それでも優しい。
見た目は可愛いのに、とにかく残念だと彼女は言われていた。残念とは、どういう意味だったのだろう。
あんなに優しかったのに。未だに、よくわからない。
ただその彼女も、商隊に入ってからは連絡を取っていなかった。
今どこで何をしているのか。まだ、あの村にいるのだろうか。
青年が住んでいたのは、サンダーソニアという商業都市の程近くにある村だ。
物流が集中し、商隊の本部も大量に存在する町。その近くにある村は、そこそこに潤っていたと思う。
いつか、村に帰りたい。
両親には言わなかったが、彼はいつもそう思っていた。
彼女の両親は雑貨屋を営んでいたから、きっと村に残っているのではないか。
オリジン・オルゴールの本部はミルニールにあったから、サンダーソニアには簡単に帰れない。
でも、いつか。
できれば、いじめっ子くらい簡単に跳ね返せるくらいに強くなって。
胸当ては結局調達できないまま、四人は宿に戻った。
今度の宿は、前回より上等だ。さすが最大規模の商隊を謳うだけある。
というか、一つ宿を貸し切っているのだ。
分隊には二十人所属していて、部屋は十。当然の如く、階級の高い人間は一人部屋になる。
ローシャのことは、おそらく既に知らされていたのだろう。隊長であるラスプは、アルバートとローシャを同室にした。
他の隊員たちは明らかに引いていたのだが、一切構う素振りを見せなかった。カムリが一人苦笑いをしていて、アルバートは余計に恥ずかしくなった。
ラスプは、若い。どれだけ多く見積もっても、二十代後半といったところだ。明らかに彼より年上の人間が、分隊の中にも幾人か存在する。
それでも、第三分隊は他と比べると結束が固い。
隊長であるラスプが信頼されている証だ。
吊り上がった碧眼のせいできつい印象を覚えるが、剣を振り回せばそれがやたらに似合うのだ。体格がいいわけではないのに、頼りになりそうな気がする。
「アル。ごはん、おいしかったね」
部屋に入ってからベッドに倒れ込んだアルバートと違って、ローシャは上機嫌だ。ベッドに座って足をばたつかせている。
その度に、微かに埃が舞った。
宿を貸し切るのには、相当な資金が必要なのだろう。
部屋はきちんと壁で区切られているものの、決して広くない。というより、狭い。
室内はベッド二つでいっぱいだ。
人によっては、これを部屋とは認めないかもしれない。
明かりは小さなランプ一つきりで、最大までつまみを捻っても薄暗かった。色濃い影が、部屋中に満ちている。
口の中には、ついさっき食べたオニオンスープの味が残っていた。
「また、セシリアにゼリーかっていこうよ。しーちゃんにもっていってもらえば、いいよね?」
「そう、だな。お金も少しは持ってるから、それで買おうか」
「かうーかうー」
やはり、機嫌がいい。基本的に、彼女が不機嫌なことはあまりないのだが。
アルバートは、息を吐き出した。
薄っぺらい闇に、濁った色をした吐息が漏れる。
「ナシュヴィル、大丈夫かな」
「しーちゃん?」
ローシャが首を傾げる。
部屋は最大でも二人部屋で、いくらナシュヴィルが床で寝るとはいってもそんなスペースはない。
ラスプは、これもまた当然のようにナシュヴィルを別の部屋にした。同室なのは、確か戦闘中彼に何かと注意を促していた男だ。
この分隊は、他の隊とは違う。
少しの間過ごしただけで、それは理解できる。
なのに、不安が消えない。ナシュヴィルなら、何をされても気にすら留めないだろう。
罵声を浴びせられても、攻撃されても。
しかし、何より先に疑問が浮かぶ。
この隊の人間は、何故こんなにもナシュヴィルを受け入れているのだろうか。
「わたし、みんなだいすきだよ。しーちゃんのこと、おこったりしないから」
「……そうだな。前は、酷かったし」
「うん。あのひとたちは、きらい。しーちゃんなにも、わるいことしてないのに。すぐおこるんだもん」
第七分隊との任務で、初めてベノムに出会った。
三人はその後も、いくつかの任務に参加している。
だが、そのどれもが判を押したように同じ反応をする。ナシュヴィルだけを露骨に無視し、罵声を浴びせ、時には当たり前のように攻撃してきた。
ナシュヴィルはその全てを流してきたが、それでも見ている方はたまったものではない。
他人が悪意をぶつけられる瞬間を見ると、心ががりがり削られる。胃の辺りが緩慢に焼けていくような、おぞましい感覚。
外に出られるのは、嬉しい。が、理想郷から出る度に、身近な人間が虐げられる光景を見なければならない。
ミルニールの下層は、確かに上層と比べれば底辺なのだろう。しかし、人は他人に対してとにかく無関心を貫く。誰も、他人に悪意をぶつけている余裕などない。
壁の外へ出る。外では、人が毒を吐いている。
虐げる側と、虐げられる側。
──ミルニールは、本当に理想郷ではないのだろうか。
「……アル?」
不安げな声が、耳に滑り込む。喉が引き攣った。
顔を上げる。ローシャの目が揺れていた。
空色の瞳が、水面のようにたゆたっている。
「な、に?」
「いま、こわいかお、してた」
ふらふら近寄ってきて、ローシャはすぐ隣に腰を下ろした。項垂れて、がくりと肩を落とす。
「アルも、おこってる? でも、なんかなきそうなの。わかんない。いっぱい、まざってて。ねえ、アルは、かなしいの?」
ローシャが、くしゃりと顔を歪めて抱きついてくる。
いつの間にか、体が冷えていた。ローシャはいつも体温が高い。じっとくっつかれていると、その温度がゆっくりと移ってくる。
季節は確実に冬に向かっていて、町や村の周辺に群生する花々は枯れ始めていた。
見渡す限りの草原も、どんどん色褪せていく。
景色が色を失う様は、わけもなく心をざわめかせた。
「怒ってないよ」
アルバートは、苦笑いする。
少しでも、理想郷を肯定しようとした自分が嫌だった。狂っているとしか思えない。
あんな、人間を燃料源としか考えていないところを認めてはならない。
頭を振る。浮かんだ考えを、何とか払い落とす。
ローシャはまだ、親を見失った子供のような顔をしていた。
「本当に、怒ってないから」
「ほんと? じゃあ、かなしいの?」
「どう、だろう。別に、泣きたいわけじゃないんだけど」
わからない。自分のことのはずなのに。
「なんか、どこも変わらないんだな、と思って。ミルニールばっかり悪いと思ってたけど……ナシュヴィルを貶すのは、その外で暮らしてきた人間だろ。
壁の中に住んでるメンフィスは、何も言わないし。セシリアは……どこにいるのか知らないけど。でも、あいつもあそこにいると思うんだ。何となく」
ぽつぽつと、胸の内に溜まった言葉を吐き出す。
ローシャはじっと、しがみついたまま呼吸を繰り返していた。表情は見えない。それが、少しだけ怖い。
「外にいる方が、本当はずっと怖いんじゃないかと思って、さ。外に出られれば、記憶がなくなる心配がなければ、何か変わると思ったのに。
きっと、本当は何も変わらないんだな。変わるなんて……そんなこと、ないんだ」
口に出せば、事実がすとんと心中に落ちる。
そう、何も変わらない。例えどんな強固な壁が立っていても、結局この世界は地続きなのだ。
壁の中身だけが、腐敗しているわけではない。
内側も外側も、きっと腐っている。それがほんの少し早いか遅いか、違いはたったそれだけ。
がっかりしたような、納得したような。
「アル、は」
ふと、ローシャが呟いた。
静寂に、薄い波紋が広がる。
「わたし、と、あわないほうが、よかった?」
胸の辺りが締め付けられるような声音だった。
息が詰まる。思わず、アルバートは考え込んだ。
そんなこと、考えたこともなかった。
ローシャや、ナシュヴィルと出会っていなかったら。
それはつまり、記憶を奪われることを受け入れたということだ。そもそもあの夜、水を飲みたくならなければ、今頃自分はここにいなかった。
真実を知らなければ。おそらく、理想郷のどこかで都合のいい人間に矯正されていたのだろう。
両親のように。自分の身の回りにいた、大人たちのように。
記憶を全て奪われて、型にはめ込まれていく。
皆、始めは抵抗するのかもしれない。記憶を奪われる瞬間に全てを悟り、絶望する。ほんの僅かな抵抗も、結局は押し潰されて掻き消される。
そして、全ては壁の内側に葬られるのだ。
秘密や機密が山となって、理想郷の中心部に積み上げられている。
上層に入ることができれば。もしかしたら、疑問は全て解けるのかもしれない。
ローシャの両腕に、力が籠もった。
小刻みに震えている。ローシャも、怖いのだろうか。
唾を飲み込む。唇が乾いていた。
「正直、ちょっと……後悔してるかも、しれない」
がさがさに乾燥した唇なんて、中層にいた頃は縁がなかった。
理想郷の真ん中は、燃料を培養するための施設に過ぎない。だから、子供たちは何一つ不自由しないように作られている。
山も谷もなく。何事もそれなりに、楽しく。
下層は、楽しくない。外も楽しくない。
勿論、心が躍る瞬間がないわけではないけれど。
「みんなが悪い、わけじゃないんだ。でも……俺、は」
悪いわけではない。けれど、あの場でナシュヴィルとローシャに出会ったことは──果たして、正しい道だったのか。
選択を誤っていたのではないか。あそこで選ぶ道が違ったなら。
「あ!」
不意に、ローシャが鋭く叫んだ。
心臓が喧しい音を立てて跳ねた。細い指先が、窓の外を指し示す。
どくどく跳ねる胸を押さえつつ、アルバートも視線を移した。
「……あ」
声が、漏れる。若干濁った硝子越しに、影が過ぎった。
見えたのは、ほんの一瞬。
ぼさぼさの茶髪。髪の毛というより、獣の体毛のよう。
レオだった。