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神を思ってはならない  作者: 宮野香卵
第二章 赤い毒と赤い眼
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 頭の奥深くが、鋭い痛みを放った。

 少女は──セシリアは、思わず唸る。ベッドで半身を起こして、こめかみを擦った。

 彼女は今日、フードを被っていなかった。これからは、こうしてもいいかもしれない。

 ベッド脇のワゴンからケープを取って、身につけて、フードを被る。それだけの動作が億劫で仕方ない。

 安っぽい深海のような部屋は、時が止まったように静かだった。時折、天井から吊り下げられたプレートがちゃりちゃりと音を立てる。

 空調が完璧な証拠だ。このイルカやクジラは、雰囲気作りのためだけに存在しているわけではない。

「……悪そうだな」

「そうでもないよ。今日はいつもより調子いいくらい」

 セシリアは苦笑する。

 メンフィスは、見た目や態度に反して律儀だ。忙しいはずなのに、辞退しているのに、いつも勝手にここにやってくる。

 美味しいお菓子も綺麗な花も貰えない。セシリアは、それで良かった。

 十分だ。自分は十分すぎるくらい恵まれている。

 この世には、何も知らないまま搾取される人間が大勢いるのだ。彼女はそれを、痛いくらい知っていた。

 セシリアは肩を竦めて、布団の端をいじる。

 少なくともメンフィスは、今この場にいていい人間ではない。安易に外出して、どこかに弱みを握られれば非常に困るのだ。

 メンフィスが気にしなくても、周りがぎゃいぎゃい騒ぎ立てる。

 しかし彼は、あまりに淡泊だ。一応、大貴族の跡取りなのに。それどころか、その立場は王族の一角すら狙える位置である。

 貴族の大半が、喉から手が出るほど欲しい立ち位置。

 一切に興味がないメンフィスは、それでも家を出る気配がない。基本的には流されながら、最低限のことはそつなくこなす。

 彼もまた、縛られているのだ。縛られることを選んだ。セシリアからすると、その思考はよくわからない。

 自由であったはずなのに、何故それを捨ててしまったのだろう。

 自分から檻に入る、その発想が信じられない。

「君が来る前にさ、みんなと話してたんだけど」

 壁にもたれ掛かったまま、メンフィスが首を傾げる。

 頭痛を誤魔化すように、セシリアは口を開いた。

「ローシャがベノムに取り憑かれちゃってさ。それで、アルバートが石を探したい、って言い出しちゃって」

「ローシャの石か」

「うん。どうしても探したいらしいんだよね。無理だよ、って何度も言ったんだけど全然聞いてくれなくて」

 アルバートは、きっと諦めない。

 下層にいる今、ほとんどできることはないだろう。しかし、だからこそ無理をする可能性もある。

 正直、セシリアはアルバートのことをあまり知らない。

 それでも、わかることがある。彼は不安定だ。

 急に突っ込むこともあれば、ぐるぐる悩んでいることもある、らしい。

 ナシュヴィルからの報告は、端的であるからこそ要点が纏まっている。会ったことのない人間でも、何となく全体像なら掴むことができた。

 不安定な傾向が強いのは、石のせいだとも判断できる。

 記憶をぎりぎり守りきったところで、体に石を入れられた。確率的な観点で言うなら、その時点で死んでいてもおかしくなかった。

 子どもの体に石を入れる。

 腐った計画は、まだ上層で蠢いている。研究所の一つや二つ潰したところで、奴らは諦めない。

 一応情報は集めているが、成功例は果たして増えているのか。アルバートはやたらに遭遇率が高いようなので、彼にもう何人か人を付けておいた方がいいだろうか。

 思考に耽っていると、ふと気配が動いた。濃い紫色の双眸が、じっとこちらに注がれている。

「……いいのか、言わなくて」

 珍しいことだった。メンフィスが、誰かに何かを尋ねるのは。

 セシリアは、思わず笑みを浮かべる。

 ほんの少し、頭痛が和らいだような気がした。

 病人にとって、笑うことは大事なのだという。口を酸っぱくして言われているが、何の娯楽もない狭い世界で心から笑うのは難しい。

「いいんだよ。知らなくていいこと、この世界にはいっぱいあるんだから」

「あいつは、納得しない」

「だって、可哀想でしょ。散々嫌な目に遭ったんだから、少しくらい優遇されたっていいはずだよ。本当はさ、こんな町じゃなくて、もっと他の町で生まれてたら人並みに幸せだったかもしれないのにね」

 ミルニールで生まれた人間は、生まれたその瞬間から燃料としての運命を定められている。他の町で生まれれば、間違いを起こさない限りミルニールに来ることはない。

 この町は、理想郷などではないのだ。ただ単に、頂点と底辺を厳密に色分けしたエネルギープラント。

 腐っている。この町は腐っているのに、歯痒いくらい誰も気付かない。

 それだけ、上の連中の隠蔽が巧妙だということだ。

 そもそも、何かが腐るのは大抵内側からだけれど。気付いたときには、いつも遅い。手遅れなのだ。

 ──本当なら、アルバートはもう自分たちに関わらない方がいいのだろう。

 せっかく運良く、記憶を奪われずに済んだのだ。そんな例外など未だかつて一度もなかった。少なくとも、一通り情報を収集した限りでは。

 だから、自由にするべきなのだ。自由になるべき人間なのに。

 結果的にローシャを押し付けてしまったのは、確かにナシュヴィル一人では不安だったのもある。

 しかし、きっと自分はどこかで嫉妬していた。

 選択肢によっては全てのしがらみから解放されるはずだった彼を、無理矢理縛り付けた。恐ろしい出来事の連続で弱った人間の心につけ込んだ。

 頭の奥から、じわじわと痛みが湧き出てくる。

 処置を受けてから、心より頭が真っ先に反応するようになった。

 自ら選んだことだし、後悔はしない。

 そうしなければならなかった。そうしなければ、今頃現実に耐えきれなかった。

 セシリアは、口元に嘲るような笑みを刻む。

 自分は、上層の連中と何も変わらない。幸せだったはずの人間たちを、どん底に引きずり込むという意味では。

 いつか、謝らなければならない。

“石”がこの頭を砕いてしまう前に。

「メンフィスも、言っちゃ駄目だよ。……言ったって、どうにかなる問題じゃないんだもん」

 そう、悪いのはアルバートではない。

 彼を取り巻く全てが悪かった。全てが裏目に出て、頼れるものも何もなかった。あの状況で、アルバートは与えられる運命を拒むことなどできなかったのだ。

 メンフィスは、これまた珍しく不満げな気配を漂わせていた。

 表情自体にほとんど変化はない。しかしどこか釈然としないらしく、微かに眉根が寄っている。

 それでも、どうしようもないはずだ。

 一度石を入れられた人間は、体内に石が癒着してしまう。石は命と直結し、体内のエネルギーを増幅させる。

 しかし取り出した瞬間、その人間は死ぬ。

 腐った実験で証明された、それは純然たる事実だ。

 もうどうしようもない。どれだけ後悔しても、過ぎ去ってしまったものを取り戻すことはできない。

「メンフィス? ほんとに言っちゃ駄目だからね。アルバートが……もし、自分で気付いちゃったら、そのときはもうしょうがないけど」

 ぽつり、とセシリアは零す。

 深海のように真っ青な部屋は、気分を落ち着かせるための配色だ。しかし、時にはそれで気が滅入ることもある。

 それこそ、底の見えない海の底へ沈むように、気分がゆるゆると落ちていくのだ。そうなってしまったら、どれだけもがいても浮かぶことはない。

 ただ、浮かんだふりをすることはできる。

 セシリアは、海に行ったことがない。それどころか、まともに外出したことすらない。

 けれど、息ができないのは絶対に苦しいはずだ。

 そんな死に方は、できればしたくない。溺れ死ぬことは、きっと病で死ぬことに似ている。

 死を恐れているわけではない、と思う。

 最期くらいは、眠るように死にたい。苦しまない方が絶対いいに決まっている。

 メンフィスは、じっと押し黙っていた。相変わらず、何を考えているのかわからない。

 彼は一見、男のように見えない。

 銀髪も、澄んだ紫水晶の瞳も、まるで作り物のようだ。美術館辺りに突っ立っていたら、皆大いに戸惑うだろう。

 それくらいメンフィスの容姿は整っている。性格はともかく、顔目当てで結婚したいという女が山ほどいるらしい。

 大人は、大変だ。子どもだって色々考えてはいるけれど、彼らほど面倒事を抱えているわけではない。

「あいつが、気が付くまで、か」

「うん。気が付くまで」

 セシリアは頷く。メンフィスは一つ息を吐く。

 どちらに転んでも酷なら、せめて今だけでも楽しい方がいい。

 結局、メンフィスはろくな返事を寄越さないまま出て行った。答えなんて出ない。わかってはいるけれど、ほんの少しだけ寂しかった。

 ドアが閉まった瞬間、微かな金属音が聞こえる。

 自動で鍵がかかるのだ。体がろくに動かない人間に、とにかく優しい部屋である。

 セシリアは薄い布団に潜り込んだ。

 布団からは、微かに汗の臭いがする。そろそろ、家政婦が洗濯物を回収しに来るはずだ。

 そのときに、いつも壁際にかかっているカレンダーに印を付けていく。消費した一日が、赤い丸で囲まれるのだ。

 一月が三十日で、それが十二ヶ月。

 一年一年、セシリアにとって、時間とは浪費されていくものだ。

 自分がただ消費した一日は、誰かが血反吐を吐き這い蹲ってでも欲しかった時間だったのではないか。

 セシリアは、延命という点においては極めて恵まれた環境にあった。

 気味が悪いくらい恵まれていた。そんなものより、もっと欲しいものがあったのに。

 布団を握り締める。そうしたつもりだったのに、ろくに力を込めることもできない。

 胸の奥から、乾いたような笑みが漏れた。

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