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神を思ってはならない  作者: 宮野香卵
第二章 赤い毒と赤い眼
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 昏々と眠り続けるローシャを見つめて、アルバートは溜め息を吐き出した。腰掛けている椅子が、ぎしりと軋む。

 ベッドに沈む小さな体は、次第に痩せ細っていく。

 このままでは、やがて消えてしまうのではないか。

 そう危惧してしまうほど、今の彼女は弱々しい。

 慌てて一週間分の汚れを掻き出した室内は、どこか白々しい空気を漂わせている。

 カルセオラリアに荷を届けてから、一週間が経過していた。

 指輪を引き離した瞬間、ローシャは糸が切れたように倒れ込んだ。黄金色の蛇も消えた。

 残されたのは、壊れた馬車と零れた荷だけだった。

 いつの間にか戻ってきた商隊の人間は黙々と後片付けを済ませ、何事もなかったかのように行軍は再開した。アルバートとローシャは、荷台に乗せられて町まで到達した。

 ローシャは気絶していたし、アルバートは足の痛みで歩けなかったのだ。

 町に着いて荷を下ろし、ろくに見物もしないまま一行はミルニールに舞い戻った。オリジン・オルゴールの本部は、理想郷の上層に存在するらしい。

 痛む足を押さえて、アルバートは眉根を寄せる。

 ローシャが眠っている間、足の痛みは一向に消えなかった。一週間、ずっと疼くような痛みが続いている。

 実際、まともに歩くことも難しい。両足が常に熱を孕んでいて、頭が霞がかったようになっている。

『アルバート、大丈夫?』

 声が聞こえた。じりじりと、古びたオルゴールが稼働する音が響く。

 地下に設置されていたオルゴールは、壁に映写しなくても会話だけなら可能だ。そもそもセシリアは顔を隠しているのだから、スクリーンに映す意味はあまりない。

 アルバートは頭を振って、額を撫でた。

 やはり、少しでも気を抜くと頭がぼんやりする。このまま何日でも浪費してしまうかもしれない。

「……大丈夫」

『全然大丈夫じゃないでしょ。返事、遅れすぎだから』

 セシリアの苦笑いが、耳に沁みる。

 足が痛い。付け根から急に熱を持って、それがじわじわと痛みに変わる。痛みと熱が循環して、互いにその場から動こうとしない。

『急に使っちゃいけないんだよ、石の力は』

「……遅い」

『それはごめん。私も、まさかこんなに早くベノムに会っちゃうとは思わなかったからさ』

 ベノム。

 アルバートは、胸の内で呟く。

 水気でふやけたような頭でも、耳慣れない単語であることは理解できた。

 その気配を悟ったのか、セシリアが笑う。どこか空虚な笑声だった。アルバートは、思わず首を傾げる。

『ベノムは……あの赤い蛇はね、文字通り毒なんだ。簡単に言えば、記憶の残り滓。上層の人間が、使い切った石の捨て方を間違えちゃってね。ほんのちょっとだけ残ってた記憶が悪足掻きし始めたの』

 セシリアは、遠い国の童話でも語るような軽やかな口調だった。

 毒。確かに、あの毒々しい赤は、いかにもそれらしい。

 そして記憶の残り滓ということは、あれも上層の人間が生み出してしまったものなのだ。罪の象徴、とも呼べるかもしれない。

 人々の記憶が無遠慮に吸い尽くされた結果、生まれてしまった蛇。だから、あれは人間しか襲わなかったのだ。馬を襲っても、何の意味もない。

 セシリアは、内緒話でもするように声を潜める。

『ベノムは、人が嫌いなんだ。復讐するために蘇ったようなものだからね。だから、記憶を食べるの。最近は、人に取り憑くことを覚えたみたい。記憶が奪われて、空っぽになった人間に』

 彼女の言葉を、脳内で必死に噛み砕く。

 やはり頭が重い。ぎしぎしと、歯車が軋むような音が聞こえる。

「じゃ、あ……ローシャが、変になったのは」

『ベノムのせいだね。よっぽどアムネシアが進行してなければ取り憑かれることもないんだけど、たぶんオルゴール使うことに集中し過ぎちゃったんだ。隙間に入り込まれたんだね』

 脳裏に、ローシャが笑う姿が過ぎる。

 哄笑する彼女は、明らかに尋常ではなかった。金色の目と、金色の蛇。

 一拍遅れて、背筋が粟立つ。

 あの様子は、本当に恐ろしかった。後一歩で、ローシャがローシャでなくなってしまうような気がした。

 ベノムに呑み込まれた苦痛さえ、あのときの恐怖には敵わない。

 身震いした瞬間、ふと気配を感じた。

 緩慢に右を向くと、ナシュヴィルが佇んでいる。

 いつの間に帰ってきたのか。彼は相変わらず、足音一つ立てない。

「まだ、寝てる」

「寝てるよ。そのうち起きるから、大丈夫だと思うけど」

 ナシュヴィルは頷くと、足下のオルゴールに目をやった。

 ぱっと見たところ、それは手のひら大の箱だ。古びた木の箱で、側面に小さな穴が空いている。

 ただ、蓋はない。蓋を象ったような窪みはあるが、どれだけ力を込めても開かないのだ。箱というよりは、単なる立方体と表現するべきかもしれない。

 正方形のてっぺんには、白っぽい石がはめ込まれている。その石が今、微かに光っていた。

 大丈夫だと言い聞かせてはいたが、アルバートの心中の不安は消えない。

 怖い。このままローシャが目覚めなかったら。

 あるいは、目が覚めた瞬間また蛇をけしかけてきたら。

 彼女の目が開いたとき、その色は本当に薄い青色なのか。

 アルバートは、伸びてきた前髪を握り締める。青っぽい黒という、はっきりしない色だ。少なくとも、アルバート自身はいつもそう思う。

 黒でも、青でもない。何て中途半端なのだろう。

『怖いの』

 束の間の沈黙を破ったのは、セシリアだ。

 ローシャよりももっと幼い声音。しかし、辿々しさは微塵も感じられない。

 平坦な口調だった。茶化しているわけでも、冷やかしているわけでもない。

 アルバートは一瞬呆然となったが、程なくして前髪を掴んだまま頷いた。セシリアには、こちらの動きなど見えていないのに。

『そうだよね。怖いよね。知ってる人が、自分の知らない何かに取り憑かれちゃったら、そりゃあ怖いよ』

 しかし、彼女は当然のようにそう言った。それこそ、幼子に言い聞かせるような口調で。

 恥ずかしい、とは思わなかった。

 だって、怖いのは本当なのだ。怖くて怖くて堪らない。

 今にも思い切り叫んで、この部屋から逃げ出してしまいそうになる。

 そうしないのは、足が痛いからだ。足が痛くて頭が上手く働かないから、すぐに行動に移せない。

 行動する前に、面倒だという思いがブレーキをかける。

『正直、どうなるかわからないよ。ベノムは、指輪を通じてローシャに入り込んだんだ。その方が、心のずっと奥まで入れると思ったんだろうね。

 実際その通りだったんだから、笑えないけど。ローシャはもしかしたら、記憶を無くしちゃってるかもしれない』

 アムネシアは、極度に記憶を失いやすくなる。

 つい最近、クランツから聞いたことだ。もし何もかも忘れてしまっていたら、どうしよう。

「ローシャは……これからも、ずっと忘れやすいままなのか」

『そうだね。これまで、記憶を奪われた人がアムネシアにならなかったことはないよ。必ず忘れやすくなる。たぶん、記憶自体が継ぎ接ぎみたいなものだから、破れやすくなっちゃうんだろうね』

 溜め息混じりの言葉に、アルバートは頭を抱えた。

 ローシャ自身は、怖くないのだろうか。あるいは、よくわかっていないのかもしれない。

 それならそれでいい、と思う。自分の記憶がいつ失われるか、そんな不安に怯えるローシャは見たくない。

 想像しただけでも胃が痛くなった。

 記憶が、継ぎ接ぎ。

 不安を誤魔化すように、セシリアの言葉を反芻する。

 ぽかんと、ある考えが浮かんだ。

「じゃあ、記憶を取り返せばいいんじゃないか」

『……へ?』

「石を見つけて、ローシャに返せば、記憶は消えなくなるだろ?」

 布が急拵えの継ぎ接ぎなら、そもそも奪われた一枚布を取り返せばいい。

 ぼやけた脳内に、微かな光が射し込んだ。

 取り返してしまえば、ローシャが不安に苛まれる可能性を摘み取れる。

 オルゴールから、苦笑が聞こえた。

『それは、無理かも』

「え」

『石は取り出したらどんどん出荷したり加工したりされちゃうからね。数もかなりあるから、たった一個探すのはきついよ』

 それもそうか、とアルバートはひとまず納得した。

 しかし、ローシャのアムネシアを治す方法はこれしかない。記憶を取り戻さなければ、何も解決しないのだ。

 ナシュヴィルが、無言でローシャの顔を覗き込む。

 安らかな寝息が聞こえてきた。一週間も眠り続けているとは思えない。

 点滴で栄養自体は補充されているが、それでも実際に食事で栄養を取った方が体にいいはずだ。七日間の間に、ローシャは明らかにやつれていた。

「石を、探せばいいのか」

 ぽつりと、ナシュヴィルが呟く。

 途端に、セシリアが慌てたように捲し立てた。

『駄目だよナシュヴィル。石なんていくらでもあるんだ。どれだけ時期を絞ったって、少なくとも数千個は確実なんだから。それ探してたら、その間にローシャの記憶がすっかりなくなっちゃう』

「でも、それしかないなら、やるしかない」

『駄目。駄目ったら駄目。ただでさえ、ナシュヴィルは忙しいんだよ。いくら石の力があるからって、無理したらあっという間に』

 ぶつりと、言葉が不自然に途切れた。

 まるで、あのときと同じだ。クランツが、ナシュヴィルのことを罵ったあのときと。

 都合の悪いことを思わず口走ってしまって、慌てて取り繕うとしている。

 痛む足を、アルバートは拳で叩く。そうすれば少しは頭がはっきりするかと思ったが、効果は全くなかった。

「だ、い、じょうぶ。俺、頑張るから」

 跳ね上がる痛みに耐えながら、アルバートは無理矢理口角を上げた。

 何が大丈夫なのか。本当に、無数の石の中からローシャの記憶が閉じ込められた石を見つけ出せるのか。

 わからなかった。しかしせめて言葉にしなければ、きっと行動に移すこともできない。

 冷や汗が滲む。反射的に額を拭うが、手に付着するほど汗は出ていなかった。

 ただ、手の甲が少し冷えたような気がしただけだ。

『人が一人頑張っても、できることは少ないよ』

 やはり、幼子の声で言う台詞ではない。

 アルバートは思わず苦笑いした。冷めた口調は、心の柔らかい部分に的確に突き刺さる。

 ベノムに対して、何もできなかった。ただ怯えて、逃げ回っていただけだ。助けを求められたのに、まともに動くこともできない。

 腹に石を埋め込まれて、常人ならざる力を手に入れた。そのはずなのに、結局何もできない。

 例え体が強くなっても、心がひ弱なままではどうしようもないのだ。

 勇気とか覚悟とか、柱になる感情がなければ脅威と向き合うことなどできない。

『ねえ、わかってる? 私たちは、弱いんだよ。いくらオルゴールを使ったって、弱いままなの。ベノムにも勝てない。ちょっとした、馬鹿な奴らの陰謀を止めることもできない』

 急に声が低くなった。今にも喉から滲んだ血を吐き出しそうな、痛々しい声だ。

 アルバートは面食らう。

 セシリアは、こんな声になってしまうほどの無力感を味わったことがあるのかもしれない。

 彼女が黙り込んだことによって、部屋には気まずい沈黙が流れた。

 ナシュヴィルは相変わらずローシャの顔を見つめているし、セシリアは今何をしているのか視認できない。気まずいと感じているのは、自分だけなのではないか。

 アルバートは椅子の上で身動ぎした。何か言うべきだとは思うのだが、肝心の言葉が思いつかない。

 何となく、ローシャに視線を移した。顔色が悪い。透き通るような白というよりは、青白かった。

 そろそろ目を覚まさなければ──本当に、死んでしまうのではないか。

 手を伸ばして、ローシャの頬に触れる。

 ぺたぺたと叩いてみた。滑らかな肌は、暖かい。

 今度は、頬を軽く摘んで引っ張ってみる。驚くほど伸びた。何となく楽しくなってくる。

 なるべく力を入れないように、もう一度右の頬を引っ張った。

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