5
メンフィスの語り口は、とにかく淡々としていた。
話が終わったことを宣言されても、まだ続きがあるような気がしてくる。
残ったのは、強烈な違和感だった。
アルバートはリビングのソファに腰掛けたまま、頭を掻いた。隣に座ったローシャは、完全に物語を楽しんでいるだけだったが。
「童話と、話が全然違うよな」
この場で童話の方を知っているのは、おそらく自分だけだ。そう思ったアルバートは、呻くような口調で言う。
童話の方では確か、アルテスタとセシリアは国から逃げ出したはずだ。アルテスタが国王の娘と結婚させられそうになって、二人で逃げ出す。
駆け落ちという奴だと、同い年の少女たちは喜んでいた。誰もが一度は、あんな刺激的な体験をしてみたい、らしい。
しかし、メンフィスが語った話はまるで別物だ。
救いの欠片もない。アルテスタは絶望して、この国を恨んで──おそらく、死んだ。
セシリアは、どうだったのだろう。彼女はきっと、アルテスタと一緒にいたから巻き込まれた。恨みはなかったのだろうか。
いや、もしセシリアに恨まれたら、アルテスタはどこまでも浮かばれない。
メンフィスは、アルバートの言葉に首を傾げた。
「何言ってる。あれは、今の話を捏造したものだ」
「は?」
「事実は、今俺が話した方だ。童話は、子どもを楽しませるためのものだからな。不自然なくらい綺麗に整えられているのが当たり前だ」
今の話が、事実なのか。数多くの犠牲に埋もれて、抹消された物語。
アルテスタもセシリアも、この国の礎にされた。挙げ句の果てに真実をねじ曲げられ、美談に仕立て上げられてしまった。
リビングの暖炉には、再び火が入れられていた。
温かみのある光に照らされて、室内の影が踊る。不規則に揺れる影を見つめていると、泥のような眠気が脳内を満たしていった。
ローシャも、時折頭を傾がせている。
メンフィスが、部屋の隅に座り込んでいた男を見やった。初めは所在なげに周囲を見回していたが、今は空気のように部屋に溶け込んでいる。
彼とメンフィスとナシュヴィルは、眠気一つ感じていないらしい。少なくとも、表情にその気配はなかった。
男はうろうろと視線を彷徨わせてから、観念したように口を開く。
「ベノムは、知っているのか」
「しってるよ」
ぱちりと目を開き、ローシャが答えた。男は一つ頷く。
「ベノムは、記憶の残り滓だ。石にされた人間の思考が、往生際悪く残ってこうなった。全員がそうなるわけじゃないが、恨みが強ければ強いほど、毒になる確率は高い」
淡々とした口調の中に、苦虫を噛み潰したような響きがあった。
話の流れは明らかに不吉な方へ進んでいた。
いくら世間を知らなくてもわかる。恨みが強ければ、ベノムになりやすい。その台詞の前にあった、アルテスタとセシリアの話。
「アルテスタは、ベノムだ。人を襲うベノムの筆頭になった」
「……人を襲わないベノムもいるのか?」
アルバートは首を傾げる。
男の言い方は、明らかに違う可能性を示唆していた。
彼はまた視線をふらつかせて、最終的にメンフィスを見つめる。しかし縋るような目を向けられても、メンフィスは反応を示さなかった。
暫し凝視した後、諦めたように息を吐く。
「そう。今、ベノムは二分されてる。人を襲って記憶を貪る連中と、何もせずに引きこもってる奴と。見た目は変わらないけど」
ベノムには、理性があるのだろうか。
理性を持って、人間を襲っているのか。
背筋が粟立った。あの赤い蛇たちが、狂っていると言われた方がまだましだった。理性も何もかもかなぐり捨てて、本能のまま目の前の餌に食らいついている。
ただ、実際はそうではなかった。彼らには意志があって、自ら人を襲っているのだ。そうでなければ、ベノムが二分されるわけがない。
「おなかすいてるの?」
薄暗い空間で、ローシャの声が響く。
アルバートと男は、揃って首を傾げた。
ナシュヴィルは暖炉の前に座り込んで、火を眺めている。黒い瞳の中で、オレンジ色の炎が揺れていた。
「おなかすいてるから、たべるんじゃないの?」
記憶を、という意味だ。おそらく。
それは、ローシャの素朴な疑問なのだろう。物はともかく、食べるということは空腹だということ。確かに、当たり前のことではある。
が、男は力なく首を横に振った。
「違う。奴らはただ、思い知らせてやりたいだけだ。人間の記憶を食う化け物がいる。それを生み出したのは、他でもないお前たちだ。これは、お前らの罪だ。
子どもと同じなんだ。嫌がらせをされたから、それ以上の仕返しをしたいだけ、で」
ぶつりと言葉が切れる。
男は項垂れ、途方に暮れたようにまたメンフィスを見やった。
アルバートは、ふと疑問を抱く。
この男は何故、そんなことを知っているのか。
メンフィスが、童話の元となった話を知っているのは何故なのか。彼が語った内容は、きっとそこらの人間が知るものではない。
おそらく、上層の人間にひた隠しにされてきたものではないのか。
不意に、メンフィスと目が合った。暗がりに立つ彼の、紫色の目が輝く。暖かな暖炉の近くにいても、怜悧な光は微塵も和らがない。
「俺たちは、人じゃない」
びくりと男が震えた。
「……は?」
アルバートはぽかんと口を開ける。
人じゃない。人間ではない?
ローシャは意味がわからないらしく、メンフィスとアルバートを交互に見つめる。
どくり、どくりと心臓が耳障りな音を立てた。
思考がもつれる。考えが全く纏まらない。疑問符が頭の中を高速で飛び交い、軽く吐き気がした。
混乱するアルバートを一瞥して、メンフィスは不意に口角を吊り上げた。いかにも愉快そうな、彼にしては珍しい表情だ。
というか、少なくともアルバートは初めて見た。
「冗談だ。そんなわけがないだろう」
頭の回転が、軋んで急停止する。
固まったアルバートの横で、ローシャが小首を傾げた。
「じょーだん、って、なに?」
「嘘だ」
「うそ? うそはだめだよ、ふーちゃん。わるいこのはじまり、だよ」
辿々しく窘める彼女を余所に、アルバートは脱力した。一気に気が抜けた。
メンフィスが冗談を口にしたことも驚きだが、話の流れ的にとても嘘とは思えなかった。大体、この二人が真実を知っている理由は相変わらず不明のまま。
驚愕で一度弾け飛んだ眠気が、また戻ってくる。
もう真夜中なのだろう。ここには時計がないが、それでも体は睡眠を欲していた。ただでさえ、ここまで午前中いっぱい馬車に揺られてきたのだ。
慣れない遠出で、確実に疲れが溜まっていた。
「まあ、偽物であることに変わりはないけどな」
ほとんど瞼が閉じかけているせいか、メンフィスの声だけがいやに鮮明だった。
自嘲するような声音が、頭に染み込む。
闇に浸りながら、ぼんやりと耳を傾けた。
「本物は、とっくの昔に死んだ。ここにいるのは、単なる張りぼて。体裁を繕うための駒だ。
人間は、本当にわけがわからない。何の意味もないことに必死になって、勝手に泣くんだから。偽物を用意して、ばれたときのことは考えていないんだな」
メンフィスの言葉の大半が、頭をすり抜けていく。
「しんじゃったの?」
「ああ。病気だったらしい。もう治らない病気で、そいつの親がわざわざ頼みにきた。
しかし、まさか人間がやってきて息子の代わりになってくれと言ってくるとは思わなかったな。さすがに、想像もできなかった。
本人の方が、ずっと冷静だったよ」
「こまったね」
「そうだな。あれはさすがに困ったな」
がくん、と頭が傾いだ。ふわふわと、頭の中に綿雲のような靄が広がる。
ふと、会話が途切れた。
ぱちぱちと、薪が爆ぜる音が聞こえる。
「アル、ねむいの?」
反射的に頷く。もう、目を開けているのも辛い。
呆れたような溜め息が一つ落ちた。
「眠いなら、さっさと部屋に戻れ。明日は早い。温存しておくに越したことはない」
確かにそうだ。また、半日かけてミルニールに戻らなければならない。
早めに眠って、体力回復に努めるべきだ。
「……うん。俺、もう寝る」
「じゃあ、わたしもねる!」
ローシャが立ち上がり、アルバートの手を取った。
引っ張られて何とか腰を上げる。ローシャは眠気など一切感じていないようで、鼻歌を歌っていた。
彼女に手を引かれるまま、アルバートはリビングを出る。暖炉から隔絶された廊下は、驚くほど寒い。息が白く凍るのではないかと思えるくらいだ。
メンフィスの言葉の断片が、脳内に薄く貼り付いている。覚えていようとは思うのだが、如何せん眠い。
何故、こんなに急に眠くなったのだろう。
疑問も、あっという間に眠気にまみれた。
「ローシャ」
呼びかけると、ローシャはすぐ振り返った。
不思議そうな顔で、首を傾げる。
「今日の、メンフィスの話、なんだけど」
「うん」
「できるだけ、覚えといて。俺、たぶん明日になったら、忘れてると思う、から」
ローシャの顔が、ぱっと輝いた。
右手を、握ったアルバートの手ごと振り回す。
「おねがい? おねがい?」
「うん、お願い」
「わかった! ちゃんとおぼえてる!」
ぶんぶん首を縦に振ると、ローシャは弾んだ足取りで歩き始めた。
ふーちゃんはにせもの、と歌う。
ふーちゃんはにせもの、ほんものはしんだ。びょーきでしんだ。にんげんは、へん。
鼻歌が、右から左に抜けていく。
ローシャは、ちゃんと覚えていてくれるだろうか。
あまりに楽しげな様子に、一瞬不安がこみ上げる。でも、ローシャなら大丈夫だろう。何だかんだで、記憶力はいいのだ。
ふ、と溜め息が漏れる。
眠い。色々と考えたいこともあるし、考えなければならないこともある。それなのに、今は眠い。
粘っこい眠気が纏わりついてきて、それを振り払うことができなかった。
ローシャに連れられて部屋に入る。冷えた空気が、鼻の奥に突き刺さった。ごつり、と靴底が床を鳴らす。
「アル、ねんねこ。ねんねこだよ」
布団を叩く音がして、アルバートは反射的にベッドに寝転がった。
シーツは少しだけかび臭い。僅かな臭気の中に、日の光の匂いが混じっている。思わず、深く息を吸い込んだ。
ふと、記憶が蘇る。
中層にいた頃、母親はよく布団を干していた。何故そうするのか尋ねると、この方がよく眠れるでしょうと仏頂面で言われた。
確かにお日様の匂いは安心する。心が奥底から安らぐのを実感できた。布団にくるまると、自然と顔が綻ぶ。
何故、今更思い出すのだろう。
「ねんね、ねんね」
ゆったりとしたリズムで頭を叩かれて、アルバートは目を閉じる。
眠りに落ちる瞬間に思い出したのは、やはり母親のいかにも無愛想な表情だった。