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神を思ってはならない  作者: 宮野香卵
第四章 機械と化け物の境界線
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 ねっとりとした闇が、体中に纏わりついてくる。

 どれだけ息を潜めても、呼吸する音が耳障りだった。

 緊張はしているが、息を荒げているわけではない。

 それなのに、ひゅうひゅうと空気が細い道を通り抜けるような音が響く。

 ランプの光は、あまりにも弱々しかった。

 足下くらいしかまともに見えない。逆に、辺りに充満する暗闇が濃くなっている気がした。

「くらいよう、くらいよう……」

 アルバートは右手でランプを掲げ、左手にローシャをぶら下げたまま進んでいた。

 ローシャのか細い声は、ナシュヴィルを追い越してふらふら飛んでいく。反響する足音は、例によって二人分だ。

 ぽたぽたと水滴が落ちる音はするが、やはり水は枯れていた。意外なほどしっかり整備された石造りの道は、思っていた以上に歩きやすい。

 三人は今、本来水が流れていたであろう溝を歩いていた。両側、肩の高さ辺りには、歩道らしきものが造られている。

 ただ、道幅が極端に狭い。

 明るければまだいいが、この薄暗さで歩くのは危険だ。

 元水路はゴミの残骸らしきものが溜まっていたが、あくまで両端にしかないので歩く分には問題なかった。

「……ナシュヴィル、なんかいた?」

 暗い暗いと涙声で繰り返すローシャを宥めながら、アルバートは歩く。ざりざりと、足下で塵芥が擦れた。

 当然の如く黙って進むナシュヴィルが、僅かに歩調を緩める。

「気配、は、残ってる」

「ベノム、の?」

 ランプを突き出すと、暗がりでナシュヴィルが頷いたのが見えた。

「のこりもの?」

「残り物」

「……残り物ってことは、ベノム自体がいるわけじゃないのか?」

 再び首肯する。つまり、最近までベノムがここにいたというわけだ。

 アムネシアの急激な増加には、やはり彼らが少なからず関わっていたらしい。

 内心、ほっとする。当然のことだ。この事態は、セシリアだって予測していた。

 人は──間接的には関わっていると言えるのだろうけれど。こんなところまでやってきて記憶を食っているのは、ベノムたちの意志だ。

 人間は、関係ない。

 アルバートは騒ぎ始める胸を抑えるように、言い聞かせる。

 違う。誰かが関わっているなんて、そんなことは。

 足下で、ぱしゃりと水が跳ねる。同時に心臓も跳ね上がった。次に足を踏み出したときには、じわじわと足先が冷たくなった。

 同じような音が、また聞こえる。ローシャが驚いたような悲鳴を上げた。

 どうやら、そこら中に水溜まりができているらしい。

 ランプを前に掲げて、目を凝らす。

 地面の至る所が光っていた。避けるのは難しそうだ。

 水溜まりは、進むにつれて増えている。

「ローシャ、水あるから、気を付けろよ」

「う、うん」

 ローシャは頷いて、また腕に力を込めてきた。

 アルバートは一瞬目を落としてから、前方に向き直る。その瞬間。

 ぞわりと、全身の毛が逆立った。

 轟音。咄嗟にローシャを巻き込んで倒れ込む。

 盛大に冷たい水がかかって、思わず悲鳴が漏れた。

 びりびりと全身が音に翻弄される。耳が痺れた。体の下で、ローシャが大袈裟なくらい震えている。

 しかし、音は通り過ぎたと思ったら瞬く間に遠ざかっていった。

 結局、何だったのか。

 一度たりとも顔を上げなかったアルバートには、一切わからない。

 ばらばらと、砂や石らしきものが降り注ぐ。

 全身が痺れていた。凄まじい音に叩かれて、体の震えが一向に治まらない。

 アルバートは、恐る恐る顔を上げた。気付けば、全身びしょ濡れになっていた。

 通路脇に積み上がっていたゴミが、ものの見事に吹き飛ばされている。通路の真ん中だろうが端っこだろうが、至る所に飛び散っていた。

 ローシャが押し殺したようなくしゃみをした。

 空っぽな空間に、ささやかな音が波紋を広げた。

 そこで、アルバートは気付く。

「ナ、シュ、ヴィル?」

「しーちゃん、いないよ」

 きょろきょろと、ローシャが不安げに周囲を見回した。

 アルバートもランプを振り回す。僅かにオレンジがかった光が、濁った壁面を悪戯に走った。

 いない。どこかに倒れているわけでも、隠れているわけでもない。

「しーちゃん? ……しーちゃん」

 次第に、ローシャの声に涙が混ざる。嗚咽が漏れて、静寂を破った。

 今にも押し潰されそうな重圧が、一緒に震えて揺れる。

 アルバートは、意味もなく視線を滑らせた。

 まさか、という思いで頭が混乱する。

 ナシュヴィルなら、何でもできると思っていた。不可能などない。

 誰にも負けないし、垂直な壁だって上れる。

 ローシャもきっと、信じられないのだろう。

 細い髪の毛が束になって、冷水がぽたぽた落ちている。普段なら、気持ち悪くてぐずっているはずだ。

 しかし今はそれも気にならないようで、ぐすぐす鼻を鳴らしている。まるで親を見失った子供のように、ふらふら視線を彷徨わせていた。

 時折ランプに照らされて、空色の目が光った。

 何故、ナシュヴィルは消えたのか。

「……ベノム?」

 からからに乾いた喉に、吐き出した声が引っかかる。

 思わず咳き込んだ。ざらざらと呼気が擦れて、無性にむず痒くなる。

 先ほどの轟音。あれは、ベノムだったのではないか。

 一度思いついてしまうと、いてもたってもいられなくなった。

 ローシャに目を向ける。彼女の顔は、もうぐしゃぐしゃだった。

 幸い鼻水は出ていないが、涙が次から次へと溢れている。

「行こう」

 手を差し伸べると、何度も頷いた。涙が飛び散る。

 背中によじ登ってきたローシャを抱えて、アルバートは駆け出した。



 頭が揺れた。視界も揺れた。

 首が半ば折れてしまったかのように、視界が安定しない。ふらふらゆらゆら揺れて、正確に状況を掴めない。

 ナシュヴィルは一人、戸惑っていた。

 そう、一人なのだ。気付けば一緒に歩いていたはずの二人はいなかった。

 というより。

 ナシュヴィルは、ゆっくり周囲を見回す。

 地下道の先は、ちょうど箱のようになっていた。真四角の部屋。その先にもまだ道は続いている。

 否、正確には、続いているはずだった。今は、通路の入り口にゴミが山と積まれて通れそうにない。事実上、この箱が地下道の終点だった。

 微かに、風が通っている気配がした。

 おそらく、この箱の真上に出入り口がある。

 みしみしと、生理的な嫌悪感を煽る音が聞こえた。ナシュヴィルは、僅かに眉根を寄せて目を落とす。

 軋んでいるのは、他でもない自分の体だ。

 目の前には、男が一人。

 彼の右腕は──途中から、半透明になっている。それがびろんと伸びて、体に巻き付いていた。

 人間の腕は、伸びない。

 ナシュヴィルは、先ほどから何度もそう反芻している。

 腕は伸びない。アルバートもローシャも、セシリアも伸びない。

 けれど、その伸びた腕で体を締め上げられているのは、紛れもない現実なのだ。

 男は、緑色の目をしていた。

 暗闇の中で、両目だけが爛々と光っている。

 夜目の利くナシュヴィルでも、人相を把握することは難しかった。

「……また、か」

 掠れた呟きが、箱に響く。

 ナシュヴィルは首を傾げた。

 また。また、とはどういう意味だろう。

「ひょっとして、石を入れるのが流行ってるのか」

 男は再び呟く。

 どうやら自分に向けて言っているわけではないのだと、ナシュヴィルは気付いた。

 独り言、というものだ。これは。

 彼は他にも、何やらぶつぶつ言っている。

 自分より、この人の方がよっぽど変わっているのではないか。

 だって、こんなに腕が伸びている。

 それに、とナシュヴィルは思った。

 いつもなら、こうして捕まることはなかったはずだ。気配が読めなかった。気付けば絡め取られて、ここまで引っ張られていた。

 それも、ナシュヴィルにとって不可解な点だ。

 調子が悪いわけではない。体調はいい。昨日の夜は、ちゃんと眠れた。

 それなのに、相手の攻撃を毛ほども予測できなかった。

 理由はわからない。しかし、アルバートやローシャが捕まらなかったのだから、これはこれで良かったのかもしれない。

 ぎし、と骨が軋んだ。

 今度は、男の左腕が伸びる。

 するすると音もなく伸びて、目の前で揺れる。

 彼の目は、悲しそうに見えた。時々、商隊の人間に向けられる眼差しとよく似ている。

 怒りではない。何て可哀想なんだと、哀れむ目。

 冷え切った空気を、ナシュヴィルは思い切り吸い込む。

 喉が凍り付きそうなほど冷たい。唾を飲むと、ちりちり痛む。

 可哀想。かわいそう。

 その言葉は、難しい。前に一度、メンフィスかセシリアに意味を聞いたことがあったけれど、結局最後までわからなかった。

「──かわい、そう?」

 この人なら、納得できる答えをくれるだろうか。

 ナシュヴィルは、微かに期待を込めて首を傾げた。

 男は大仰に肩を震わせ、顔を上げる。やはり、人相は定かではない。ただ、緑の瞳は明らかに揺れていた。

 不格好に積み上げられた、積み木の城のようだ。

 一応、何か芯のようなものはある。しかしそれが、とにかく頼りない。風がなくてもひっきりなしに揺れて、きしきし軋んでいる。

 男が、頷いたように見えた。

「そう、だな。可哀想だ。この国の人は、みんな」

 返ってきた答えは、ナシュヴィルが求めていたものとは違った。

 可哀想なのは、みんな。

 なら、アルバートやローシャも可哀想なのか。

 でも、商隊の人間は二人にそんな目を向けなかった。

 二人は可哀想ではなかったからだ。

 しょげ返った様子の男は、揺らしていた手をぴたりと止めた。

 顔を上げる。つい数瞬前まで揺れていた瞳に、驚くほど強い光が宿っている。

 一瞬、ナシュヴィルは肩を震わせた。

 本当にこの人は、さっきと同じ人だろうか。

 思わず、まじまじと緑の目を覗き込む。

 男は確かにナシュヴィルを見つめて、一つ頷いた。何故首肯されたのか。

 ナシュヴィルには、理解できない。

「石は、駄目だ。あんなものは、いらない」

 男は、何度も頷く。自らに言い聞かせるように。

 そして、ナシュヴィルを見上げる。

「君だって、“普通”になりたいだろう?」

 ふつう。

 ナシュヴィルは、ぽつりと零した。

 普通とは、何だろう。少なくとも、素手で人体を引き千切ったりできない人間のことを言うのだろうけれど。

 そんなことは、考えたこともなかった。

 普通になる。

 石がなくなって、速く走れなくなって。力も弱くなって。高いところから飛び降りれば、普通に足が折れて。

 想像もできなかった。

 ぼんやりと映像が浮かぶ。白黒な上に、ピントがずれていた。どれも不鮮明でノイズだらけで、目を凝らしてもはっきりしない。

 石が消えたら、自分はどうなるのか。

 その仮定は、ナシュヴィルに得体の知れない感情を抱かせた。胃の辺りがじわじわ熱くなって、思わず叫び出したくなるような。

 普通になんて、なりたくない。

 ぐねぐね動く男の手から目を逸らして、ナシュヴィルは小さく呻いた。

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