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神を思ってはならない  作者: 宮野香卵
第二章 赤い毒と赤い眼
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 アルバートは、ローシャを抱えたまま逃げ続けた。

 反撃している余裕などない。いつの間にか新手が現れていて、ナシュヴィルはそれらの相手をするので精一杯のようだった。

 中に呑まれた何人かは、既に動かなくなっている。

 じわりと焦りが滲み出した。ひょっとして、もう手遅れなのではないか。

 彼らは死んでいて、後は蛇たちに消化されるだけの運命なのかもしれない。

 轟音と共に、赤い体が掠めていく。風圧で、右の頬が痺れた。

 僅かな間隙を縫って、ローシャを背中に回す。始めは小脇に抱えていたのだが、さすがに腕が疲れてきた。どうせなら、足だけでなく腕も強化されていたら良かったのに。

 素早く負ぶさってきたローシャを両腕で支えて、アルバートはすぐさま離脱する。つい先ほどまで立っていた場所が、蛇の尾で抉られた。

「しーちゃん、なんとかしてえ!」

 背中にしがみついているローシャが悲鳴を上げる。

 彼女は完全に他人に命を預けているわけだから、自分以上に不安なはずだ。

 両腕に力が入った。アルバートが蛇に捕まれば、ローシャも死ぬ。

 一人で逃げ回っているのとは違う、異様な緊張感で足が強張った。喉が引き攣る。

 ローシャは、必死で助けを求めていた。しかし、ナシュヴィルはナシュヴィルで必死なのだ。

 無表情であることは変わらないが、動作の一つ一つからそれが伝わってくる。彼の動きは、とにかく速い。灰色の影が、縦横無尽に空間を横切る。

 耳の底を直接削られるような、低い威嚇音が至る所から聞こえてきた。

 気付けば、蛇が一匹群から離れていた。目立つ体が、木立へ消えていく。

 中に、男を一人呑み込んだまま。

「ナシュヴィル!」

 アルバートは叫びながら駆け出した。

 あのまま逃がしたら、中の人間は助からない。

 ローシャがしがみついてくる。細い両腕に力がこもって、首が僅かに締め付けられた。

 呑まれた男は、脱力しきっている。まるで、ふわふわと宙に浮かんでいるようにも見えた。

 助けなければ。

 アルバートは、さらに加速する。腹部に力を入れる。

 足が、焼けるように熱くなった。どくりどくりと、そこに心臓が移動したように脈打つ。

「っ、うっ」

 思わず、呻き声が漏れた。強烈な熱と激痛で、気が遠くなりかける。一歩踏み出す度、鮮血が噴き出しているかのようだ。

 しかし、その代償に加速は凄まじかった。

 不意に、気味の悪い感触が全身を覆う。反射的に息を止めた。両目も瞑った。ローシャが息を呑む気配がする。

 加速が急に鈍る。生温い何かに一瞬全身が包まれて、気付けば着地していた。

 辺りを見回すと、赤い破片が散らばっていた。思い切り体を震わせると、重い音を立てて赤い残骸が落ちる。

 ローシャが背中で咳き込んだ。

 振り返れば、蛇に呑み込まれていた男が転がっている。

 一拍遅れて、蛇の体を突き破ったのだと気付いた。復活する様子はない。

 石、だろうか。もしかしたら、石の力で蛇は復活できないのかもしれない。

 直後、両足に激痛が走った。頭の中に大量の星が散って、狭い空間を跳ね回る。

 びくりと体を震わせて、アルバートは崩れ落ちた。

「ぐ、あっ」

 熱さはない。ただ痛みだけが足に残っている。

 掻き毟っても、全く和らがない。

 痛い。足が痛い。

「アル、どうしたの。アル」

 ローシャが背中を揺すってくる。が、反応する余裕もなかった。

 痛い、痛い痛い痛い痛い。

 ふと、目の前に影が差した。反射的にローシャを突き飛ばす。微かな悲鳴が聞こえた。

 目の前が真っ赤になる。体が浮かぶ。

 驚いて声を上げようとした瞬間、何かが喉に流れ込んだ。咳き込もうとしたが、そもそも息ができない。ごぼ、とくぐもった音が漏れた。

 手足を闇雲に振り回す。しかしそれすらも、水の中にいるような緩慢な動きになった。

 瞬間的に恐怖が跳ね上がる。

 しぬ。このまま呑み込まれていたら、確実に死ぬ。

 視界が赤く濁っていて見えづらかった。ローシャはちゃんと逃げられただろうか。咄嗟に突き飛ばしたが、怪我をしなかっただろうか。

 焦りが臨界点に達したのか、いつの間にか胸中に諦めが満ちていた。危機感を覚えた体が、感情を鈍麻させたのかもしれない。

 せっかく、記憶を奪われなかったのに。

 人の運命は、始めから決められているのだろうか。巧妙に覆い隠された轍を、ただ辿ることしかできないのか。

 安心して歩調を緩めた瞬間、死を司る何者かは容赦なく飛びかかってきた。

 赤熱したように熱かった全身が、急に冷え始める。

 寒かった。秋とか冬とか、もはや季節の概念で例えられるレベルではない。

 全身が巨大な氷になってしまったかのように、冷たい。指先が、何かの余韻に促されるようにぴくりと震えた。

 くぐもった声が、聞こえたような気がした。

 耳にも何かが流れ込んでいるのか、音が聞こえづらい。ざらざらとした雑音が、ずっと続いている。

 ローシャ、と呟いたつもりで、声は少しも出なかった。さらに得体の知れないものが口に入り込んだだけだ。

 目の前が、真っ暗になる。



「──アル!」

 急に音が戻ってきた。

 気味悪い浮遊感に襲われた直後、何か柔らかいものに尻から落ちる。

「う、えっ」

 体中がべとついていて気持ち悪い。

 満腹感とは違う奇妙な感覚があって、人目を気にする余裕もなく吐き出した。吐いても吐いても、まだ中身が残っているような気がする。

 ぼたぼたと、ぬめりのある赤が喉から零れた。

 まるで、血の固まりのようだ。えづいた瞬間両目から涙が溢れ出る。まるで吐血しているようで、ぎょっとした。

 咳き込みながら、アルバートはふと我に返る。

 何故、急に解放されたのか。何故今、新鮮な空気を吸い込めているのか。

 這い蹲った体勢で腕を動かすと、ぐにぐにした感触が伝わってくる。

 周りを見回すと、どうやら黄金色の──ゼリーのような物体の上にいることが、わかった。

「……は?」

 アルバートは、ぽかんと口を開け放つ。

 一言で表すなら、それは蛇だった。今敵対している、赤い蛇と酷似している。黄金色のつるりとした体は、まるで本物の金のようだ。

 アルバートは、その蛇の巻いたとぐろの上にいた。

 蛇の体に沿って、ついさっき吐いた赤い半個体が滑り落ちていく。

 思わず見上げると、金の蛇には目があった。黒々とした、つぶらな瞳だ。

 ふと、どこか物悲しい旋律が耳に入った。

「いじめちゃ、だめなの」

 アルバートは始め、それが誰の言葉かわからなかった。

 あまりにも、力強い口調だったからだ。自信というよりは確信に満ちた、この世の全ての悪を断罪しようとしているかのような声音。

 振り返れば、そこにはローシャしかいなかった。

 ライトブルーの瞳は不自然なほど煌めいていて、胸元の指輪が黄金色の光を放っている。白いワンピースも相まって、まるで全身が輝いているかのようだった。

 ローシャは、呆けたような無表情のまま口を開く。

「アルも、しーちゃんも、わたしがまもるんだよ。いじめるなんて、ぜったいだめなんだから!」

 彼女の叫びに呼応して、蛇が飛び出した。投げ出されたアルバートは、その場に座り込んだまま呆然と戦況を見守るしかない。

 気付けば、戦闘に参加していたナシュヴィルがすぐ隣に佇んでいた。彼の無表情も、心なしか困惑気味だ。

 二人は顔を見合わせて、首を傾げる。

「何なんだ、あれ」

「さあ」

 ナシュヴィルも知らないのに、アルバートにわかるわけがなかった。

 黄金色の蛇は、凄まじい速度で地面を滑る。その速度に、平然としていた馬たちもさすがに動揺したように嘶いた。

 圧倒的な速度と力を前に、赤い蛇たちは逃げ惑うしかない。あのナシュヴィルでも、散々手こずらされていたのに。

 黄金の蛇に蹴散らされて、赤い破片が飛び散る。

 ローシャの胸元では、相変わらず指輪が光っていた。蛇と同じ色の光。

 アルバートはふと、赤蛇から解放された瞬間に、悲しげなメロディーを聴いたことを思い出す。

「あれも、オルゴールなのか?」

 ローシャを指さすと、ナシュヴィルは一拍遅れて頷いた。

「使ったところ、は、見たことない」

「持ってただけ?」

「ここに来たときから、持ってた」

 つまり、記憶を奪われたときから持っていたのか。

 しかし普通なら、その場で強奪されてしまうものではないだろうか。

 オルゴールは貴重だ。特に、半永久的にエネルギーを供給できる石を使ったものは。

 ローシャの石は、明らかにそれだ。

 普通の使い捨ての石とは、纏う気配の密度が違う。

 何故、取り上げられなかったのだろう。

 黄金色の蛇が、赤色の蛇を食っている。文字通り、頭からばりばりと。ぐちぐちと、粘着質な音が聞こえた。

 ローシャは、その双眸を輝かせながら笑っている。無邪気な笑声が、場違いに響いた。

 楽しくてしょうがない、とでも言いたげな。

「……ローシャ」

 笑う。笑う。

 幼い少女は、狂ったように笑う。

 おかしい。ローシャが未だかつて、こんな風に笑っているのを見たことがない。ただの笑いではなかった。

 これは、哄笑だ。

 まるで、記憶を詰め込むことによって抑え込まれていたはずの何かが現れ出たかのようだった。

 入れ物が空っぽなら、そこにはどんなものでも入り込める。

 アルバートは、急に怖くなった。

 黄金色の蛇は、ローシャが笑えば笑うほど動きが速くなる。もはや、蛇にすら見えない。空から降ってきた稲妻が、意志を持って駆け巡っている。

 食い散らかされた赤い断片が、往生際悪く蠢いていた。

 このままにしていたら──ローシャはもう、戻ってこられないのではないか。

「ローシャ」

 声が掠れる。笑い声に掻き消されたのか、ローシャは少しも反応しない。

 ナシュヴィルの無表情が、ほんの僅かに強張る。

 吐き出された人々が容赦なく弾き飛ばされた。弛緩しきった人体にとって、完全に追い打ちになっている。

「ローシャ! やめろ!」

 蛇が荒れ狂う。もはや、敵はいなかった。

 赤い蛇は残らず細切れにされていて、馬車と馬車の隙間がゼリーの海になっている。

 蹴散らされた赤い断片が、雨のように降り注いできた。

 アルバートの叫び声に、ローシャはぴくりと肩を震わせた。くるりと顔だけで振り返り、唇の端を吊り上げる。

「あはっ」

 声音が、急に跳ね上がった。

 蛇の動きが急停止する。辺りが急に静まり返った。

 不意に、腕を掴まれた。思い切り引っ張られて、アルバートはたたらを踏む。

 そのすぐ脇を、黄金色が擦過していった。

 ローシャが、心底愉快そうな笑い声を上げる。

 指揮でもとるように、右手を振り回した。白い指先が宙に円を描く。

 蛇がまた襲いかかってきた。呆然とそれを眺めていたアルバートは、再びナシュヴィルに腕を取られて何とか回避する。

 回避というよりは、単に引きずられただけだ。

 信じられない。

 アルバートは、ぼんやりとローシャを見つめた。

「あは、あははははっ、は、は」

「……ローシャ!」

 ひいひいと、ローシャは腹を抱えて笑う。

 蛇も、ゆらゆら揺れる。鎌首をもたげて、黒い目を向けてきた。ローシャの目と似ている、ような気がする。

 純粋無垢な、この世の汚れを何一つ知らない眼。

 ローシャが振り回す右手に合わせて、蛇が馬車に襲いかかる。積み込まれていた木箱が宙を飛び、樽が砕けた。赤い果実がいくつも飛び出して、赤蛇の残骸に埋まる。

 馬が甲高い声で嘶き、辺りを駆け回った。

「ローシャ、やめろ! 駄目だ!」

 アルバートは、我に返ったように何度も叫ぶ。

 今は、周りに誰もいないからまだいい。しかしこの光景は、どう見てもローシャが──狂ってしまったようにしか、見えない。

 違う、とアルバートは思う。頭を振る。

 ローシャは狂っていない。狂ってなんかいない。

 彼女は理不尽に記憶を奪われただけだ。どこかの誰かの為に、勝手に記憶を取られた。きっと、彼女自身はそんなことを望んでいなかったのに。

 駄目だ。何とかしなければ。

「ローシャ。いじめちゃ駄目だ。みんな、もう大丈夫だから。悪い奴はいないよ。ローシャとナシュヴィルが追い払ってくれたから、みんな助かった」

 本当は、そんなことはなかった。何人かは確実に、あの赤い蛇に連れ去られてしまった。

 しかし、脅威は去ったのだ。もう隊列を邪魔するものはない。

 ローシャは、一瞬真顔になった。笑顔よりずっと見慣れている無表情だ。ただ、やはり違和感がある。

「う、そ」

「……は?」

「どうでも、いいのよ。みんな、しんじゃえば、いっしょ。おなかすいたの。もっとたべたいの。ねえねえ、かえして? わたしのきおく、かえして。でも、べつにいらないかも。ねえ」

 あなたのきおくも、ちょうだい。

 ぞわり、と背筋が粟立った。

 同時に、アルバートは悟る。

 ──あれは、ローシャじゃない。

 別の何か。何か、おぞましいもの。

 馬にかぶりついて遊んでいた蛇が、ぐるりと向き直った。つぶらな瞳の中で、青白い炎が踊っている。

 アルバートは反射的に飛び出した。すぐ横でナシュヴィルが手を伸ばそうとしていたが、構っている暇はない。ローブの背中が軽く引っ張られたような気がした。

 焦燥感に苛まれながら、走る。

 じわじわと、両足が熱くなる。使い続けて熱暴走寸前のオルゴールのような、不穏な熱さだ。

 速く。もっと速く。

 蛇が真っ正面から突っ込んでくる。

 何とか身を捩ったが、容赦なく脇腹を抉られた。鈍い音が耳の奥で響き、激痛が走る。脇腹だけもげてしまったのではないか、そう思わせるほどの痛みだった。

 足がもつれ、呼吸が乱れる。歯を食いしばると、耳障りに軋んだ。

 それでも、アルバートは走る。

 黄金色に輝くローシャの目が、僅かに見開かれた。

 違う。あの金色は、違う。

 アルバートは手を伸ばす。ローシャはただ、立ち尽くしている。

 目標は、たった一つ。

 何の抵抗も見せないローシャを後目に、胸元の指輪を掴み取る。

 罪悪感を覚えつつ思い切り引っ張ると、繊細な鎖は呆気なく千切れ飛んだ。

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