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男は一人、地下に佇んでいた。
ふと視線を落とす。胸から飛び出した鏃。
傷口から、微かに白煙が上がっている。本当に僅かな量だ。実は、先ほど逃げていった四人がいたときから煙は出ていた。
鏃を掴み、引き抜く。
じゅ、と肉を熱した鉄板に乗せたような音が鳴った。
矢を地面に投げ捨てる。傷口に触れる。
傷は、治りが遅い。穴はぽっかりと開いたまま。普段なら一瞬で塞がるのに。
男はその理由を知っていた。
それでも、だいぶ加減されている。
他の三人の攻撃なら致命傷にはならないだろうが、あれは別だ。あいつは、自分たちを殺す術に精通しているはず。
普段なら、こんな攻撃など簡単にかわせるのに。
脳裏に、少女の泣き喚く声が蘇る。
思わず、痛まないはずの胸を押さえた。
あのとき、彼女がああして泣き叫んでくれたなら。自分はもっと、力を発揮できただろうか。手足がもげてでも、あのオルゴールを叩き落とすことができたか。
答えは、否だった。
男は力なく首を横に振る。
どうしようもなかった。兵士にのこのこ付いていった時点で、もう駄目だったのだ。
自分たちはただ、相手が用意した罠に飛び込んだだけ。
ふと、息を吐く。息を吐いた、つもりになっただけだ。
自分たちは、人と同じ形を取ることはあっても機能まで忠実に真似ることはない。単純に、面倒だからだ。
息を吸わなければ生きていけないなんて、何て面倒なのだろう。
遥か昔は自分もそうやって生きてきたはずなのに、今ではその感覚を思い出せない。息を吐くふりをしたりするのも、長年人を見てきたからだ。
男はしゃがみ込んで、落ちている矢を撫でた。
町中で、記憶喪失者が増えている。
ベノムが記憶を食えば、人は抜け殻になる。
記憶喪失者たちを、人間はアムネシアと呼ぶ。自分たちが生み出した犠牲者とベノムが食った者を、意図的に混ぜているのだ。
全てをベノムのせいにしている。自分たちがやっている行為は、根刮ぎ棚に上げて。
しかし、記憶は首都でしか奪えない。
ミルニールに入り込むのは、容易ではない。これまで何人か仲間を送り込んでいるが、誰一人戻ってこなかった。
首都はこの国の中心だ。それだけ守りも堅い。おそらくあの堅固な城壁の中には、騎士団の連中がうようよいるのだろう。
その分、中には連中にとって触れられたくない秘密が山ほど隠されているはずだ。
もしくは。考えたくはないけれど、同胞が裏切ったのだろうか。
だいぶ前から、皆には町で人を食うなと通達してある。
食うなら、町から出た人間だ。一度町から離れてしまえば、ただでさえ弱い人間たちはさらに脆くなる。
「……まさか」
男は一人、呟く。
まさか、仲間たちが裏切るわけがない。
生まれたばかりのベノムならあり得るが、彼らは彼らで町に入り込んだ時点ですぐ殺されてしまう。理性がないからだ。
誕生直後のベノムは、暴力的な食欲に犯されている。
どれだけ食っても満たされない。だから記憶を求める。
邪魔をされれば、本能のままに戦う。突進を繰り返すだけのそれは、戦いとすら呼べないものだ。だから、簡単に討伐されてしまう。
厄介なのは、彼らに対話ができないことだ。
同じベノムであっても、邪魔をされたと判断すれば容赦なく襲いかかってくる。
誰もが一度は通る道だとわかっていても、すぐに納得できるわけではない。
実際、あまりにも酷い暴走をした同胞を殺す専門家もいるくらいだ。誰しもが汚れ役を引き受けることを拒んでいるから、需要はあるらしい。
同胞を殺して、一定の見返りを得る。
男はおもむろに、矢を拾い上げた。
鋭利な銀色は、先ほどの青年を思い起こさせる。銀色の髪の毛。
ベノムは赤一色なのに、人間は目にうるさいくらい様々な色彩で溢れている。
とにかくまずは、何故町中で記憶喪失者が増えているのか調べるべきだろう。
同胞の仕業なら然るべき措置を取らなければ。
男は腕を伸ばし、上方の穴を塞ぐ瓦礫を押しのけた。
差し込む光は弱い。微かにオレンジがかっている。
いつの間にか、夕方になっていたらしい。
耳を澄まして、上に誰もいないことを確認する。縁に手をかけて、体をゆっくりと持ち上げた。
一瞬、このまま地下に留まっていたい衝動に駆られる。
スプレストに籠もっている連中は、こんな心持ちなのかもしれない。確かに、こうして籠もっていれば何も考えなくていい。
思考を停止させて、漫然と生きる。
否、生きるとすらいえないのだろう。
ベノムは、その場に存在するだけだ。ただ、あるだけ。
なくてもいい。存在意義などない。
唇を噛み締めた。
ようやく地上に出る。
早く、早くしなければ。
正体のわからない焦燥感に突き動かされて、男は人気の失せた町を歩く。
チランジアは、極端に人口密度が偏った町だ。
特に夜が近付くと、人は皆中心部に帰っていく。そこにしか、集合住宅や宿泊施設がないからだ。町外れにそんなものを造る余裕はないのだろう。
男は、歩きながらぐるりと辺りを見回す。
──この町をこんな有様にしたのは、他でもない自分たちだ。
脳裏に、色濃い悲鳴が蘇る。
夜闇が深まり始めた頃に町を包囲して、深夜に一斉に攻撃を開始した。人が逃げようとしても、ベノムの壁が行く手を阻む。
触れたそばから取り込めるので、楽だった。
あの中に飢餓感を抱えたベノムも放り込んだので、理性を持った味方が増えたのも大きい。
悲鳴や怒号で、町中は混沌としていた。
常駐していた騎士団も勿論いたが、それを圧倒的に上回るベノムの量に為す術もなかった。戦闘においては、やはり数が多い方が絶対的に有利なのだ。
地を這い回る人間を踏み潰し、脇を抜けようとする者は絡め取って記憶を啜った。
騎士団にも町の住人にも、生き残りはいなかった。おそらくいなかった、はずだ。
ただ、彼の中で、染み着いて剥がれない光景がある。
男は何十年も──下手をすれば何百年も前に、飢餓感を失っていた。既に記憶を食う必要はない。だから、基本的には傍観者に徹していた。
人間たちが狂ったように逃げ回り、奇声を発する中。
頭上には、満天の星空が広がっていた。空を横切る星の大河。あまりの密度に白く濁ったようなそれは、背筋が総毛立つほど美しかった。
ぼんやりと星を眺めていた彼は、ふと視線を落とす。
瓦礫へ変わっていく民家。町並みが、赤い波濤に打ち崩されていく。
瓦礫が至る所に積み上がり、大小様々な隙間ができあがっていた。夜闇に、不規則なシルエットが浮かぶ。
その、瓦礫の合間。
かたかたと震える、小さな影が、一つ。
それは、暗闇に紛れ込むような、黒髪の子供だった。




