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国の西側には、広大な森がある。
森の中には昔から原住民族が住んでいるとも言われているが、大半の人間にはとことん縁遠い場所だ。原住民の存在も、単なる噂の一つかもしれない。
その森のほど近く。
いくつも風車の回る、小さな村があった。
スプレストカーパス、という。しかしあまりにも長いため、誰もがスプレストと略称で呼んでいた。
村の中は、いつも古びた風車の羽が軋む音で満ちていた。人より風車の存在感が圧倒的に強い。
小麦を挽いてパンを作り、少ないそれらを出荷して生計を立てる。家畜から穫れる卵や肉なども加わる。
しかし、基本的には村の中だけで完結している場所だ。余所から見れば心配になるくらい、自給自足を地で行く。
風車の合間を縫うように、畑が広がっていた。疎らに人影が見える。
そんな中、男が一人、青々と茂った畑の中に立っていた。しげしげと、足下の若干萎びた草を見つめている。
長めの茶髪が、風に合わせて揺れた。
男はふと思いついたように、腰を屈めて草を掴んだ。引っ張ると、根の先には大量の芋がくっついていた。
明らかに重量がありそうだが、男は特に苦戦する様子もなく芋を目元まで持ち上げる。
今年も、野菜は豊作だ。どの畑も、収穫された野菜が山になっている。
特にこだわりも工夫もないのだが、この村では毎年秋には驚くほど野菜が実る。
どこの畑も、収穫した野菜で溢れ返っていた。時折、子どもたちの歓声が響く。
男は一人、野菜を避けて走る子どもを目で追った。
目で追いつつ、芋を抜く。抜いては端に積み上げて、どんどん進む。
風は冷たい。スプレストは、そもそも一年中涼しいのだ。夏は過ごしやすい分、冬の寒さは厳しい。
冬は皆家にこもって、保存食を消費しながら細々と暮らす。
そろそろ、保存食を作らなければならない。怠けた者は、それだけの見返りを受けるのだ。
男はふと、空を見上げた。
薄い水色。刷毛を引いたような、微かな雲。
この村では、下界のことなど関係ない。日々の暮らしで精一杯だからだ。精一杯とは言っても、とんでもなく切迫しているわけではないのだが。
子どもたちが風を切り、時折野菜を手に持って走る。
ずっとここにいればいい。ここで野菜を作って、保存食を作って、時には失敗して、その繰り返しで構わない。
失敗したら、反省して次に生かせばいい。
しかし、“人”は何故かそれができないのだ。
大きすぎる過ちを犯しても、誰一人として省みない。いらないがらくたばかりを拾い集めて、本当に必要なものが彼らには見えない。
男は手を止めて、首を傾げる。
外では元々ここにいた連中が色々やっているようだが、スプレストにいれば関係ない。
少なくとも、自分には。自分たちには。
ふと周囲を見回すと、同じように空を見上げている者が幾人もいた。皆、同じ表情を切り抜いて張り付けたような無表情だった。
寒い寒いと、子どもたちが甲高い声を上げる。
確かに、寒い、かもしれない。
男は二の腕を擦ってみる。人間たちはよくこうしているが、温まるような気がしない。
ざわざわと、周囲の木々が騒ぐ。引き抜かれた野菜の葉が、風に弄ばれる。
「……さむ、い」
呟くと、声が掠れた。
風に流される雲を眺めていると、何故か不安になる。
男はまた首を傾げて、野菜を抜く作業に没頭し始めた。
馬車の荷台から降りると、ぐらぐらと足が揺れた。
「わー、ぐらぐらする」
ローシャがすぐ後ろで、楽しそうな声を上げた。
何時間も馬車に乗っていたのだから、当たり前と言えば当たり前だ。尻が痛くてしょうがない。
後から、メンフィスとナシュヴィルも降りてくる。
スプレストカーパス、という村があることを教えてきたのは、メンフィスだった。
最近彼は気まぐれにやってきては、少しだけ話して去っていく。時には菓子やパンを携えてくることもあった。
癖にならないよう、ローシャにはあえて時間をおいて食べさせている。そうしなければ、メンフィスに延々とおやつを強請りそうだからだ。
「ぐるぐるーぐるぐるー」
ローシャが空を指さす。正確には、巨大な──あれは、何だろう。
アルバートは首を傾げる。
大きな羽が、四枚。それがずんぐりとした塔にくっついて、ぐるぐる回っている。木でできた羽が回る度に、盛大に軋む音が響いた。
ぎしり、ぎしりと、のどかな音が。その音色に、不穏さは欠片も見られない。
家の階段が軋む音には、あれだけ不安を掻き立てられたというのに。
巨大な塔が、村の中にいくつも建っていた。
ぐるぐる、ぎしぎし、人っ子一人見当たらない村は、賑やかだ。
塔の合間を縫うように、地面が広がっている。剥き出しの地面だ。濃い茶色。綺麗に均されておらず、でこぼこしている。
地面の中でも、足跡が大量に残っている箇所があった。そこが道の代わり、なのだろう。おそらく。
道を逸れた地面には、枯れかけた草が落ちていた。草だけだ。乱雑に掘り起こされたような土の中に、時折色褪せた緑が見える。
「あれ、は?」
ローシャと同じように、アルバートも塔を指さした。
わからない。あんなものは、ミルニールにはなかった。
きょろきょろと周囲を見回しているのは、ナシュヴィルも同じだ。そうなると、答えられるのは一人しかいない。
メンフィスが、無表情のまま肩を竦める。
「あれは、風車だ」
「ふーしゃ!」
「風車?」
「風を受けて、見ての通り羽が回る。その動力を使って、塔の中で小麦を挽いている」
小麦をひく。小麦は、パンになるものだ。しかし、小麦をひくとはどういう意味なのだろう。
疑問が顔に出ていたのか、メンフィスが再び口を開いた。
「パンを作るには、小麦を挽いて小麦粉にする必要がある。それを、あの風車が人の代わりにやっている。それ以外にも、色々と利用しているらしいな」
あのぐるぐる回る羽が、パンを作るのか。
アルバートは、ぽかんと口を開けた。
説明されても、想像が追いつかない。ただの飾りにしか見えないが、飾りにしても巨大すぎた。
──本当に。
アルバートは呆然としたまま、足下の萎びた葉を眺める。
本当にこの村では、一切石を使っていないのだろうか。
見慣れない光景に圧倒される三人を余所に、メンフィスは先に立って歩き始める。
「帰りは明日とはいえ、時間を無駄にする理由もない。さっさと歩け」
アルバートは慌てて駆け出した。ローシャも歓声を上げて付いてくる。
村の中には、木造の家がいくつかあった。
さり気なく触れてみると、家の前に生えていた木と同じ感触がした。
乾いているような、湿っているような。不思議な感触だった。
木ではあるのだろう。しかしこの家は──まるで、生きているようだ。少なくとも、あの偽物の理想郷に生えていた木々とは別物だ。
あそこにあったのは、単なる記号としてのものだ。町を町らしくするための、単純な演出。
一件に一本。例外は認められていなかったし、それを求める人間もいなかった。
この木は、ちゃんと生きるために使われているのだ。ミルニールにあった、家という名のフラスコとは違う。
生きるために建てられた家は、まだ生きている。
それはきっと、当たり前のことなのだろう。そんなことを、今までずっと知らなかった。
剥き出しの地面には、僅かに靴が食い込む。そっと足を下ろしても、必ず足跡が残った。
森を切り開いて、スプレストは作られた。だから、どこを見ても必ず木が目に入る。
青々と葉を茂らせ、空へ向かって枝を伸ばす。ぎっしりと身を寄せ合うように立ち並ぶ姿には、ただただ圧倒された。
怖いくらいに、彼らは生命力を発している。
四人は案内もなく、ただ村の中を歩き回った。
木で作られた家に、灰色の石で囲まれた穴。井戸というらしいそれを覗き込むと、暗がりで一瞬水面が光った。
周囲を木立で囲まれているのに、村の中は冷たい風が常に吹いていた。
アルバートは思わず首を縮める。ローシャは何度もくしゃみをしていた。ナシュヴィルでさえも、いつもの黒いぼろ布に体を埋めるように小さくなっている。
平然としているのは、メンフィスだけだった。
白髪に近い銀髪を靡かせ、村の中をくまなく歩き回る。その足取りは、全く淀みがない。案内人など端から必要なかったのだ。
背筋を伸ばして大股に歩く、その姿はどこか楽しげだった。表情は、相変わらず皆無なのだが。
「メンフィス」
呼びかけると、すぐに振り向く。
凍ったような無表情も、今日はどこか柔らかい。
十割凍っていたうち、一割くらいは溶けている、かもしれない。
「ここは、あんたの……生まれた、ところ?」
人が生まれ育った場所を、故郷というのだという。
昔、授業で習った。後から他の町に移り住むことはできるけれど、生まれた場所だけは絶対に変えられない。時には、それ自体が一種のブランドになることもある。
だから、理想郷で生まれた子どもたちは何よりも価値がある。あなたたちは、この世の誰よりも恵まれているのだと。
現実を知った今となっては、ミルニールに愛着など湧かない。怖いだけだ。
おぞましい発想を現実にしてしまった人間は、一体今どこで何をしているのか。
メンフィスは、わざとらしく口角を持ち上げた。
そうでもしなければ、表情を変えることができないのかもしれない。
「どうだろうな」
不敵な笑みというよりは、若干強張った笑みだった。
家の窓の内側で、カーテンが揺れる。揺れたような、気がした。しかし次によく見たときには、ぴくりとも動かない。
メンフィスは結局質問に答えず、アルバートは目の前に広がる光景に気を取られて尋ねたことすら忘れてしまった。
事前に村人に言い含めておいたのだろうか。村の中には人影一つない。
三人の少し後ろでナシュヴィルが僅かに首を傾げたが、誰も気付かなかった。