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男だ。男が二人。
アルバートは反射的に息を潜めて、耳をそばだてる。
会話している当人たちは特に声を潜めているわけではないらしい。
アルバートは木立のすぐそばでしゃがみ込む。すかさずローシャも真似をした。
「奴らはまだ、諦めていないのか」
その声音は、あくまで淡々としていた。だからこそ、色濃い諦観が漂っている。
どうしようもない壁にぶち当たって、全てを放棄して、何かから身を隠している。
メンフィスの声ではなかった。なのに、どこか似通っているような気もする。
悪く言えば、棒読みなのだ。メンフィスはまだましな方だが、この声は酷かった。
声の中に太い芯が一本通っていて、それの存在感が凄まじい。
「諦める気はないだろうな。そんな程度の覚悟なら、今頃まだここにいる。不愉快な話し合いもしなくて済んだ」
「……俺には、理解できない」
「理解されても困る。“セシリア”が、これ以上胃を痛める必要はないだろう」
セシリア。
台本を読み上げるように続く会話に、不意に聞き覚えのある単語が紛れ込んだ。
一体、彼らは何の話をしているのだろう。
知らない男と、メンフィスの会話。
アルバートは困惑したまま、ナシュヴィルを見やる。
が、当の彼は自分の役目は終わったとばかりにぼんやり佇んでいた。
「……ナシュヴィル」
声を潜めて呼びかける。ナシュヴィルは、じっと木立の中を見つめていた。
おそらくは、メンフィスたちがいる方向だ。
そもそもこの会話は、聞いていてもいいのか。
「ふーちゃん、こわいこえになってる」
ローシャが怯えたように身を震わせた。
理解できないと言った男は、きっと無表情だ。そう思わせるような声音だった。
「セシリアは、奴を止められなかったことを悔やんでいる。あいつのせいで、この状況が加速した。逆効果だったんだ、あの反逆は」
声は、言葉に反して平坦だった。メンフィスは黙っている。
アルバートはただ、彼らの会話を聞いていることしかできない。何か重要なことを口走っているのはわかるが、情報が断片的すぎた。
風が木々を揺らす。昼間も寒かったが、夜はもっと冷えた。充満する闇自体が、氷のように冷たい。
気付けば、がたがたと体が震えていた。ローシャも同じなのか、思い出したように手を握ってくる。その手も震えていた。
「あいつは、セシリアのためだと言っていた。でも、俺にはそう思えない。あいつは、ただ自分のために復讐したいだけだろう。
石が過剰に作られ始めたのはどう考えても、アルテスタ、の」
不意に、男の声が途切れた。
風が鳴く。体を芯から冷やそうとするかのような、冷え切った風だった。
「ナシュヴィル。何でその二人を連れてきた」
喉の奥から、押し潰したような悲鳴が漏れた。ローシャがしがみついてくる。
いつの間にか、目の前にメンフィスが立っていた。
藪を踏み分けてきたはずなのに、全く物音がしなかった。夜風に長髪を靡かせて、眉根を微かに寄せている。
普段無表情の人間が眉を潜めるだけで、何故こんなに怒っているように見えるのだろう。心臓の辺りが竦む。
全く動じていないのは、ナシュヴィルだけだ。
「迷子」
ぽつりと落とされた言葉に、三人は首を傾げる。
「迷子かもしれなかった、から」
確かに、ローシャはメンフィスが迷子になったかもしれない、と言っていたが。だからみんなで探しにきた、と言いたいのか。
メンフィスの眉間の皺が、さらに深くなる。
ナシュヴィルは、良くも悪くも素直なのだ。そういう意味では、ローシャとよく似ている。
この二人はきっと、どんな冗談でも本気にするだろう。
メンフィスは暫くナシュヴィルを睨んでいたが、やがて諦めたように息を吐いた。何を言っても無駄だということは、彼が一番理解している。
気まずい。
アルバートはナシュヴィルに付いてきたことを後悔していたが、今更何をしても同じだ。恐る恐る、口を開く。
「セシリアって、誰だ? いつも、俺たちが話してるセシリアじゃ、ないよな」
メンフィスが目を眇める。ただでさえ鋭い目が、磨き抜かれた刃のように光った。
凪いだ湖の底で、得体の知れない生物が身を潜めている。あまりにも恐ろしくて、アルバートは全く視線を合わせられなかった。
下手に怒鳴り散らす人間より、内にため込む人間の方がずっと怖い。
静かに怒気を立ち上らせるメンフィスに、ローシャも完全に怯えていた。ぴったりと密着した体が、小刻みに震えている。
ざわ、と木々が騒ぐ。下生えが一斉に揺れる。
「本当に、知りたいのか」
メンフィスの声は、どこか遠かった。
木々のざわめきに半ば掻き消されているのに、それでも頭にねじ込まれる。
本当のこと。真実は、時に人の心を切り刻む。
散々切り裂かれて血を吹き零した心に、まだ血液は残っているのだろうか。血がなくなれば、人は死んでしまうのに。
自ら問いかけておきながら、アルバートは後込みした。
普段当然のように使っていた石は、人の記憶を強奪して作られたものだった。記憶を守りきったと思ったら、腹に石を押し込められた。
これ以上、真実を知ってどうなるのだろう。
知ったところで、無力な自分には何もできないのに。
寒い。ぶるりと身震いしても、体は全く温まらなかった。気休めにすらならない。
しがみついているローシャは、いつの間にか震えが止まっている。
それで、何となく心が固まった。
唾を飲み込む。乾いた口の中で無理矢理そうしたものだから、喉が痛くなった。
「知りたい。教えてくれ」
メンフィスは、呆れたような息を吐く。
彼の隣にいた男も、呆気に取られたように目を見開いた。やたらと細い茶髪が、夜風で揺れる。たじろいだように後退さった。
馬鹿な奴だと思われているだろう。自分でもそう思う。
怖いなら、目を背けてしまった方がよほど楽だ。けれど逃げてばかりでは何も変わらない。
ローシャの石を探すのだ。そのためには、些細なことでも目を逸らしてはならない、と思う。
少なくとも、大口を叩いたからには努力しなければ。
「一旦家に戻る。風邪でも引かれたら面倒だ」
素っ気なく言い捨てて、メンフィスは木立から抜け出した。やたらと歩調が速い。ずかずかと、少しの躊躇もなく畑に踏み込む。
苛立っているのは明らかで、アルバートはまた身が竦むような感覚を味わった。
慌てたように、茶髪の男も続く。表情はなかったが、動作は明らかに慌ただしかった。
一体どうしろというのか。
でも、知りたいものは知りたいのだ。
身を炙られるような心持ちのまま、アルバートは歩き続けた。いつの間にか、気温とは関係なく冷や汗をかいていた。