9
アルバートは、唾を飲み込んだ。
ローシャの肩を叩く。まだ彼女の腕の中にいたからだ。
普段なら盛大に照れるのだろうけれど、今は何も感じない。不幸中の幸いだった。
力の入らない両足を叱咤して、何とか立ち上がる。
「ろー、しゃ。おれ、走る、から」
「うん、わかった。しーちゃん、ちゃんとみてるね」
ローシャは足取り軽く後ろに下がり、今度はナシュヴィルを抱き抱えた。まるで大きなぬいぐるみを抱えるかのようで、場違いなほど和やかな光景に見える。
ナシュヴィルも、完全にされるがままだ。瞼が下りかけている。彼の場合は、本当に眠いのかもしれない。
アルバートは、一つ息を吐いた。
箱の中央に佇む男を睨む。睨んだつもりだったが、目は虚ろなままかもしれない。
少しでも気を抜くと、その場に蹲りたくなる。
「君はまだ、石に汚染されきっていないんだ」
「お、せん?」
「そう。汚染されていないから、まだそうやって動ける。そこの彼は、もう駄目だ。石が定着しきっているから、影響を受けすぎている」
思わず、振り返る。
ナシュヴィルはまだ、ローシャの腕にいた。
ぼんやりと視線を虚空に彷徨わせ、呆けたような表情を浮かべている。
微かに鳥肌が立った。
一体何度、あの表情を見ればいいのか。
あれは、記憶を奪われた直後の人間が浮かべるものだ。
アルバートが向き直るのを見計らったように、男が再び口を開いた。
「たぶん、そこの彼はもう石を取り出せない。取り出したら、そのショックで死んでしまう可能性の方が高いと思う。でも、君はまだ間に合うんだ。今取り出してしまえば、大きな拒絶反応はない、はず」
男は表情の変化こそほとんどないものの、明らかに必死だった。まだ間に合うと、そればかり訴えてくる。
ナシュヴィルは、もう戻れないのか。
じわり、と目が熱くなる。
石を取り出した瞬間死んでしまうなんて、理不尽にも程がある。
でも、自分はまだ間に合うのだと、彼は言う。
「おれ、は」
戻りたくない、と言えば嘘になる。
腹に入れられた石が、何か悪影響を及ぼすのではないか。急に拒絶反応のようなものが出て、死んでしまうのではないか。
不安は常に付き纏った。
普段多少悪くなったものでも食べているせいか、腹痛に見舞われることが多い。その度に、心臓が縮み上がるのだ。
この痛みは、石のせいではないか、と。
それが日常茶飯事で、けれど全く慣れることがない。
嫌だ。もう嫌だ。
心はどんどん削れて、腹が痛む度に擦り切れていく。
頭を振った。不安で仕方なかった。セシリアは大丈夫だと言っていたけれど、彼女だって全能の存在ではない。
間違っていないという保証など、どこにもない。
その緩い地獄から、この男は救い出してくれるという。
本当に、助けてもらえるのか。
しかし、今度は手が動かなかった。
嫌な汗が、背中を伝う。これを逃したら、きっともうチャンスはないのだろう。
どれだけ内心で言い聞かせても、足は動かない。
「やっぱり、いい」
男は、きょとんとした表情で目を瞬かせた。
何を言っているんだとでも言いたげで、アルバートは思わず目を逸らしそうになる。それでも、何とか緑の目を見据え続けた。
「俺だけ、助か、るなら、いらない」
「……ああ、そういう、ことか」
吐き出された言葉は、あまりにも苦々しかった。
納得したいけれど、納得できない。その顔は、言葉で語るより如実にそう語っている。
もどかしげに肩を揺らして、男は息を吐いた。
「人のことなんて、気にしなくていいのに。何でいつもそうなんだ。本当に助けなければならない人間は……そういう奴に限って、他人のことばかり気にしている。そういう連中に限って、自分のことなんて後回しにできる。
何で……何で、そうなんだよ」
初めて、男の言葉に感情が滲む。
思わず伸ばされた手を取りたくなるような声音だった。
彼は、本当に誰かを助けたいだけなのかもしれない。
こうして何らかの力を使い、相手を無力化してでも。
アルバートは伸ばしかけた手を引っ込めた。
男が纏う空気が、一気に尖る。緑色の双眸が、ぎらりと光ったように見えた。
否、実際光っている。不穏な緑の光が、暗闇に浮かび上がった。
ナシュヴィルは戦えない。ローシャを戦わせるわけにはいかない。
喉が引き攣る。じりじりと、足が後ろに下がった。
「そういえば、別に理解を求めなくてもいいんだよな。俺が勝手にやればいい。どうせ」
男の腕が、伸びた。ぬるりとした、赤い腕。
緑の目が、一際強い光を纏う。
「どうせ、あいつも俺の敵なんだから」
咄嗟に伏せた。背中のすぐ上を、轟音が過ぎる。
ひ、と喉の奥から掠れた悲鳴が漏れた。
すぐさま後ろに跳ぶ。つい先ほどまで立っていた場所が、烈風と共に抉られた。粉砕された石畳が宙を舞う。
気ばかりが急く中、アルバートは一瞬視線を上げた。
男の上に、ぽっかりと開いた穴。人一人くらいなら簡単に通り抜けられそうな幅がある。出入り口だ。
しかし、あそこを通るのは、おそらく無理だ。
男の腕が、頬を掠める。風圧で頭を揺さぶられ、一瞬意識が飛んだ。
自分に、この人を完全に無力化できるとは思えない。
ならば、後ろに戻るしかない。元来た道を戻り、最初に飛び込んだ穴から地上に出る。
腹に力を込める。瞬時に両足が熱くなった。
跳ぶ。跳ぶ。跳ぶ。
壁を蹴り、床を蹴り、相手の攻撃をかわす。
アルバートは風を切り、必死で走った。
擦過していく腕を蹴りつけると、勢いのままに千切れ飛ぶ。鮮血のような赤が、ランプの薄明かりに浮かんだ。
ちらりと男を窺うと、彼は当然のように涼しい表情のままだ。赤く半透明になった両腕を振り回しているだけ。
こちらは、早くも息が上がってきたというのに。
振り下ろされた腕を、横に跳んで回避する。額に浮かんだ汗が、一瞬で冷えた。
轟々と、腕が振るわれる度に身の竦むような音が鳴る。
それはすなわち、男の腕が凄まじい速度で風を切っているということ。当たればただでは済まないと、全身が危機感を訴えている。
「アル、がんばれ!」
ローシャの間の抜けた声援が、耳に沁みた。
それだけで、怠くなり始めていた足に力が漲る。折れかけていた心が、再び立ち向かう気力を取り戻す。
そう、ほんの少し。ほんの少し、隙を作ればいい。
ナシュヴィルのように相手を制圧する力はないけれど、動きを止めるくらいなら。
男の腕は、長い。少なくとも、この空間の端から端まで届くくらいの長さはある。
これだけ長ければ、小回りが利かないのではないか。
縦横無尽に宙を滑る腕を避け、前に踏み込む。
本当は、恐ろしかった。風切り音が響く度、心臓が嫌な音を立てて軋む。背筋が総毛立つ。
けれど、避けているだけでは進めないのだ。
男は、こちらが不自然なほど踏み込んだことに気付いているだろう。が、動きを阻もうとしない。
余裕のない胸中に、不安が過ぎる。
本当に、このまま突っ込んでしまっていいのか。
正面から突き込まれた腕を、ぎりぎりかわす。頬が抉られたのか、一瞬熱くなった。
加速する。ぼろぼろの石畳を踏み砕く。
跳躍した一瞬の後、足下を両腕が通過した。
やけに、時間がゆっくりと流れている気がした。
体勢を整える。腕は、大きく迂回しなければ戻ってこられない。
男の目が、僅かに見開かれた。
着地。たわめた体を伸ばし、腰を捻る。
男の腰に、右足が食い込んだ。予想していた、鈍い感触はない。
足が。
右足の臑が、男の体に埋まっていく。
「っひ」
恐ろしい光景だった。人体を、自分の足が半ばまで抉る。
アルバートは反射的に後込みした。足の勢いが止まる。
石の力が消失する。意識が完全に逸れたせいだ。
一瞬、何も考えられなくなった。
風を切る音が、すぐ後ろで響く。
「アル!」
ローシャの警告は、遅かった。あまりにも遅かった。
衝撃。頭が吹き飛んだかと思うほどの激痛。
体が叩きつけられる。息が詰まった。
「……っぐ、う、え」
ずきずきと、頭が痛む。手も足も、全身が痛い。
まるで、火でもつけられたかのようだ。体中が燃えて燃えて、消し炭になろうとしている。
息を吸って、吐き出す。
たったそれだけの動作すら、ぼろぼろの体には重労働だった。もう動きたくないと、痛みと共に訴えてくる。
頑張ったじゃないか。つい数ヶ月前まで、単なる石を作るための材料でしかなかった奴にしては。
必死で呼吸をする度に、情けない音が漏れる。
きっと、体中が穴だらけなのだ。吸っても吸っても、少しも楽になれない。
「やっぱり、駄目なんだよ」
男が、ぽつりと零した。
急に静寂を取り戻した空間。
「アル、アル!」
ローシャが叫ぶ。ナシュヴィルを放り出して、向かってくる姿がぼんやりと見えた。
男はそれを、一瞥することもなく腕を振る。
無尽蔵に伸びる腕が、格子状になって彼女の前に立ち塞がった。
アルバートは床に転がったまま、ただそれを眺めることしかできない。ひ、ひ、と微かな呼吸音が、耳に響く。
「やめてよ! だめ、だめだってば!」
ローシャが格子に取り付いた。力一杯揺さぶっているが、やたらと弾力のあるそれは全く破れそうにない。
「駄目なんだ。話し合いで解決するなんて、無理なんだよ。だって、みんな考えてることは違う。信じているものも違う。そんなの、覆そうっていう方が無茶なんだ。
話し合いだけで変わるなら、そもそも誰も戦おうとしないだろう?」
男が水溜まりを踏みつける。滴が散った。
ああ、この人は、何を言っているんだろう。
熱で浮かされた頭は、まともに働こうとしない。
気付けば、抉れていたはずの男の体は元通りになっていた。反射的に、安堵してしまう。
良かった。この人を殺してしまったわけじゃない。
「あいつを、助けたくて、俺はここまでやってきたのに。どうして、わかってくれないんだ。
俺は、俺、は……何の、ために、ここまで来たと」
男の顔が、歪んだ。今にも泣き出しそうな、子供のような表情に。
アルバートはそれを見上げながら、何とか体を動かそうとする。
腕はどうでもいい。足が動けば。足。足、が。
びくり、と右足が跳ねる。死にかけた魚のような動き。
動けという信号が、頭から足に達するまでにめちゃくちゃに乱れている。それくらい、その動きは酷かった。
びくびく動きはするものの、全く言うことを聞いてくれない。歯を食い縛っても、手のひらに爪を食い込ませても、何も変わらない。
「あ……ぐ、う」
動け、動け、動け。
早く、動け。
「アル! いや、いやだ! きんちゃん、たすけて!」
金色の光が、辺りを染め上げる。
耳慣れた威嚇音と共に、金色の大蛇が格子に突撃した。
それでも、破れない。赤い格子は、ただたわむだけ。
男の残された右腕が、伸びる。細く伸びたそれが、ゆるりと首に絡む。枝分かれしたもう片方が、腹部に巻き付いた。
「ひ、うっ」
「いやだああああっ」
ローシャが泣き喚いた。
おそらく、何が起こるのか理解はできていない。ただ圧倒的な危機感に苛まれて、恐ろしい予感がして、彼女は混乱している。
蛇はそれに呼応するように、がむしゃらな突進を繰り返す。
「やめて、やめてアルからはなれて! ばかばかばか、アルにさわらないでよ!」
ぐ、と腹に腕が食い込む。容赦なく込められていく力に、息ができなくなった。
暴れようにも、首に巻き付いた一本がそれを許さない。
このまま、石を抉り出されるのか。
「うあああああっ」
ローシャが慟哭する。頭を振り乱して、叫ぶ。
男がふと振り返り、首を傾げた。