3
どうして、ナシュヴィルはあんなに毛嫌いされているのだろう。
一度気になりだすと、ついさっきまでは目に付かなかったことがやたらと意識に引っかかった。
三人で一緒にいても、誰もナシュヴィルに声をかけない。
アルバートとローシャに挨拶する際には、露骨に区別されている。声がかかるのは、必ずナシュヴィルが通り過ぎた後だ。
また、偶然近付いてきてしまった人間は大抵固まった。滑らかに続いていた会話が止まり、居心地の悪い緊張感が満ちる。
そして数瞬硬直した後、再び何事もなかったかのように話し始めるのだ。
子どもだって、こんなにあからさまな態度は取らない。ここにいるのは、年齢だけなら立派な大人ばかりなのに。
全身の倦怠感に加えて、何だか憂鬱になってきた。
メンフィスは、屋敷に籠もりっぱなしでは疲れるからと外に出してくれたのに。これなら、あの廃屋に缶詰の方がいくらかましだったかもしれない。
嫌な緊張感はローシャも感じているのか、すっかりおとなしくなってしまった。
アルバートの外套を掴んで、黙々と歩いている。
三人は、隊列の最後尾付近を進んでいた。
一団は草原を抜け、ちょうど森に入ったところだ。
街道は、木々の間を貫くように伸びている。道幅自体は広い。大型の馬車でも余裕を持ってすれ違うことができるだろう。
ただ、日差しが遮られているせいで急に気温が下がったらしい。徒歩では暑いくらいだったのに、日陰に入った途端肌寒くなってきた。
「ローシャ、ちゃんとボタン、留めないと」
「うん」
灰色の外套は、丈が長めだ。裾が臀部を覆う辺りまである。決して邪魔なわけではないのだが、ローシャはずっと前のボタンを外していた。
一瞬ぐずるかと思ったが、彼女は素直に頷いた。
一つ一つゆっくりボタンを留めて、またアルバートの外套の裾を掴む。顔が、微妙に強張っていた。
「……ローシャ」
他人から向けられる悪意は、こんなにも精神を磨耗させてしまう。
「馬車に乗ってた方がいいよ。さっきも、遠慮しなくていいって言われたし」
「わたし、つかれてないよ」
しかし、ローシャは明らかに疲労感を滲ませていた。
体力的にも精神的にも疲労が溜まっているのだろう。顔色一つ変えていないのは、ナシュヴィルだけだった。
ローシャは、おそらく一人で馬車に乗りたくないのだ。
「俺も、疲れちゃったんだよ。でも、一人で乗るのは寂しいから。一緒に乗ってくれない?」
予想は当たっていたらしい。ローシャは目を輝かせて、何度も頷いた。
そして、くるりと振り返る。
「しーちゃんも、おやすみしよう?」
ナシュヴィルは無言で首を横に振った。
本当に疲れていないのか、それともただの痩せ我慢か。彼の無表情からは、何も読み取れない。
ローシャは、頬を膨らませて恨めしげな目をしている。
「だめだよ。しーちゃんだって、つかれてるでしょ」
ぐいぐい腕を引っ張られても、ナシュヴィルは頑なに首を振り続ける。やけに子どもっぽい仕草だった。
いくら働いたからといって、彼らに好かれるわけではないのに。少なくともあの反応からして、この分隊の人間が簡単に考えを改めるとは思えない。
もやもやと、心中に暗雲が立ちこめる。
どうして。何故、ナシュヴィルは嫌悪されているのか。
「──隊長!」
不意に、停滞した空気を悲鳴が切り裂いた。
飛び上がったローシャがしがみついてくる。ばたばたと、慌ただしい足音が響いた。
それぞれ思い思いに歩いていた人間たちが、何事かと顔を覗かせる。馬車を引く馬たちが、不快げに嘶いた。
いち早く正気に戻ったのは、クランツだった。
足をもつれさせながら駆けてきた青年の元へ向かい、落ち着くよう促す。
が、隊列の前方から来た彼は、ただ震えている。激しく目が泳いでいた。
「ほら、落ち着け。そんな状態じゃ、ろくに報告もできないだろう」
「べ、ベノ、ム、が」
荒い呼吸を繰り返しながら、青年はようやくそれだけ口にした。クランツの顔色が変わる。
直後、その背後を灰色の影が過ぎった。
「しーちゃん!」
縋りつくようなローシャの叫声。アルバートが一拍遅れて振り返ると、ナシュヴィルは跡形もなく消えていた。
不気味なほど身軽な動きで、その姿は瞬く間に遠ざかっていく。彼が通り過ぎる度、恐ろしいものを目撃したような悲鳴が上がった。
それとは比べものにならない絶叫が、先頭付近から響き渡る。その一度で喉が引き千切れてしまいそうな、凄まじい悲鳴だった。
全身に鳥肌が立つ。一体、何が起こっているのか。
色めき立つ面々を、クランツが必死で止めている。
辺りは急に騒がしくなった。鎧や剣がぶつかり合う音、馬の嘶き、人々の怒声。
アルバートは、思わず耳を塞ぎたくなった。
このままここにいたら、心のどこかが切れてしまう。
「アル」
不意に、袖を引かれた。
振り返ると、ローシャが不安げな面持ちで佇んでいる。
「しーちゃん、おいかけなきゃ」
そうだ。ナシュヴィルは、あの悲鳴の発生源へと駆けていった。
しかし、アルバートは迷った。
あの悲鳴は、尋常ではない。怪物にでも襲われたかのような声音だった。耳に入っただけで、一気に鳥肌が立ったくらいだ。
そんな場所に行っても大丈夫なのか。せめて、ローシャは置いていくべきではないのか。
ざわざわと、街道に覆い被さる木々が騒ぐ。決断を迫られているような気がして、胃が痛くなった。
「……ローシャは、ここで待ってた方がいいよ」
「いや!」
近頃癖になってしまった駄々が、こんなところで出てきてしまった。止める暇もなく、ローシャが駆け出す。
他の人間は、誰一人として彼女を見ていない。
違うことで手一杯なのだ。たった一人の少女に構っている余裕などない。
「ローシャ!」
ローシャは、逃げ惑う人々を巧みにかわしていく。
走り出せばアルバートの方が圧倒的に速いのに、思うように速度を上げられない。思わず舌打ちが漏れた。
突然横切った女を辛うじてかわし、鎧を抱えて駆けてきた男に思い切りぶつかる。
付かず離れずの、歯痒い距離が続いた。
ローシャの背中ばかり見つめていたアルバートは、ふと視線を上げた。不意に、背筋に奇妙な寒気が走ったのだ。
赤い物体が、のたうっていた。
木立に遮られて疎らに差し込む日光の中、透明感のある赤が輝く。ぬめりを帯びたような、精神的な嫌悪感を誘う煌めきだった。
「……あ?」
思わず、足が止まりかける。
ローシャは明らかに、いかにも危険そうな場所へ向かっていた。彼女が向かう先、赤く細長い何かが暴れている。
あれは、何なのだろう。外には、あんな生き物がうろうろしているのだろうか。
恐怖にまみれた悲鳴が辺りに木霊していた。
蛇だ。
中層には、いわゆる害獣の類が存在しない。あるいは、子どもたちが見つける前に大人に排除されていたのかもしれないが。
しかし、下層にはうようよいる。蛇もネズミもムカデも、とにかく色々いる。
赤い何かは、蛇に似ていた。あくまで形だけの話だ。
半透明の体は、長い。少なく見積もっても、全長五メートルはあるだろうか。
しかも、それが五匹もいるのだ。
恐慌状態に陥っている人々の間を、赤い体が滑り抜ける。一度尾を振れば、それだけで簡単に人が吹き飛んだ。
体が地面に叩きつけられる、おぞましい音が響く。
アルバートは、今度こそ硬直した。頭が真っ白になる。
蛇は、赤くて細長い、ゼリーのような質感を持っている。それが、がばりと口を開いた。反動で、赤い飛沫が散る。
蛇の正面で、あまりにタイミング良く男が転んだ。
それでも逃げようとしているが、腰が抜けて立てないらしい。這うように進む、その上から蛇が食らいついた。
蛇は透明だ。赤い体の中に、人が呑まれたのがはっきり視認できてしまう。
もがき苦しむ様は、その場に座り込みそうになるほど恐ろしかった。
「……ひっ」
喉の奥で、押し殺しきれなかった悲鳴が漏れる。
男は必死の形相で手足を動かしていた。それでも、蛇の中から一向に抜け出すことができない。中では、息ができないのだ。
男の顔が、みるみる険しくなる。おそらく、顔色も変わっているのだろう。蛇の色で誤魔化されているだけで。
目を逸らしたいのに、逸らせない。
男と、不意に目が合った。ずきりと胃が痛む。
その双眸は、助けを求めていた。
当たり前だ。立場が逆なら、アルバートだって誰彼構わず助けを求める。
眼底を焼かれるような錯覚を覚えた。
助けなければ、と思う。それなのに、足は少しも動かない。地面から何者かに押さえられているのではないか。
何とか足下に目を落とした。勿論、誰にも押さえられてはいない。二本の足は、平然と地面に立っている。
ならば、動けるはずだ。動かなければならない。
こみ上げてくる焦りが頂点に達した瞬間だった。赤蛇が前触れもなく爆散する。
蛇の欠片が飛び散り、ぼとぼと地面に落ちた。あまりの展開に、もはや声も出ない。
肉片に混じって、内部に取り込まれていた男も降ってきた。思わず、腕を伸ばす。
が、何メートルもの高さから降ってくる人間など、到底受け止められるわけがない。
理解はしていたが、アルバートは落下地点に走る。
しかし、手が届く前に人影が消え失せた。
急停止した瞬間、肉片を踏み付けてしまった。湿ったような、気味の悪い感触が靴底に伝わる。
瞬きを繰り返す。ナシュヴィルが、男を荷物のように抱えて佇んでいた。
赤い瞳は、相変わらず考えが読めない。
呆然と口を開いていると、彼は無言で男を放り出した。それこそ、荷物を扱っているかのようだ。
そして、瞬く間にその場から離脱する。
甲高い悲鳴が轟き、蛇がゼリー状の肉片になって四散した。馬車の合間に、どんどん赤いゼリーが溜まっていく。
時折、果敢に蛇に立ち向かう人間もいた。
しかし、剣で切り裂かれ矢を射られた蛇は、皆すぐに再生してしまうのだ。千切れた肉片はそのまま落下して、欠けた箇所がいつの間にか補われている。
切っても切っても意味がない。
それなのに、ナシュヴィルが攻撃した蛇はそのままだ。死んだまま、ぴくりとも動かない。何故だろう。
首を傾げた瞬間、アルバートの目に逃げ惑う少女の姿が映った。
不意に、自分が何のためにここに来たのか思い出す。
「ローシャ!」
呼びかけると、顔をぐしゃぐしゃにしたローシャがばっと振り返った。
蛇に直接追われている、というわけではなく、あくまで雰囲気に呑まれているだけのようだ。
ばたばたと忙しい足音を立てて駆け寄ってくる。
「なんで、いっぱいいるの?」
何の躊躇もなくしがみついてきたローシャに、アルバートは面食らった。
ローシャは、ぐすぐすと鼻を鳴らしている。
「こわいよう、なんで、みんないじめるの? みんなぱくぱくされてる。たべられちゃうよ」
残り三匹となった蛇の体内には、既に人が取り込まれている。呑み込んだ人間の体格に合わせて、歪に膨らんでいた。
ナシュヴィルが応戦しているが、多勢に無勢だった。蛇も一応連携しているらしい。体のいらない部分を犠牲にしたり、横から攻撃を妨害したりしている。
それでも、反撃を諦めて逃走していた人間の補助にはなった。逃げ惑う人影はもう見当たらない。
後は、呑み込まれた人間さえ助けられればいいのだが。
狂乱の渦中にある人々を後目に、馬車を引く馬たちは平生そのものだ。地面を掻いたり、届く範囲にある草を食んだりしている。
大きさ的に、呑み込むのは難しいのだろうか。
とにかく馬は平然としていて、蛇は人間だけを襲っている。
「ローシャは、馬車の中にいてくれ」
アルバートが誘導しつつ言ったが、ローシャはまだ呆然としていた。ぱちぱちと瞬きして、手を引かれるがままに歩く。
びたん、と尻尾が地面を叩く音が響いた。すぐ、真後ろで。
アルバートとローシャは、同時に飛び上がる。
強烈な寒気がした。アルバートは、反射的にローシャを抱えて前に跳ぶ。つい先ほどまでいた場所が、赤い尾で薙ぎ払われた。
盛大に土埃が舞う。ローシャを荷台に放り込もうとしたが、それも尾の一撃で阻まれた。
「なんっ、で!」
アルバートは、思わず苛立ちに任せて叫んだ。
蛇たちは、獲物が大方逃げ出したことに気付いたのだろう。せめて残った人間を食おうと躍起になっている。
あわよくばもう何人か、無理なら今呑み込んでいる者だけでも持ち帰る、という魂胆なのかもしれない。