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神を思ってはならない  作者: 宮野香卵
第五章 選ばれた子供
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 白黒の世界。

 ぼろぼろの毛布が一枚。

 身が凍り付くような、冷たい床。

 常に感覚が希薄な体。

 生きるか死ぬか、ではない。

 もう死んでいる。体も、きっと心も。

 不意に差し伸べられる手。

 世界に色が付いていく。

 教えられることのほとんどは、よくわからない。

 脳天気な笑い声。いつも薄汚れていた白衣。

 差し出された手の上に、小さな動物がいた。ネコという生き物だと、そのとき初めて教えられた。

 ネコはぐにゃぐにゃしていて、少し力を込めただけで動かなくなりそうだった。

 纏わりついてくるネコ。

 甘えるような鳴き声。

 味気ない檻の中、また色が一つ増えた。

 毛布はいつの間にか新しくなっていた。

 男の笑い声と、ネコの鳴き声。

 初めて、ここに来て良かったと思えた。

 ひたすら実験動物の失敗作を引き裂く日々。

 今までは何も感じなかったのに、腕を振るう度に胸の辺りが微かに痛むようになった。

 痛い。

 それを檻に入り浸る男に話したら、複雑そうな顔をされた。喜びの中に、微かに不安が混じっている。

 本当は喜んだ方がいいんだろうけど、と彼は言った。

 でも、と言った後、口を開くことはなかった。

 あのとき何を言おうとしたのか。

 それを知る方法は、もう存在しない。

 場面が、唐突に切り替わる。

 白い廊下。白い実験室。白い牢獄。

 全てが真っ赤に染まっていた。ぼろ布のようになった人間たち。引き裂かれた動物たち。

 体が痛かった。

 左腕が千切れかけて、ふらふら揺れている。

 右腕だけで何とか引きずってきた男は、何度も腕の心配をしていた。大丈夫か、と何度も言ってきた。

 医務室はこの先だ、早くそこまで行った方がいい。

 自分の方がずっと酷い状態なのに。

 ネコは、いつの間にか消えていた。

 がくん、と視界が揺れる。

 ひゅう、と掠れた音が喉から漏れる。

 医務室がどこにあるか、結局わからなかった。

 男が喋らなくなった。揺すっても動かない。

 道がわからなくなって、結局檻に戻った。

 檻の外で、ネコが潰れていた。

 白い毛に混じって、鮮やかな桃色が見え隠れする。

 通り過ぎて檻に入る。

 布団に、男を転がす。

 いつか、彼自身が持ち込んだものだった。

 揺すっても声をかけても、男は起きない。

 きっと、疲れたのだ。だって昨日も寝ていないと言っていたから。散々眠ったら、すぐに起きる。

 ふらり、と左腕が揺れた。

 いつも使っている寝床に倒れ込む。

 毛布の群が瞬く間に濡れた。すぐに眠くなる。

 寝よう。もう、眠ってしまおう。

 瞼を下ろすと、真っ暗になった。



 起き上がる。

 闇に包まれた室内は、あの白い檻ではなかった。

 ナシュヴィルは、何度も視線を巡らせる。

 息を深く吸い込むと、木の匂いがした。鉄錆の臭いが、鼻の奥にまだ残っている。

 ほんの少し腐りかけた、何となく甘い香りを思い切り吸い込んだ。

 床に広がった毛布を、ナシュヴィルは丁寧に集める。

 初秋のフローリングは、なかなか冷たい。毛布を何枚も重ねてまとめて、それでようやく寝床になる。

 がらんとした部屋に、家具はベッドしかない。アルバートやローシャの使う部屋にあるような、本棚もチェストもなかった。

 あっても、どうせ使わない。

 唯一存在を許されたベッドですら、彼は一度も使ったことがなかった。

 埃を被りすぎて、獣の体毛のように白く覆われている。

 ふ、と息を吐いた。

 毛布に埋もれて眠るのは、いつもの癖だ。

 ベッドの上は落ち着かない。商隊の任務で泊まる宿には大抵ベッドがあって、毛布や布団が一枚ずつ用意されている。

 が、時には薄っぺらい毛布が一枚ということもある。

 そういうときに床で寝るとさすがに体が痛くなるのだが、それでもベッドでは眠れなかった。

 あれは、夢だ。

 しかし、鮮明すぎる夢だった。

 記憶が少しの捏造もなく、あまりにも忠実に再生されたせいで、胸が重い。

 思い出したくない記憶だ。

 けれど、忘れてはならない、とも思う。

 セシリアにこのことを話したら、どっちでもいいのではないかと言われた。

 覚えていたいなら常に思い出せばいいし、それが嫌ならすっぱり忘れてしまえばいい。そんな些細なことに、こだわることはないのだ、と。

 それができれば苦労はない、と思ったのだが、あえて口には出さなかった。

 思わず、左腕の付け根を押さえる。

 腕は、きちんとくっついていた。

 潰されてもがれかけた腕は、きっと石がなければ治らなかった。あの男は最後まで心配していたけれど、そんな必要はなかったのだ。

 痛みさえ堪えられれば、何も問題はない。

 潰れた腹も妙な方向に曲がっていた左足も、結局は全て治った。

 どうしてみんな、治らなかったのだろう。

 ナシュヴィルは首を傾げる。

 わかっている。理由は理解している。

 みんなには、石がなかったからだ。石が体に入っていなかったから。

 ぐんにゃりしたネコの体温が、手に蘇る。

 白いネコだった。白くて毛が短くて、尻尾が長い。

 常に足下に付いてきて、何度も蹴飛ばしそうになった。実験で檻を出るときには、いつも寂しげに鳴いていた。

 ネコのことと同時に、不格好な実験体たちの姿も頭に浮かぶ。

 頭が六つ付いた犬。腕が異様に肥大化した猿。

 色んな動物が混ざり合って、もはや原型を失った生き物もいた。理性を失って暴れ回る彼らは、見えない空に向かって吼えていた。

 今になって、思う。

 あそこでは、何をしていたのだろう。

 あんな風に悪戯に動物をいじって、その横では秘密裏に集めてきた子供に石を入れる。

 メンフィスやセシリアなら、知っているだろうか。

 ナシュヴィルはいつものようにその結論に行き着く。

 あの二人なら、何でも知っている。

 その答えにナシュヴィル自身が納得できないこともあるが、それでも明確な答えをくれるのだ。

 今度会ったら、聞いてみよう。

 纏めた毛布の中に身を倒す。ぼふり、と体が埋もれた。

 毛布四枚を重ねて丸めて窪みを作れば、床の上とは思えないくらい寝心地がいい。

 思わず、微かな唸り声が漏れた。

 早く寝よう。やっぱり、ここが一番寝やすい。

 半ば死んだこの建物の、自分の部屋が一番いい。

 一瞬、耳元をネコの鳴き声が横切った気がした。靴底を擦るような、特徴的な足音。薄汚れた白衣の裾が、視界の隅で翻る。

 ナシュヴィルは耳を塞ぎ目を閉じて、毛布の中で体を丸めた。

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