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白黒の世界。
ぼろぼろの毛布が一枚。
身が凍り付くような、冷たい床。
常に感覚が希薄な体。
生きるか死ぬか、ではない。
もう死んでいる。体も、きっと心も。
不意に差し伸べられる手。
世界に色が付いていく。
教えられることのほとんどは、よくわからない。
脳天気な笑い声。いつも薄汚れていた白衣。
差し出された手の上に、小さな動物がいた。ネコという生き物だと、そのとき初めて教えられた。
ネコはぐにゃぐにゃしていて、少し力を込めただけで動かなくなりそうだった。
纏わりついてくるネコ。
甘えるような鳴き声。
味気ない檻の中、また色が一つ増えた。
毛布はいつの間にか新しくなっていた。
男の笑い声と、ネコの鳴き声。
初めて、ここに来て良かったと思えた。
ひたすら実験動物の失敗作を引き裂く日々。
今までは何も感じなかったのに、腕を振るう度に胸の辺りが微かに痛むようになった。
痛い。
それを檻に入り浸る男に話したら、複雑そうな顔をされた。喜びの中に、微かに不安が混じっている。
本当は喜んだ方がいいんだろうけど、と彼は言った。
でも、と言った後、口を開くことはなかった。
あのとき何を言おうとしたのか。
それを知る方法は、もう存在しない。
場面が、唐突に切り替わる。
白い廊下。白い実験室。白い牢獄。
全てが真っ赤に染まっていた。ぼろ布のようになった人間たち。引き裂かれた動物たち。
体が痛かった。
左腕が千切れかけて、ふらふら揺れている。
右腕だけで何とか引きずってきた男は、何度も腕の心配をしていた。大丈夫か、と何度も言ってきた。
医務室はこの先だ、早くそこまで行った方がいい。
自分の方がずっと酷い状態なのに。
ネコは、いつの間にか消えていた。
がくん、と視界が揺れる。
ひゅう、と掠れた音が喉から漏れる。
医務室がどこにあるか、結局わからなかった。
男が喋らなくなった。揺すっても動かない。
道がわからなくなって、結局檻に戻った。
檻の外で、ネコが潰れていた。
白い毛に混じって、鮮やかな桃色が見え隠れする。
通り過ぎて檻に入る。
布団に、男を転がす。
いつか、彼自身が持ち込んだものだった。
揺すっても声をかけても、男は起きない。
きっと、疲れたのだ。だって昨日も寝ていないと言っていたから。散々眠ったら、すぐに起きる。
ふらり、と左腕が揺れた。
いつも使っている寝床に倒れ込む。
毛布の群が瞬く間に濡れた。すぐに眠くなる。
寝よう。もう、眠ってしまおう。
瞼を下ろすと、真っ暗になった。
起き上がる。
闇に包まれた室内は、あの白い檻ではなかった。
ナシュヴィルは、何度も視線を巡らせる。
息を深く吸い込むと、木の匂いがした。鉄錆の臭いが、鼻の奥にまだ残っている。
ほんの少し腐りかけた、何となく甘い香りを思い切り吸い込んだ。
床に広がった毛布を、ナシュヴィルは丁寧に集める。
初秋のフローリングは、なかなか冷たい。毛布を何枚も重ねてまとめて、それでようやく寝床になる。
がらんとした部屋に、家具はベッドしかない。アルバートやローシャの使う部屋にあるような、本棚もチェストもなかった。
あっても、どうせ使わない。
唯一存在を許されたベッドですら、彼は一度も使ったことがなかった。
埃を被りすぎて、獣の体毛のように白く覆われている。
ふ、と息を吐いた。
毛布に埋もれて眠るのは、いつもの癖だ。
ベッドの上は落ち着かない。商隊の任務で泊まる宿には大抵ベッドがあって、毛布や布団が一枚ずつ用意されている。
が、時には薄っぺらい毛布が一枚ということもある。
そういうときに床で寝るとさすがに体が痛くなるのだが、それでもベッドでは眠れなかった。
あれは、夢だ。
しかし、鮮明すぎる夢だった。
記憶が少しの捏造もなく、あまりにも忠実に再生されたせいで、胸が重い。
思い出したくない記憶だ。
けれど、忘れてはならない、とも思う。
セシリアにこのことを話したら、どっちでもいいのではないかと言われた。
覚えていたいなら常に思い出せばいいし、それが嫌ならすっぱり忘れてしまえばいい。そんな些細なことに、こだわることはないのだ、と。
それができれば苦労はない、と思ったのだが、あえて口には出さなかった。
思わず、左腕の付け根を押さえる。
腕は、きちんとくっついていた。
潰されてもがれかけた腕は、きっと石がなければ治らなかった。あの男は最後まで心配していたけれど、そんな必要はなかったのだ。
痛みさえ堪えられれば、何も問題はない。
潰れた腹も妙な方向に曲がっていた左足も、結局は全て治った。
どうしてみんな、治らなかったのだろう。
ナシュヴィルは首を傾げる。
わかっている。理由は理解している。
みんなには、石がなかったからだ。石が体に入っていなかったから。
ぐんにゃりしたネコの体温が、手に蘇る。
白いネコだった。白くて毛が短くて、尻尾が長い。
常に足下に付いてきて、何度も蹴飛ばしそうになった。実験で檻を出るときには、いつも寂しげに鳴いていた。
ネコのことと同時に、不格好な実験体たちの姿も頭に浮かぶ。
頭が六つ付いた犬。腕が異様に肥大化した猿。
色んな動物が混ざり合って、もはや原型を失った生き物もいた。理性を失って暴れ回る彼らは、見えない空に向かって吼えていた。
今になって、思う。
あそこでは、何をしていたのだろう。
あんな風に悪戯に動物をいじって、その横では秘密裏に集めてきた子供に石を入れる。
メンフィスやセシリアなら、知っているだろうか。
ナシュヴィルはいつものようにその結論に行き着く。
あの二人なら、何でも知っている。
その答えにナシュヴィル自身が納得できないこともあるが、それでも明確な答えをくれるのだ。
今度会ったら、聞いてみよう。
纏めた毛布の中に身を倒す。ぼふり、と体が埋もれた。
毛布四枚を重ねて丸めて窪みを作れば、床の上とは思えないくらい寝心地がいい。
思わず、微かな唸り声が漏れた。
早く寝よう。やっぱり、ここが一番寝やすい。
半ば死んだこの建物の、自分の部屋が一番いい。
一瞬、耳元をネコの鳴き声が横切った気がした。靴底を擦るような、特徴的な足音。薄汚れた白衣の裾が、視界の隅で翻る。
ナシュヴィルは耳を塞ぎ目を閉じて、毛布の中で体を丸めた。




