彩りの中で。
以前、フォレストノベルに掲載していた作品です。
「まず…」
口から零れた言葉は誰に聞かれることもなく、煌びやかな世界に消えた。目の前には、飲みかけのワインと食べかけの前菜が一人分ずつ。向かい側の席には手を付けられてないものが一人分。周りを見渡せば、幸せそうに笑い合う恋人たちや家族ばかり。こんなに、楽しくなさそうにしてるのは私だけ。
――数分前に、届いたメールは簡素なものだった。『別れよう』という文字だけがはっきりと画面にあった。今日は私の誕生日。彼と過ごす七度目の幸せな時間……のはずだった。明日からは、彼女じゃなくて、妻として彼の隣にいるはずだったのに。そう約束していたのに。でも、彼は来ない。
悲しいとかショックとか、もうそういうのじゃなくて、今の私はまさに、『白』の状態。怒って顔を赤くすることもないし、顔を真っ青にするわけもなく、単なる『無』。だって、すべて空っぽになった。目の前の席も空席で、心の中も空席。見えるのは、目の前に広がるディナーと煌びやかな空間。聞こえてくるのは、雑音にしか聞こえないピアノの音。自分のことが分からなくなって、ただ何も考えてないはずなのにワインへと何度も何度も手が伸びる。そしてまた、意識の外で私は手を伸ばした。
――刹那。
「飲み過ぎ」
手が届く前に大きな手に腕を掴まれた。
「どれだけ飲むんだよ」
走ってきたのか、何だか知らないが、私のよく知った顔である人は、額に汗をかき髪はボサボサだった。溜息をつき、私の腕から手を放して空席だったあの席に当たり前のように腰を下ろす。私は再びワインを求める。……が、向かいに座るその人がボトルを自分の方へと引き寄せる。乱れた髪とスーツを整え私をじっと見つめる。
「泣けないのか?」
優しく、そっと尋ねてくる声にこくりと首を縦に動かす。そう、泣かないんじゃない、泣けない。
仕方ないな、とでも言うように笑った目の前の人は私の手をとった。握られた手を見つめ、そっと目を閉じる。何故か冷え切っていた体温が温められる。それと同時に『無』じゃなくなってくる。温かい、オレンジ色を感じる。――目の前の幼馴染の存在によって。
目を閉じたまま、口を開く。
「なんで来たの?」
「んー、以心伝心っていうやつ?」
「変なの」
「昔からお前のことは何となく分かるんだよ」
「そう…」
「…ほんとは分かってたんだろ?こうなること」
「……」
「お前のそういうところ、俺は好きじゃない」
「知ってる」
分かってた、ほんとは。彼が離れようとしてること。でも知らないふりをしてた。昔からの、悪い癖。ただ……。
「でも、事前に俺に場所を連絡してたことは誉めてやろう」
「…ふ、なにそれ」
「そこはお前のいい癖だと俺は思ってる」
……そう、それも私の昔からの癖。だって、絶対来てくれるって妙な確信があるから。
「俺が来てくれて良かっただろ?」
「…うん」
頷きながら、ただただ手を握り返す。いつだって、どんな時だってこの人は私のそばにいる。当たり前のように、怯まず。幼馴染だからそんなものかと思ってたけど、ほんとに、そうなのだろうか。
すっと目を開ければ、見慣れた顔が微笑んでいる。
「誕生日おめでとう。またひとつおばさんに近付いたな」
「一言余計ですー。でも、…ありがと」
色んな意味を込めた感謝の言葉。気付けば、頬が緩んでていつもの私がここにいる。
「来てくれたってことは、もちろん…」
「支払いは俺が、だろ?」
「よくできました!」
小さく手を叩く私に呆れた様子が、妙に面白い。
「馬鹿にすんな」
「ごめんごめん!」
いつものくだらない会話が楽しくて仕方ない。この空間も、音も。すべてが楽しい。
「ま、来たからには責任とるから」
何か引っかかる言葉に首を傾げる。責任って?
「……?」
「深く考えんなって。いつか分かるからさ」
「うん…?」
なんでこんなに心がざわざわするんだろうと、思いながらも掲げてきたグラスを見て私もグラスに手を伸ばす。お互いの目を見つめて、グラスを鳴らす。気持ちを乗せて。眩しいこの場所も、音も、透明のグラスで揺れる赤も。すべてが温かい。
――温かさをくれるのはずっと傍にいた、幼馴染。
その存在ひとつで私の心はいつもオレンジ色に染まる。
でも……もしかしたら、この色が変わる日がくるかもしれない。
例えば、ほんのり甘いピンクとかにね?
fin
読んでいただきありがとうございました。