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神を思ってはならない  作者: 宮野香卵
第二章 赤い毒と赤い眼
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「……あ、う?」

 ローシャの目が、開いていた。声も、掠れきってはいたが彼女のものだ。

 薄く開いた双眸は、確かに空色だった。

「ローシャ」

 アルバートは呆然と、彼女の頬を摘んだまま呟く。

 虚ろな目が、ふらふらと宙を彷徨った。どこを見ているのか、よくわからない。

 室内をぐるりと見回して、視線がまたアルバートの元に戻ってくる。

 沈黙が、怖い。

「ローシャ?」

 堪えきれず、名前を呼んだ。きっと、縋るような声音になっているだろう。

 頼むから、覚えていてほしい。

 自分ではなくても、ナシュヴィルやセシリアのことを覚えていてくれればそれでいい。

 摘んでいた指を離して、恐る恐る頬を撫でる。

 ローシャの目が、頼りなげに揺れた。

「あ、る」

 思わず肩が跳ねた。アルバートは、まじまじとローシャの目を覗き込む。

 今、名前を、呼ばれたような。

「……ローシャ?」

「な、に?」

 恐る恐る呼びかけると、確かに返事があった。

 心の底から溜め息を吐きたくなる。安堵が胸の内に溢れ返って、そのまま零れてしまいそうだ。

 覚えているのか。

 オルゴールの方から、微かに衣擦れが聞こえた。

『ローシャ、気分はどう? 気持ち悪くない?』

「だ、い、じょぶ。でも、おなか、すいた」

 掠れた声だったが、単純に一週間飲み食いをしていないからだろう。喉が弱り切っているのだ。

 水でも用意しておけば良かった。

 自分の不手際に舌打ちしたくなった瞬間、背後から腕が伸びた。その手にあったのは、ローシャがいつも使っているマグカップだ。

 白地に赤いリンゴの模様が描かれている。

「しー、ちゃ?」

「水」

 マグカップが揺れると、ちゃぷちゃぷと水音がした。

 ナシュヴィルは、妙なところで気が利くらしい。

 ローシャが、震える手を伸ばす。そもそも、寝転がったままで水は飲めないだろう。

 体を起こすために背中に触れると、異様なくらい薄かった。異性の体格を指して薄い、というのは、かなり失礼なことなのかもしれない。

 しかし、すっかり痩せ細った彼女に対しては、薄いという表現しか思い付かなかった。

 半身を起こしたローシャが、マグカップを両手で包む。そのまま一気に傾けようとしたので、アルバートは慌てて止めた。

「ローシャ、ゆっくりでいいから。噎せたら苦しいぞ」

 こくこくと頷き、ローシャが今度は徐々にカップを傾ける。喉がゆっくりと上下しているのが見えた。

 その様子を見守りながら、アルバートは胸を撫で下ろす。

 どうやら、ナシュヴィルのこともセシリアのことも覚えているようだ。少なくとも、普通に反応していた。

 本当に良かった。

 同時に、やはり石を取り戻さなければ、と思う。

 ローシャの記憶を完全に修復できなければ、何度でも同じ恐怖がやってくる。ベノムに取り憑かれて、狂ったように人を襲うのだ。

 あのときは、誰もそばにいなかったから何とかなった。暴れたのはベノムで、荷物や馬車が半壊したのもベノムのせい。

 一週間前にはそう言い訳して、商隊の人間も誰一人疑っていなかった。

 あれはローシャの──正確には、彼女に取り憑いたベノムのせいだ。しかし、傍目には彼女が黄金色の蛇をけしかけているようにしか見えなかっただろう。

 あんなことがまたあって、ローシャが責められるような事態が起こってはならない。

 ローシャはベッドで半身を起こして、ナシュヴィルに差し出されたパンをかじっている。今日の丸パンは、ちゃんと歯が通る固さらしい。

 ナシュヴィルは、やたらと固い食べ物を好んでいるようなのだ。

 ここへ来たばかりの頃は、かちかちのパンに小一時間舐めていないと味がわからない干し肉ばかり食べていた。

 ナシュヴィルがセシリアに叱られて、ようやく柔らかい食べ物も持ってくるようになったのだ。

 新鮮な食べ物はないけれど、少なくとも空腹に耐えられなくなるようなことはない。

 ベッドのそばには、ナシュヴィルが浅いかごを持って控えている。かごの中には、リンゴが詰め込まれていた。

 傷んでいるようには見えない。珍しく、綺麗なリンゴだ。赤い艶が目に眩しい。

「ローシャ、大丈夫か?」

 パンを頬張っていたローシャが、慌てて口を押さえる。

「だ、だいじょぶ。パン、おいしい」

「……それなら、いいんだけど」

「アルも、リンゴたべる?」

 ローシャの言葉に合わせて、ナシュヴィルがリンゴを一つ差し出してくる。二人分の無表情で威圧されて、アルバートはリンゴを受け取った。

 どこから調達してくるのか、ナシュヴィルが持ってくる食料は少し傷んでいるものが多い。ここは理想郷のはずなのに、下層には本当に何もないのだ。

 少し風が吹いただけで砂埃が舞う道に、生き物の死骸が散乱する。人だけでなく、犬も猫も僅かな食料を奪い合っている。

 この間、痩せ細ったネズミが彼らの取り合いで真っ二つに裂けるのを見た。裂けても血はほとんど出ず、文字通り骨と皮だけだった。

 それでも、取り合っていた犬はそれをばりばりと噛み砕き、次の餌を求めて駆けていった。

 時折、道の片隅に蹲っている人間もいる。

 犬も猫も、人間を食おうとは思わないらしい。不味いのだろうか。

「アル、リンゴたべないの?」

 ローシャとナシュヴィルは、揃ってリンゴをかじっている。パンはもう食べきったらしい。

 二人分のリンゴを噛む音が、室内に響く。無表情の二人が無言でリンゴを食べる様は、見ているだけで何となく気まずい。

 自分だけが異物で、本当はここにいてはならないのではないか。

 そもそも、普通なら記憶を奪われるはずだったのだ。記憶を奪われて、都合のいいように再教育されて、新たな燃料を生み出すための歯車にされる。

 ミルニールの中層は、ただの培養施設だ。エネルギーを効率良く循環させるための場所であって、それ以上でもそれ以下でもない。

『……じゃあ私、もう切るね。ローシャも大丈夫だったみたいだし、安心したら疲れちゃった』

「うん、わかった。ばいばい」

『みんな、体には気を付けてね。無茶しちゃ駄目だよ』

「あ、ちょ」

 まともに口を挟む暇もなく、オルゴールの白い石に点っていた光が消えた。

 結局、ローシャの石は自力で探すしかないのか。

 しかし、質のいい石は上層でしか流通していない。他の町ではどうなのだろう。

 アルバートは今のところ、カルセオラリアにしか行ったことがない。ベノムに襲撃された町や村に、援助を行うことを目的に作られた町だった。

 人々は常に忙しそうに行き交っていて、道は大量の物資で溢れ返っていた。その隙間を、人や馬が器用に通り抜けていく。

 町中には、輸送先の指示を飛ばす者と返事をする者の叫声で満ちていた。

 被害状況、復興の度合い、ベノムの出現情報。あまりの情報量に、馬車の荷台に乗っているだけなのに目が回りそうだった。

 何となくだが、あの町には石はなさそうだ。少なくとも、質のいいものは少ないだろう。

 やはり、上層か。

 リンゴをかじると、瑞々しい甘さが口の中に広がった。

 ここで食べるものは、大抵がからからに干からびている。水なしでも食べられるものは貴重だった。

 上層に行くには、どうしたらいいのだろう。

 堅固な城壁に加えて、屈強な門番まで目を光らせているのに。できることなら、穏当に侵入したいのだが。

 つるつるの白い石の壁は、到底よじ登れそうにない。

 ナシュヴィルが駆け上っていた下層への壁と違い、上層の壁は不自然なくらい磨き抜かれている。

「ねえねえアル、あそぼうよ」

 すっかり芯だけになったリンゴを弄びながら、ローシャが完全に身を起こす。まだ本調子ではなさそうだが、気力自体は取り戻したようだ。

 彼女の横で、ナシュヴィルは芯までばりばり噛み砕いている。その様子を見ていたローシャは、自分が持っていた芯も差し出した。

 ナシュヴィルがすかさず受け取って、それも同じように噛み砕く。

 アルバートは思わず、手の中にあるリンゴの芯を見つめる。

 しかし、とてもではないが食べたいとは思えなかった。もっと空腹のときなら、きっとなりふり構わずかぶりつけるのだろう。

「ねえ、アルってば」

「……え?」

「あそぼうよ。もうおなかいっぱいだから。ひまー」

 ベッドの上で、ローシャがぱたぱたと足を動かす。

 アルバートは思わず眉根を寄せた。

「でも、まだ寝てた方がいいって。ご飯もたくさん食べて、たくさん寝ないと」

「だってつまんないもん。よるごはん、まだまださきだよ。ぜんぜんくらくない」

「でも、今遊んでまたずっと遊べなくなったら、嫌だろ」

「うー……いやだ、あそびたいの。いまあそぶの!」

 ローシャが叫んで立ち上がる。しかし、立ち上がった勢いに病み上がりの体は耐えきれなかった。

「あ、え」

 痩躯が揺れる。やはり体力が尽きかけているのだ。

 アルバートは慌てて腕を伸ばした。幸い距離は近い。

 こちら側に倒れ込んできたので、椅子に座ったまま危なげなく受け止めることができた。恐ろしく軽かった。

 しかし、とアルバートは思う。首を傾げた。

 一番近かったのはナシュヴィルだ。しかも、反射神経がずば抜けている。

 にも関わらず、彼は一歩も動かなかった。リンゴの芯も食べ終わって、ぼんやりと状況を見守っている。

 不意に、ローシャがしがみついてきた。両腕に急に力が込められて、心臓が跳ねる。

「うふふ、あーそーぼー」

 一瞬、頭が真っ白になった。

 口調が、あのときを思い起こさせたのだ。ローシャの双眸が黄金色に輝き、金の蛇が荒れ狂う。

 アルバートの体が強張ったことに気付いたのか、ローシャがびくりと震えた。溢れんばかりに不安を湛えた目で見上げてくる。

 空色の瞳だった。金ではない。

「……やっぱり、あそぶのだめ?」

 心中で飽和しそうになっていた恐怖が、じわじわ溶けていく。

 ローシャだ。あのときの、恐ろしい何かではない。

 ベノムは、ここにはいない。ここは安全だ。

 ゆっくり息を吐く。反射的にローシャを振り払おうとしたことを、誤魔化すように。

 ぐいぐい引っ張られて、アルバートは我に返る。

 束の間、ここがどこだったのか失念していた。何もかもあのベノムのせいだ。何でよりによって、ローシャに取り憑いたのか。

 何だか、急に力が抜けた。一瞬どうでも良くなった。

 改めて、決意を固める。石を探そう。ローシャの石を。

 いつか、彼女が自分の記憶が失われることを恐れなくて済むように。

「……じゃあ、何して遊ぶ?」

「え、いいの!」

「いいよ、もう」

 あえて不貞腐れたような言い方をしたが、ローシャは全く気にしていない。目を輝かせてはしゃいでいる。

 ナシュヴィルの腕を取って振り回し、ぶら下がって歓声を上げた。ナシュヴィルはされるがまま、無表情で揺さぶられている。

 アルバートは一人、溜め息を吐いた。

 くよくよ悩んでいるのは、自分だけなのかもしれない。

 それはそれでいいのか。いや、どうなんだ。

 ぐるぐる渦巻く思考に、ローシャの甲高い声が絡んで余計にわけがわからなくなる。

 もう何も考えたくない。

 結局その後、ローシャに中庭まで連れて行かれて三人でボールを蹴り合った。

 最終的に、ナシュヴィルが力加減を誤ってボールを破裂させた。が、足の痛みが限界に達していたアルバートは何とか彼女の前で倒れ込まずに済んだ。

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