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まるで、硝子の瓶の中にいるみたいだ。
少女は、薄目を開けて周囲を見回した。体が怠くて、思うように動けない。目を開くことすら億劫だった。
どうやらどこかに仰向けで寝かされているらしい。
服装は、おそらく普段よく着ている白いワンピース。背中がひんやりと冷たくて、剥き出しの足先は冷え切っている。
いつの間に、靴を脱いでしまったのだろうか。
緩やかに首を傾げて、少女は一つ息を吐いた。
何だか、眠くて堪らない。
抗い難い眠気に浚われるように、彼女は目を閉じた。
そして、夢を見た。
遠ざかっていく二人の男女。あれは、両親だ。自分を、孤児院に預けた父と母。何も言わず、ただ当然のように。
少女は、孤児院の院長の手を握っていた。
初老、という領域に踏み込んだばかりの院長は、髪の毛が全て銀色でとても綺麗だった。まるで、童話に出てくる優しい魔法使いのような。
じっと遠ざかる二人を見つめる少女。
それを、彼女はそのさらに後ろから見守っていた。
あの時は、何も寂しくはなかった。ただ、自分はもうお父さんにもお母さんにも会えないのだと、漠然と感じていた。
きっと、自分は失敗の産物だったのだと思う。様々な失敗が折り重なって、それはやがて取り返しの付かないところまで膨れ上がった。
彼らは、やり直そうとしたのだ。自分たちの失敗を、他人に押し付けることによって。
やがて、フィルムを切り替えたように視界が暗転する。
次に現れたのは、孤児院の院長の部屋だった。
経費の削減のためにとにかく切り詰めていたせいで、とにかく殺風景だ。飴色になった大机と衣装箪笥しかない。
部屋には、一見誰もいなかった。そこへ、銀髪の院長が入ってくる。
瞬間、安っぽいクラッカーの音がいくつも弾けた。きょとんと目を見開く院長を余所に、幼い子供たちがわらわらと至る所から這い出してくる。
例えば、机の下から。あるいは、衣装箪笥の中から。
そうだ。この日は、院長先生の誕生日だった。
部屋の片隅に佇んでいた少女は、ぼんやりとその光景を見守っていた。
子供たちの中心で笑っているのは、自分だ。
藤色の髪の毛は、まだ肩先に触れるくらいまでしか伸びていない。今ではもう、肩胛骨の辺りまで伸びているのに。
瞬間、再び辺りが暗くなる。
それが、何度も何度も繰り返された。暗転する度に新たなシーンが再生され、彼女はひたすらにそれを傍観する。
どれくらい時間が経ったのかはわからない。けれど、少女には既にその映像の正体がわかっていた。
これは、記憶だ。私の。
覚えている。近所のいじめっ子を撃退して、それが貴族の子供で、こっぴどく叱られたこと。みんなで拾ってきた犬にエサを与えすぎて、死なせてしまったこと。
新しい両親に貰われて、孤児院を去っていく仲間の後ろ姿。いつも使っていた、縁が欠けたマグカップ。隣の敷地の、既に廃園になった孤児院跡地でやった鬼ごっこ。
覚えてる。全部全部、忘れられるわけがない。
しかし一度再生された映像は、次の瞬間には思い出せなくなっていた。
少女は愕然とする。
何か、記憶が再生されていたことは確かだ。それなのに、その詳細が思い出せない。
まるで、ピースの欠けたパズルのように。
そして思い出せないことに混乱しているうちに、また次の記憶が流れる。
少女は頭を抱え、悲鳴を上げた。
やめて、やめてやめてやめて。
──私の記憶を、私を、奪わないで。
刻み付けたはずの足跡が、跡形もなく消えていく。わからない、何もわからない。
彼女は無我夢中で、床に爪を立てた。頭の奥底を引っ掻かれたような、不快な音が鳴る。それでも構わなかった。
押し流されてしまう。少しでも抵抗しなければ。
思い出さなければ。思いだせ、おもいだせ、おもい、だせ。
わたしのなまえは、なんだ?
直後、ぶつん、とどこかが切れたような音が鳴った。少女は力尽きたように脱力し、ゆっくりと目を閉じる。
最後に映し出された光景。分厚い曇り硝子の向こうで、白い影が蠢いていたような気がした。
「早く、しないと」
その少女は、青く塗り潰された空間でベッドに横たわっていた。
まだ年端もいかない、あどけない顔つき。そのつぶらな双眸は、退屈そうにどことも知れない虚空を眺めている。
部屋の片隅には、青年が一人。壁にもたれて瞑目していた。
胸の下まで伸びる長髪。しかし深海のようなディープブルーで支配された室内では、その髪色も定かではない。
壁も、床も、ベッドも。シーツも毛布も、全てが青い。
ベッドのみが鎮座する室内には、天井からたくさんの薄いプレートがぶら下げられていた。
イルカやクジラ、名前も定かではない魚たち。その光景は、さながら深海のようだった。
少女はベッドの柵に背を預け、呟く。
「早くしないと、ね」
何が、とは言わない。青年はおもむろに目を開くと、少女に視線を向けた。
彼女は、ただ頷く。二人の間に、言葉はいらない。
青年は暫し沈黙し、唐突に踵を返して退室していった。翻る頭髪が、鮮やかな軌跡を描く。
一人残された少女は、自らの短く切り揃えられた毛先を撫でた。掴んで、引っ張る。
そして、眉根を寄せてこめかみを揉んだ。脳を内側から刺されるような頭痛は、三年前からずっと続いている。緩やかな痛みが通常で、そこに時折鋭利な激痛が走る。
慣れていたはずだ。慣れなければならないと言い聞かせてきた。
それでも、気が滅入る。
自分から望んで、痛みを受け入れたのに。
少女はぽつりと零して、嘆息した。
父親とは散々話し合って、罵り合って決めたのだ。
議論は何日も続いた。時には本題を放り出して、互いの人格否定に走った。普段の生活習慣諸々、今までずっと腹に溜めていた不満をぶちまけた。
凶器になるものがこの部屋にあれば、確実に相手に突き立てていただろう。
こうするしかなかった、と彼女は今でも思う。
自分も、みんなと一緒に前線で戦うには。
みんな、この国の犠牲者だ。父の安易な発明の犠牲になった。
大切な物を奪われて、あるいは誰かに託されて、この地に立っている。
少女は顔を歪めながら、口角を吊り上げた。年相応とは思えない、皮肉げな笑みだった。
「いつか、本当の海に行きたいな」
薄っぺらいプレートが、くるくると音もなく回る。
偽物の海で回り続ける、偽物の魚たち。
彼女の独白は誰にも聞かれることなく、いつものように部屋の床に降り積もった。