3
煤けた石畳の道。その隅っこに、石ころが転がっていた。
ローシャは、石ころに駆け寄った。
しゃがみ込んで拾い上げる。やたらに丸く、手のひらにちょうど収まるサイズのそれ。
試しに握ってみたが、全く痛くなかった。つるりとした滑らかな表面は、驚くほど冷たい。
「つめたー」
ローシャは一人、歓声を上げた。
白いワンピースの裾が、風に揺れる。
彼女の足下に広がる石畳は、どれも見事にひび割れていた。ひびの間には砂が入り込んでいる。
周囲に立ち並ぶ建造物は、なかった。代わりにあるのは、大小様々な瓦礫の山と大量のテントだ。
初めて見る黄色や緑のテントに、ローシャは心を躍らせた。
あれは何だろう。
彼女は足を弾ませ、石を持ったまま駆ける。
あんな三角の物体が、この町にはたくさんあった。
人もたくさんいる。彼女が今いるのは町の外れだが、少なくとも中心部は人でごった返していた。みんな声が大きすぎて、ローシャは頭がくらくらした。
だからこそ、こうして人気がない方へやってきたのだ。
誰もいないことに、ローシャは気を良くした。調子外れな鼻歌を歌いながら、石を握った右手を振り回す。
高い建物がないせいか、薄い水色の空がやけに広かった。ぐるりと周囲を見回せば、必ず空が目に入る。視線を持ち上げてしまえば、それ以外のものは見えない。
「おそら、おっきい」
ローシャはぽかんと口を開けた。右手から石が落ちる。かつん、と小さな音が鳴った。
そこで、ローシャはふと思い出す。
そうだ、セシリアに、ゼリーを買っていかなければ。
が、彼女は次の瞬間その場で唸り始めた。無表情のままで、眉根を微かに寄せる。
思い出せない。
セシリアは、何という名前のゼリーが欲しいと言っていたっけ?
「……うー」
ローシャは道の真ん中に突っ立ったまま、唸る。
確かに、廃屋を出る前に言われたのだ。アルバートが、「酷い名前だ」と言っていた。
ローシャにはその意味がわからなかったが、とりあえずぜりー、という何かを食べてみたかった。
初めは元気がなかったアルバートも乗り気になるくらいだから、きっと物凄く美味しいのだろう。
でも、その名前がわからない。名前がわからないと、きっと買えない。
酷い名前。ひどい、なまえ。
酷い名前って、何だろう?
考えれば考えるほどわからなくなる。だんだん頭が痛くなってきた。
もう諦めようか。アルバートのところに戻れば、きっと教えてくれるだろうし。
そう結論づけて、ローシャは踵を返した。
そして、気付く。少し離れた位置から、自分を見ている人間の存在に。
ローシャは、ゆったりと首を傾けた。
大きな男の人だ。きっと、メンフィスよりも大きい。
髪の毛は、少し長めだった。アルバートよりも長い。色は、灰色だ。濃い灰色。どんよりと曇った空のような。
目つきが、ほんの少し怖かった。じっとこちらを見つめている。居心地が悪くなるような目つきだった。
薄い緑色の目は、思わず見とれてしまうほどきれいなのに。
それでも、ローシャの硬直は一瞬だった。
わからないことは、すぐに聞く。よくアルバートから言われていた。
ローシャは何の躊躇いもなく、男に歩み寄る。
「ねえねえ、きいても、いい?」
そのあまりに無防備な様子に、男の方が後退さった。若干顔が引き攣っている。
ローシャにはよくわかっていなかったが、男はどことなくぼんやりとした目つきをしていた。顔立ちは整っている。が、眠たそうな眼差しがそれを台無しにしていると言えなくもない。
「あのね、ゼリー、かっていかなきゃならないの。おみ、やげで。でも、おなまえ、わすれちゃって」
口に出すと、余計に悲しくなってくる。
どうして忘れてしまったのだろう。セシリアに買ってきてほしいと言われたのに。
気付けば、視界が濁っていた。じわ、と涙が出てくる。
「ねえ、ゼリーのおなまえ、しらない?」
顔を上げると、男の目が見開かれていた。
緑の目は、やっぱりきれいだ。
「おめめ、きれいだね」
だから、ローシャは素直にそう言った。
「え」
男は、ぽつりと零す。落ち着きなく、まるで何かに助けを求めるように視線を彷徨かせた。
「君……あいつらとは、違うのか」
話しかけられたことは、わかった。ただ、質問の意味がわからない。
ローシャは途方に暮れたように首を傾げる。
「わかんない」
「……そう、か。そうだよな」
男は一人、納得したように頷く。
「ねえ、どうしたら、そんなきれいなおめめになれるの?」
「君の目も、十分綺麗だと思うけど。空の色と同じだ」
「おそら」
ローシャは空を見上げる。
自分の目なんてほとんど見たことがないけれど、そんな色をしていただろうか。空と同じ色なら、きれいかもしれない。
ローシャは途端に目を輝かせた。その場で跳ねる度に、胸元の指輪も跳ねる。
「ほんと? わたしのおめめ、おそらみたい?」
「うん。綺麗な空色だ」
「そうなんだ!」
ゼリーのことは、半ば頭から吹き飛んでいた。
きれいな目。頭の中で繰り返して、頬を押さえる。
とても、嬉しい響きだった。褒めてもらえるのは嬉しい。
男はじっと、その様子を見つめていた。そして、ふと頬を緩める。一番初めの動物を観察するような眼差しも、いつの間にかすっかり和らいでいた。
「ゼリーのことなんだけど」
「あっ」
「確か、毒の息吹だ。どくの、いぶき。わかる?」
「あ! そうそう、それ!」
ローシャは男を指さして飛び跳ねた。
男も、顔を綻ばせたまま頷く。
答えを得たローシャは、そのままアルバートに報せるべく走り出した。
「ありがとう!」
無表情の中に、微かに笑みのようなものを浮かべて手を振る。男も控えめに振り返してくれた。
あの人とは、もう友だちだ。
ゼリーのことも教えてくれたし、きっといい人だ。
じわじわと熱くなる胸を押さえて、ローシャは走る。
あまりにも無邪気なその後ろ姿を、男は黙って見送っていた。
「──ローシャ!」
アルバートは叫んで駆け出した。
両目から、ぶわりと涙が溢れる。
通りの向こう側から駆けてきたローシャは、そのままの勢いでアルバートの胸に飛び込んだ。
一瞬、衝撃で息が詰まる。
通りを慌ただしく歩いていた人々が、何事かと目を向けてきた。
しかし今のアルバートには、人並みの羞恥心に構っている余裕がなかった。
「どこ行ってたんだよ!」
思わず叫ぶ。ローシャがびくりと身を震わせた。
「ちょ、ちょっと、おで、かけ」
明らかに怯えた声に、僅かに罪悪感がこみ上げる。
しかし、突然消えたのはローシャだ。激しい人混みに気を取られているうちに、いつの間にか消えていた。
ひゅっ、と喉の辺りから妙な音が鳴った。心臓が、内側から胸部を叩く。冷や汗がどっと吹き出して、気付けばアルバートは走っていた。
忙しそうに通り過ぎる人の間を、何とか避ける。
ナシュヴィルも付いてきて、二人は散々大通りを走り回った。大通りというのは、十年前の地図の上での話だ。
実際には、町だった場所に瓦礫とテントが残っているだけだった。これは、果たして復興したと言えるのか。
寧ろこの状態で復興ということは、それだけ以前が酷かったということなのだろう。
ローシャが駆けてきたときは、周囲を大体捜索し終えて途方に暮れていたところだった。
怒ってはいけない。理解はしているが、泣き出したいくらいの不安が青白い炎に変わって燃えている。
怒声を上げる代わりに、ローシャを抱き締めた。普段なら、恥ずかしくて絶対にできない。
その様子は端から見れば、抱き締めているというより縋りついているようにしか見えなかったが。
「あ、アル、いたいよ」
「……しょうがないだろ」
不貞腐れたような声が出る。
心配したのだ。不安でしょうがなかった。
ローシャには、きっとそれがわからないだろうけれど。
「ゼリーのおなまえ、ちゃんと、おしえてもらったよ」
「……え、ああ、そっか」
「うん。きれいなおめめのひとに、わたしのおめめも、ほめてもらった」
嬉しそうに頬を緩めて、ローシャが笑う。
やはり、あまり反省していない。アルバートは深々と息を吐いて、ようやく腕から力を抜いた。
本当は、こんなことをしている場合ではない。
早く町に入り込んだベノムを見つけなければ。