6:Medice, cura te ipsum!
河を渡る。その先にも影の森は続いている。
先程見たものに引き摺られているのか、足取りは重い。なんとなくだけれど、このまま進むことで私はまた……何度もあれを見せられるような気がする。骨人形達は私を心配しているようだけど、その意に反してその存在はその役割は……多分そう言うものなのだ。
けれどそれを越えて行かなければ私は塔まで辿り着けない。
(そう……何も悪いことではないかもしれない)
あれはより私を絶望させて、生を手放すために背を押してくれる役割なのかも。私の未練を完全に断ち切るための。
「……未練だと?」
面白いお節介だな。私は苦笑。今更こんな私に何の未練が残っているというのだろうか。
私の前に立ち塞がるのは小さな池。泳げないことはなさそうだけれど、底は見えない。服でも脱ぐべきだろうか。悩んでいる内にまた一体……私を追い越し溺れて消える。
彼らの犠牲に報いるためにも後を追うしかないだろう。私が踏み込んだ瞬間、あの小川のように池が光り輝いた。
再び鏡合わせの二つの世界。成長した私と私の妹が隔てられた世界の彼方と此方に映る。まだ4,5歳くらいだろうか。今からでは考えられないような喜怒哀楽の表情を次々と二人は見せる。そんな子供の世話をしている黒髪の男が1人。
(あれは洛叉か……)
眼鏡は掛けていないから、気付くのに遅れた。それにしても男というのは間違いか、彼はまだ若い。十分、少年と言っても良い年頃だ。
面白いことに右と左の世界のどちらでも、彼は同じように振る舞っている。
彼もまた今の彼からは予想が付かないような素っ気ない態度。振り回しているのは私の方。この頃の彼はまだ普通だったのか。いや……それにしては見ていないようで私を見ている。私は観察されている。
(なるほど、混血への興味はあったんだな)
昔からあの男は学者肌だったんだろう。そう思うと私の知る彼との共通点が見出せて、少し安心できた。
(…………ん?)
何か違う。二つの世界に初めて変化が生まれた。
右の世界では外で遊びたがる王女。その我が儘に従って、洛叉は庭園へと出かけたようだ。がら空きになる右の世界。残された左の世界では、同じ我が儘を言う王子に洛叉は「王子は身体が弱いのですから駄目です」との一言で、それを切り捨てた。
(私は身体が弱かったのか?)
身に覚えがない。記憶にない。よくわからない。
「とっき、すませみてし治が私。すで夫丈大もで」
洛叉はその一言にだけ……妙な熱意を情熱をもって私に告げた。それが妙に洛叉なのに、洛叉らしくない。私が疑問を感じていると、部屋にやって来る老人。彼も白衣を着ている。彼が私の医者だろう。食事と薬を運んで来たらしい。
「ぞすで理料手の様ーリマは日今、様多由那」
「?!の様母」
はしゃいで駆けていく私。そわそわとしている。ああそうか。なかなか会えない母様が私のためにとしてくれたこと。嬉しくないはずがない。
だけど私の傍で洛叉は苦い顔になる。それに気付いたらしい医者が黙っていろと視線で彼を睨み付ける。
何だ、この光景は。笑みながら箸を進める私は……やがて背中から倒れる。
「?!かのな者医もでれそは方貴」
洛叉が私を抱いて、老人を睨み付けていた。
「んえら逆はに令命」
老人は首を振って、気を失った私を静かに見下ろしていた。
*
物事を確率と計算で考えるようになればもう、お終いだ。洛叉はそう考える。
混血という人種に関しては、確立をねじ曲げる力が作用している。それを理解して尚、確率と計算を考え始めれば、もうお終いだ。
一生かけてあの人の治療を行う。そして普通の人間に戻してやろうと思ったこともあった。そのための知識を俺に授けてくれるなら、神でも悪魔でも……プライドを捨てて崇めてやっても良い。そんな不条理を受け入れることも是とした。魔法や奇跡じゃない、人として俺が……あの人を人に戻してやりたかった。
しかし神という物は、その願いに期限と条件を設けた。俺が得たのはほんの少しの幸運と、これまで見えなかった数術という世界に触れる才。
しかしそれに対して俺の目的達成の難易度はあまりに困難。そしてそれは無意味な物になり果てた。あの人を治すという願いのために、あの人を殺さなければならないというのは矛盾している。それとも一度手に掛けて?そこで普通の健康な身体として生き返らせる?そんなものは気に喰わん。それは俺が治した訳じゃない。第一、あの人はそんなことで喜びはしないだろう。
あの人の身近な人々もカードに選ばれた。その物達を手に掛けることはあの人の怒りを買うことになる。それ以前にあの人は言っていた。
(戦争は嫌だ。暗殺が良い……か)
俺はその訳を問うた。それにあの人は答えた。とても暗く悲しい目で……それなら失敗しても死ぬのは自分一人で済むと。狂王の子でありながら、父とは違う答えを見出した。
今もこうして我々を傍に置くことを、あの人は是とは思わない。だからこそ、いつも一人で暴走、何処かへ行ってしまうのだ。
(リフル様は、本当に困ったお方だ)
自分も決して弱くはない。剣も扱える。あの鳥頭にだって負ける気はしない。だと言うのに唯の一度もあの人の隣で、その背を守らせて貰えたことがないのだ。いつも手当ばかりを任されて……医者の仕事は第一に傷付けないことだとでも言うのだろうか、闇医者のこの俺に?
アルムの診察、ディジットの治療。そして今度は第五公のご子息の世話。金髪のカーネフェル人のその少年は、あの鳥頭などとは違いそれは愛らしい少年ではあったが……
「洛叉、彼のことは食っては駄目だからな」
オルクスの魔の手から保護した大事な人質。それに手を出そう物なら一気に此方の分が悪くなるとあの人は言う。城へと出向く前……あの人は迷い鳥を去る前に、もう一度私に会いに来た。その別れの挨拶はとても酷い物だった。
那由多様は何処まで俺を信用していないのだろうか。あの鳥頭にあることないこと吹き込まれたか。確かに俺は少年少女を愛して止まないが、俺の愛はそこまで真っ直ぐな物ではない。おいそれと手を出す物か。
「ご安心下さいリフル様。彼に手を出すような私なら、とうに俺は貴方を食っていましたよ、タロック時代に」
「当時はまだそういう嗜好と性癖に目覚めていなかったのではないか?」
目覚めていなかったのは貴方の方でしょうに。再会した貴方がそんな風に物を語るようになるなんて、当時の俺は想像さえしていなかった。多少影を背負っていたとはいえ無邪気も無邪気な貴方が、そんな下ネタ猥談ばかりを口にする淫乱殺人鬼になり果てようとは誰が予想していたか。
「兎に角だ!他の者に何かをするくらいなら私にしておけ。死なない程度に相手をしてやる」
そう言えばあの人がこれから出掛けるなんて微塵にも思わない。一番頭の回る俺を欺せれば、姿を眩ませたことが露見するのは遅れるだろう。本当に酷い人だ。
あの人はとても矛盾している。口ではあんな大きな事を言う癖に、内心ビクついていてちょっと触れればそれだけで身体が強張るのを知っている。治療の診察ですらそう。それでもその目は常に人を誘い、内心期待を抱いている。
奴隷時代に刻まれた屈辱と快楽。それが常に彼の中での鬩ぎ合いを行っている。毒を防ぐため、禁欲を気取る様な露出のない衣服に身を包んでおきながら、口から出るのはろくでもない猥談ばかり。そんな危うさこそ彼が人を惹き付ける魅力なのかも知れないと、最近では俺はそう思い始めた。完璧に見えて不完全。それが彼という人間だ。
邪気のない次期第五公の幼い瞳も、立ち去るあの人には何かの興味を抱いたようで、扉の向こうを見つめていた。
「あの人……」
「ああ、彼がリフル様です。フォースから聞いていますかエリアス様?」
「何処か怪我してるの?」
「何故そう思いましたか?」
「だって、痛そうな顔してた」
治せないのと尋ねられ、痛いところを突かれたと思った。彼を治せない俺には自分など治せないと思っているのだろうこの子は。
「あの人は優しい人なんですよエリアス様。ですから貴方が治れば彼の痛みも和らぐでしょう」
「そうなの?」
「ええ、そうです」
最初はそう、あの子に言い聞かせるための言葉。それが何時しか俺にとっての言葉に変わっていた。どこかあの人に似た境遇。重ね見ていたのかも知れない。俺はあの人を治せない。治すだけの時間が無い。確率的に治せない。あの人もそれを望まない。願いとはなんとも独りよがりなものだろう。俺はそんな自己満足のために、オルクスに毒されたエリアスという少年の治療を望んだ。
俺は知っていたのだ。あの人は自分が治らなくとも、そのことを大いに喜んでくれるであろうと。
「……僕はどうせ治らないよ」
「いいえ、治ります。俺が治してみせます」
「でも……」
「フォースやアルムと外で遊んでみたいとは思いませんか?」
「そんなの無理だよ」
「無理ではありません。貴方が望むなら」
「……本当に、治してくれるの?」
「ええ、約束します」
「……じゃあ、僕は何をすればいい?」
「はい?」
「治療ってお金がかかるんでしょ?僕はお金を持っていないし、それにかわることをするのが……」
セネトレアという国で育った少年は、世の中の法則を良く理解していた。しかし無垢な少年は世の中に俺のような生き物がいることを知らなかった。
「お金なら必要ありません」
「でも」
「良いですかエリアス様。私は子供が大好きです。だから治療の対価は貴方の笑顔一つで十分です。それだけでも変態には過ぎたご褒美です」
「……へんたいって何?動物が成長過程で姿を変えること?」
「まだ貴方は知らなくて良いことですよ」
*
「…………」
洛叉は燃える砦を駆け下りる。ロセッタは後天性混血。あの素早さには付き合えない。
行く手を阻む炎も、数術を使えば恐るるに足らず。他のカードが上手く誘導したのか逃げ遅れなどには出会わない。そういう者は既に死体となっている。
埃沙を殺した。俺の妹だ。思ったほど衝撃がない。酷い兄だと思う。俺は安堵していた。あの方の前であんな殺しをしたならば、俺は今以上に嫌われてしまっただろう。
医者を名乗りながら人を殺す。だから俺は医者とは名乗れない。殺したのは久々だが……無感動。何も感じない。半分とはいえ血の繋がった相手だ。それを何とも思わない自分の薄情さが不思議でならない。結局の所、あの鳥頭から学んだつもりのものは俺を何も変えはしなかった。
「数値破り。あんたが何を願ったか知らないけど、あんたは勝ち残っても願いを叶えられないわ」
俺と別れる前、ロセッタはそんなことを言っていた。ルール上、上位カードが下位カードを殺すことはあってはならない。だが、時と場合によっては出来なくもない。俺はそれを犯してしまったというわけだ。
「問題ないな。元々俺は神になど縋って叶えて貰う願いなど無い」
「じゃあなんであんたカードに……」
「願いはある。だがそれは俺の手で叶える。失格になろうとそれは変わらん。数値破りとやらになってもまだカードを殺すことは許されるのだろう?」
「え、ええ……それはそうだけど」
「なら、何の問題もない」
俺が頷くと彼女は尚も何か俺に聞きたがったが状況が状況だ。先に行けと促した。
(願いはある?……馬鹿なことを)
正確には、願いはあった。だがもうない。だからあれで良い。
俺がすべきことは次期第五公エリアス様の護衛。リフル様から任せられた仕事であり……それだけではない、大事な仕事。あのままロセッタを1人にするわけには行かず、それは幸い効を成したが、この件については目を離したことは失策だった。脱出の際に確かめたが部屋には居ない。無事に逃げ出したようではある。
ディジットとアルムが気遣っていてくれた様だからひとまずは安心……とも言っていられない。カードは一般人より幸運。その傍にいれば危ないことはないだろうと思いたいが、カードは同時に危険を呼ぶ。殺し合いの参加者なのだからその傍にいるのは一概に安全とも言えない。矛盾しているが早くその加勢に向かう必要がある。街には略奪者が溢れていたが、俺を追う者は居ない。単に俺が金にならない対象だから……というわけではなく、俺の視覚数術によるものだ。
急ぎ足で俺が迷い鳥を抜け山道に踏入ってしばらく……何者かの気配。待っていたのだろうか。その気配の主が現れる。
「先生!」
「アルム!?」
俺に抱き付いてきたのは薄桃色の髪の混血の少女。見れば彼女の後方には他の人間達の姿もある。俺より先に逃げただろう者達がまだこんな所にいるとは妙な話だ。状況を探るべく俺は俺の視覚数術を解き、エリアスを抱えるディジットに視線を向けた。
「先生!?」
俺の術を見抜いたのはアルムだけだったのか、俺が突然現れたように見えたらしくディジットは青い眼を見開いていた。それでも俺が尋ねれば、冷静さを取り戻す。
「何があったんだ?」
「山を登って下って王都を目指したつもりだったんだけど……多分数術使いに追われてる。何回行っても同じ道に戻されてしまうの」
「なるほど。視覚数術の中に方向感覚を失わせる術が働いているのか。そんなモノまであるとは数術は奥深い」
破るのは容易いが、これは踏み込んだ人間全てに作用する数式ならそれは追っ手にも同じ事。迂闊に破れば面倒なことになりかねない。
ディジットは元々一般人……数術の知識は無いに等しい。おまけに火属性。こういう地の数術を理解するのは難しい。アルムは水属性。相性は良いが、理解できるか破れるかは別の話。こういうのは天敵同士の方が向いているということか。
「こっちだ。付いて来い」
数値の気配。風の流れ。それを読み取り歩みを進める。最初は戸惑っていた者達も、景色が変わるにつれて歓声を上げる。
「す、凄い先生!」
「喜ぶのはまだ早い。裏町までまだ距離がある」
「そうそう。ちょっと警戒解くのが早いよね」
聞こえた声。それはオルクスの……!辺りを見回すが、奴の姿はない。まだ誰かに乗り移ったのか!?
「え、エリス君……?」
ディジットの負ぶる少年を見て、アルムが震えている。見ればエリアス様の様子がおかしい。小気味よい笑い声。それは彼の口から漏れている。
「洛叉さん、貴方は医者という者に幻想を持ちすぎだよ。貴方だって大概あれな癖に」
「貴様っ……エリアス様にまで!」
「この子は僕が弄ってたんだよ?こんな風に僕に適応させていないわけないじゃないか」
オルクスは、治療と称してこの少年を改造していた!?いつでも憑依できるようよりしろとして自身とリンクさせていたのだ。将来この子が第五島を継げば、その口から借りて良いように操れる。それを知ったなら、彼は従順になるしかない。
貴方は病気じゃない。すぐに良くなる。治してみせる。そう告げた時の彼の反応。それはあの人のそれとは違かったけれど、私はあの頃の気持ちを思いだした。こんな俺に僅かに残った医者としての誇りを。
「き、きゃああ!ちょっ、何するのエリス君!こら!くすぐったっ……」
「んー……僕のベルジュローネほどじゃないけどお姉さんもなかなか良い胸してるね。でもこの反応……合格だ」
「……ええと、本当にどうしたの?」
胸を触られるというセクハラをされても、子供のすることだと怒る素振りを見せないディジット。怒って払い落とすくらいしてくれた方が今の場合有り難かったのだが……
「あー!エリス君狡い!アルムだって最近ディジットのおっぱい触らせて貰ってないのに!それはアルムのなんだよ!……片方なら譲っても良いけど両方は駄目ぇえ!」
「あのねアルム……私の胸の所有権はいつからあんたに移ったのよ。あんたもお母さんになるんだからいい加減乳離れしなさい」
「だって手からおっぱい細胞吸収してアルムのもおっきくならないかなって」
駄目だ。この子発想が愉快過ぎる。子供は何を言い出すか解らないが彼女はそれを一回り越えている。
「ていうかあんたが私の胸揉むわ揉むわでこんななったんじゃないかって疑ってんのよ?あと胸肉増えても肩凝るしカップ上がると下着も可愛いのないしセールで買えないし金銭的にも馬鹿にならないんだから。エリス君も故郷から離れて寂しいのは解るけどあんまりこういうことは……」
「狡い!アルムも触るー!」
「いや、……アルム?ディジット?あれはエリアス様ではなくて……おい、聞いているか?」
何故こんな展開になる。俺だけではなくオルクス自身も戸惑っているようだ。この二人、こんな状況で真顔でふざけられるとは。本人達は至って真面目なのがまた困る。敵も味方も微妙な空気になると言うのに気付いていないのか。なんというシリアスブレイカー。
「まぁ、いつまでも脱線されている訳にもいかないんでね」
「き、貴様っ……!何を!」
オルクスが空間転移で取り出すは、一本の注射器。脱線とセクハラを良いことにそれをディジットの首筋に気付かれないまま突き刺した。ここでようやくディジットも何かがおかしいと気付いたようで……身体を小刻みに震わせる。
「な、なんか……」
ディジットの顔は赤く、次第に息が上がってきている。風邪でも引いた?いや違う。あの反応は……
洛叉がオルクスを睨めば、ご名答と言わんばかりの笑みで応える。
「僕もこう見えて向こうでは医者を名乗っていただけあってね、那由多王子の毒は色々調べさせて貰ったわけだよ」
「っ……貴様!!」
「彼の毒は素晴らしいね。ちょっと手を加えれば麻酔や解毒剤、それに強力な媚薬を作れる。まぁ、副作用が大きいのが当面の問題かな。あの毒性さえ何とか出来れば素晴らしい代物だ。彼は鑑賞品ではなく愛玩動物でもなく実験材料として愛でるのが一番いいやり方だ」
それは当然。あの人の体内にある毒は既に世界から失われた毒も数多く存在している。それを上手く抽出し、そこから研究を重ねれば様々な病への特効薬を生み出すことだって出来るはず。しかしその材料があの人の体液である以上、死なれた時点で供給源が絶たれる。あの人が生きる償いを見出すとすれば、俺がそういう薬を作れた時だ。だがあの人の中にはあのトーラでさえ把握できない毒物がある、そういう未知の探求。だからこそ時間がかかる。それでも時間さえあれば、必ずあの人は誰かを救える者になる。あの人の忌み嫌う毒で、人を救うことが出来るようになる。
あの人の毒は、そういう希望の箱だ。それをこの男は、再び絶望の淵へと変えようとしている。毒をもっと酷い毒薬にされ、それで仲間を殺されたりなどしてみろ!あの人がどんなに悲しむか!
「くそっ……」
「悔しい?へぇ、自分の妹を手に掛けても何とも思わなかった貴方がそんな顔をするんだ」
でもそれは誰のため?オルクスが笑う。リフル?ディジット?それともエリアス?
元のエリアスの少年らしい愛らしさなど微塵も残さぬ歪んだ笑みを浮かべるオルクス。今すぐ黙らせてやりたいが、これでは手を出せない。
(あれはエリアス様だ)
「貴方はさ、那由多王子を治せなかったことに後悔がある。だからその那由多王子に任されたこの子は絶対に医者として治してやりたいと思ってしまう。昔の彼を重ねてしまう」
動けない俺を見て、本当に奴は嬉しそうに笑う。この俺を陥れたことを純粋に喜んでいるのだ。
「そうなることを見越した上で、僕が彼を乗っ取るとは思わなかった?この子は僕の患者だよ。心の奥の奥まで脳の奥深くまで僕がたっぷり弄ってあげている」
先程と同じように撃退出来るわけがない。自分の身の安全を確信して後は高みの見物を希望するオルクス。その様子に嫌な予感がひしひしと忍ぶ寄る。
リフル様の毒を用いての攻撃。それを加工した物のようだから毒性は落ちている。しかしゼロには成り得ない。手持ちの解毒剤で治療しきれるかも怪しい。ゼクヴェンツは解毒剤としては優秀だが、毒性は強い。毒に冒された人間の治療だけなら良い。
(しかし……)
ディジットはまだ病み上がりだ。大怪我をしたばかり。それを表面上は数術で回復して貰ったが、それは身体に負担を掛ける。無理をさせ傷を塞いでいるようなもの。今の彼女の身体……その体力、免疫力共に低下している。
場の流れが変わってきたのに流石のアルムも気付き出し、大好きなディジットを傷付けたらしい相手を噛み付くように睨む。
「ディジットに何したの!?エリス君っ!」
「いっつもおっかないへたれナイトに守られてた貴女は、男を知らない貴女は当然こんな媚薬を使われたこともないだろう?そっちのませた子とは違って生娘なんだから」
反応の確認とはそういうことか。あのセクハラは厳選していたのだ。ターゲットとして意味を成すかを。
「その症状は今までみたいに走って逃げるなんて許さない。足手纏いになる。症状を沈めるにはやるしかない。だけどあくまで一時的な物だ。ついでに毒性を快感から出る脳内物質に結びつけた。放って置いても毒で死ぬ。治療しようにも毒で死ぬ」
耳元で囁かれた死の宣告に、赤いディジットの顔が一気に青ざめる。必要最低限の治療器具しか携帯していない。俺もカードだ。他の女子供よりは戦える。だからこそ、治療よりも戦闘を重視した装備をしていた。それが最悪の決め手だった。
「さぁ、洛叉先生?天才って呼ばれた医者の貴方なら彼女をどうするんだい?彼女の心を救うには、どっちの治療をするんだい?ねぇ、店主さん?不可抗力でラッキーって考える?最後に惚れた男に相手をして貰えるかもしれないんだからさぁ!」
そんな言葉を最後に、ふらっと倒れるオルクス。起き上がれば何が起こったのか解らないといった顔のエリアスがそこにいる。
彼は守らなければならない。それでもまたいつオルクスになるかも解らない。今は一刻も早くこの場から逃げなければならない。俺がディジットを背負うのはまだいい。しかし……
「アルム」
「先生?」
洛叉はその場にしゃがみ込み、アルムと目を合わせる。
「エリアスは病気だ。ああやって悪い奴に乗っ取られる病気にかかっている」
「先生、治せないの?」
「アルム、君なら治せる」
「私なら……?」
「彼は君の友達だろう?」
「……うん」
「ならさっきみたいなことがあったら、しっかり彼を呼んであげてくれ。君の声ならきっと届く」
立ち上がり最後に彼女の頭を撫でて、数術で彼女に逃げ道の情報を送り込む。
「う、うわぁっ!え、何?」
「その道の通りに行けばいい。数術使いは君だけなんだ。この人達を守れるのは君だけだ。しっかり西裏町まで逃げろ。そしてTORA本社に逃げ込め、いいな?」
「でも、先生とディジットは?」
「彼女は俺が治して追いかける。だから先に行ってくれ」
心配そうに此方を振り返るアルムに、強く頷けば彼女も頷き返す。
遠離る足音は、出会った頃の彼女よりも重い。それを成長と呼んでも良いのなら、それをそう呼んであげたいと俺は思う。
「立てるか?」
「え、ええ……」
肩を貸しディジットを立たせて、洛叉は周りを探る。他の追っ手が来る前に何処か廃屋か山小屋かを見つけなければ。数術を使って周りの情報を即座に集める。……あった!
「しばらく進めば休めそうな場所がある。そこまで耐えてくれ」
「………」
ディジットは何か思い悩んだ様子のまま、曖昧に頷く。
「先生……私を置いてあの子達の所に」
「……断る」
「でもあの子達が心配よ。アルムを一人にするなんて……エリアス君だってあんな調子じゃ……」
「君はこんな時も誰かの心配か!?馬鹿がっ!今は自分の身を案じろ!」
勝手に口から零れた言葉。それに目を見開いた後、くすと彼女は笑う。
「……?」
「いいえ、何でもないの」
なんでもないわと、ディジットはもう一度だけ繰り返す。そして何だか懐かしいわねと彼女は笑う。
「懐かしい?」
「だって、本当不思議なのよ。だって信じられる?最初に先生と二人っきりになったのって私が人質で、先生が立て籠もり犯だった時じゃない」
「…………」
彼女は笑っているがそんな出会いだったことを思い出し、彼女に頭が上がらなくなる。出会ったときから助けられていたのは自分だった。俺はこの娘に何か一つでも恩返しをしたか?いや……エルムとアルムを引き離し、対立させる原因を作ったのは俺だ。それを一度として彼女が責めただろうか?俺は本当にいつも、彼女の好意に甘えていた。
言い返せない俺に、彼女は尚も昔を懐かしむ。それがどうしようもなく嫌だった。こんな時くらい弱音を吐いて欲しかった。そうすれば俺が医者だ。死なせない。そう言い放つことが出来るのに。それがどんなに難しくても、そう言うのに……それが不可能だと知っているから彼女はそれを言わせない言い回しを企むのだ。俺などより余程頭が切れる。いや、人の心が解るのだ。人を人とも思わずに生きて来た俺をも彼女は人として見るのだから。
「だから不思議だなって。あの時は先生がこんな人だなんて思わなかったから」
「こんな人……とは何だ?」
「お医者様なのね、そう思っただけよ」
*
その少女は俺よりも6つも年下だった。それは奇しくもあの人と同じ年齢だった。まず最初に殺せなかったのは、その共通点だろう。あの人も生きていれば……そんな風に思った。
「どうぞ、紅茶しかないけど」
事もあろうにその少女は、立て籠もり犯に茶を淹れる。命令されたでもないというのに。
「緑茶以外俺は茶とは認めん」
「それなら青と黄色の着色料入れて魔緑にしてやろうか」
あまつさえ笑顔で脅しに来た。
「別に毒も睡眠薬も入ってないわよ。ぼったくりの料金請求もしないから安心しなさい」
そう言って俺の隣のカウンターに腰掛けて、自分も茶を啜り始める。
「でも聖十字に追われるなんて貴方一体何したの?」
「人を殺した」
「へぇ」
「……怖くないのか?」
脅える様子はない。人殺しの傍にいて何とも思わない子供がいるか?
「だってよくあることよ。セネトレアだし。それに人はみんな遅かれ早かれ死ぬじゃない」
それが恐れる事かしら?少女は首を傾げていた。
「もし仮に貴方が本当に酷いことをしたのなら私は貴方を恐怖しない。だけど軽蔑する。唯それだけ」
怖がらせたくて人に恐れられるようなことをしている奴を怖がってやるなんて絶対に嫌と、そんな姿勢が垣間見える。
「唯あいつらに追われる位の悪人にしては普通に見えたから、一体何をしたのかしらと思っただけよ」
「…………」
「ノーコメントってわけ?」
「君に話す意味を見出せない」
「あっそ!ならいいわ!徹底抗戦!私を人質にしたいならそれでもいいわよ。だけどここは私の店。ここに踏み込んだ以上貴方は、あんたは客!それ以上でも以下でもないのよ!」
店主が客に脅えてどうするのよと少女は意地を張る。
「リピーターになりたいって思わせるくらい美味い料理食べさせてやるんだから!覚悟してなさい!」
あくまでその少女は俺を犯罪者と認めない。
「通報しないのか?金が手に入るぞ」
「あのね、言ったでしょ?」
指を此方に突きつけて彼女は言う。
「貴方は客!客の身の安全を守るのは店主の務め!当然の義務!貴方が他のうちの客殺したりでもしない限り貴方も客よ。幸い今日は誰も客がいなくて良かったわ」
「こんな小娘が店主とは、大丈夫なのかこの店は」
俺が金目当ての強盗でなくて良かったなと告げれば、少女は短気にも激昂。
「し、失礼ね!そりゃあ、あの男がいなくなってから客も減ったけど!これでも持ち直して来てるんだから!」
おかしな少女だ。本能的に生きる道を察知しての行動?それともそれは計算された言葉?いや違う。思ったままにそうしている。この少女は本当に俺を聖十字に突き出す気がないのだ。
「…………」
それは僅かな興味だった。
タロックからセネトレアという国に逃れて数年が経つ。人間が如何に醜悪なものかを深く理解した。だからそんな醜悪な国にある、不思議なこの少女の正体を暴いてみたいと思った。取り繕っているだけだろう。どうせこれもあの人とは違う。所詮は人間だ。それを確かめたかった。だから俺は口を開いた。
「……俺は医者だ。今は闇医者だが」
「お医者様?」
「救いたい人がいたが、救えなかった。王の怒りに触れて国を追われた。それだけならまだ良いのだが、他国の国家機密にも関わっているとして聖十字からもあること無いこと罪状を作られて追われたのが気にくわなかったので、とりあえずその罪状全てを現実にしてやったまで」
「へぇ」
「今度はそれが気にくわなかったらしくますます追っ手が増えた。唯それだけのことだ」
「あんなに真面目に仕事する聖十字、初めて見たわ」
「俺にはかなりの懸賞金が付いているからな。それが目当てなのだろう」
「ふぅん」
「それでまだ通報しないのか?」
「疑り深いわねあんた」
呆れた視線を送られる。その後彼女は吹き出し笑う。
「そんなことよりメニュー見なさいよ」
「これはセネトレアにしては随分と良心的な値段だな」
「解った?金儲けがしたいならもっと値段上げれば良いだけ。そこまで私は金儲けに興味がないのよ」
「…………なるほど」
「唯、うちに居座るのはいいけど、一応うち店やってんのよ。この1階占拠されると仕事が出来なくて困るの。そういう営業妨害は困るから地下に移動して貰えると助かるわ。あっちは今空き部屋だし」
「君は俺を匿うと?」
「だって殺されるよりはマシだもの。私はどうでも良いけどこれから買い物に行ってる私の弟と妹が帰ってくるの。あの子達まで人質にされたら堪らないもの。その辺で手を打って貰えると嬉しいんだけど」
信用に値するかは解らない。口先だけでこの場を凌ぎ、後は通報する可能性はある。しかしこの少女は俺の疑い、その推測の域を越える可能性がなきにしもあらず。俺はその可能性に興味を持った。裏切られるならそれはそれで構わない。ついでに前科がまた一つ増えるだけ。
久々に面白い人間に出会った。観察対象にでもしてみよう。そう思って留まったあの店には、次々に面白い人間が増えていった。混血の双子に、セネトレア王子、かと思えばあの腐れ鳥頭のような馬鹿もいた。そしてあの店は再び俺とあの人を巡り合わせてくれた。
あの日の気紛れ。俺があの少女に興味を持たず、すぐに殺していたならば……俺がリフル様と再会することは無かったのかも知れない。
不思議な物だ。混血と、カーネフェル人、タロック人……それがあの店では普通に共存出来ていた。それを壊した原因の一つは俺の好奇心にある。俺は恩を仇で返した。己の知的好奇心のために、アルムとエルムを引き裂いた。満足かと問われれば、満足だと俺は言うだろう。
「……くそっ」
過去を懐かしむ暇など無い。解っているが単純な数術などでは解毒出来ないほどあの人の毒は奥深い。持ち歩いている薬品と毒、それを弄って何とか解毒剤を作れないかと試してみるが、俺はオルクス程人の脳が見えない。数術に触れてきた時間の差は歴然だ。
オルクスがあの様な回りくどい手を打って来たのを察するに、あいつは俺達よりも弱いカードだ。そう、だからあの攻撃でディジットは死なない。いや、そうとも限らない。奴はカード破りの存在を知った。しかしそのリスクは知らない。その禁に触れるため、それを調べるためにこの手を打った可能性がある。つまりこれは奴の実験。ディジットが死ぬか死なないかを試している。俺の足掻きも、俺の諦観も計算で導き組み込もうとするその愚かさ。
(屑がっ……!)
自身の不甲斐なさを噛み締める。そんな色を察してか、古びた寝台に横たわるディジットが俺を仰ぎ見た。
「先生……リフルの毒…………ゼクヴェンツ、持ってるわよね?」
「ディジット?」
「ううん、ドタバタしてたから持ってないならそれでも良いの。……私も持ってる。ほら、何時だったかSuitに入りたいって連中が増えた時期があったでしょ?」
……増えたと言うよりあれは東と西に暗黙の不可侵協定が結ばれた、が正しい。リフルとヴァレスタ、西と東の影の支配者が共に相打ち、死亡したとの情報が飛び交った。となればまだトーラが健在の西を恐れる連中は多い。殺人鬼Suitを飼っていたのがトーラだと露見した所為もある。あれだけの殺人鬼を飼い慣らしたセネトレアの魔女のこと。まだ彼女は隠し球を持っている、だから西は安全。そういう認識が広まったのだろう。
「そう、半年前よ。リフルに代わってトーラに取り入りたいって奴とか、身の安全を求めて庇護を得るためお近づきになりたいって奴とか」
そうだ、あれから西に逃げ込む奴隷達が増えた。それが理想だった。助けを待つという受け身だけではリフル様達の仕事はいつまで経っても終わらない。西裏町を安全地帯とすることで、自ら逃げ出して来てくれる者が現れる。その大脱走が成功すれば、次々にそれを倣う者が現れる。これには奴隷商達も業を煮やしたはずだ。しかし死体の見つからないSuit怖さから、それを奴隷商達は追うことが出来ない。追ったとしてもセネトレアの魔女お抱えの暗殺者達がそれを葬る。そこからまだSuitの意思を継ぐ者の存在を臭わせた。
あの人の不確かな死は、一時的に西をに秩序をもたらした。裏の奴隷商達を束ねる請負組織gimmickの頭とやりあったのだ。奴隷達にとって殺人鬼Suitは救世主であると大々的に知れ渡ったとも言える。
トーラも迷い鳥というアジトを守るために優秀な人材を必要としていた。リフル様もそう。これからもっと大きな仕事をするためには協力者が必要だった。だからその見込みがありそうな者にはコンタクトが取れるようにSuitの手がかりを残した。それがリフル様の血を薄めた毒水。香水のように仄かに香るその小瓶は、人を殺めるほどではないが昏倒させる程度に俺が調合した物だ。それに着色料やら葡萄酒やら混ぜて、薄まったそれに元の色合いを取り戻させる。
仲間入りを申し出る輩にはそれを差し出し、飲む勇気があるならトーラの所まで案内すると告げるのだ。
ディジットもその選別役を任されていた。だから毒の瓶は持っていた。それを思い出したのだろう、彼女は首から服の中へと提げていた小さな小瓶を手に取った。
「解毒できるとすれば多分、これしかないわ」
「……しかし」
この量で足りるかは怪しい。それに彼女の身体が保つかどうか……
「私が食らった毒って、先生が見たこと無い毒なんでしょ?つまりリフルはそれだけ危険な状況にあるって事」
熱に浮かされながら、それでもディジットは自らの見解を述べる。
一通り摂取できる毒に関しては、俺は調べさせて貰った。調べ漏れがあるとすれば……あの人の身体を解体でもしなければ見つからないようなものだけ。そう、言われて気付く。これはオルクスの加工だけじゃない。俺が解らないのはこれまで俺が分析したことのない毒だから。
「ならばゼクヴェンツで解毒できる保証もない」
確かにゼクヴェンツは多くの毒を含む。故にそれを相殺する力を持つ毒。だからこそ紙一重。解毒は確かになるだろう。相殺よりもゼクヴェンツ側が上回れば解毒薬が毒薬に代わる。
「そんな危険を冒すくらいなら、この毒の解析を行う方が賢明だ」
「あのね……私ね、ちょっと前まで貴方のことが好きだった。面白い人だって思ってた」
返される言葉は過去形の告白。それは俺に想いを伝えるのが目的ではないと知れるし、気付いていたとはいえ、この状況だ。戸惑いもする。
「と……突然何を」
「だけど貴方はアスカと同じよ。あの子を見ている。貴方はそう言う人なのよ。素直に見えて素直じゃなくて、器用に見えてとても不器用。……私もリフルのことは好きよ。だから踏ん切りも付いた」
じっと此方を見上げる青はそこに決意を宿している。それはその場凌ぎの治療を、望む目ではなかった。
「エリス君はアルムが守るわ。あの子はもう子供じゃない。立派な数術使いよ。私なんかよりずっと強い。それに……私が一番に考えなきゃいけないこと、考えたの」
「……一番に、考えること?」
「アルムはもう私は必要ない。自分の足で歩いていける。あの子達に置いて行かれるのは私の方よ。そうなって初めて解ったことがある。私はね、もう一回エルムとちゃんと話をしないといけないの。あの子もここに来ている。来ないはずがないわ」
「ならば、尚のこと……俺は」
エルムは殺しに来るはずだ。アルムを。そして他の誰かに殺されるくらいなら、ディジットをその手に掛けたいと願うはず。
「先生、貴方はリフルを助けに行ってあげて。それが貴方が一番今、やりたい事よ。こんな所にいては駄目」
「だが……」
「私はあの子の毒を信じる。きっと大丈夫。あんなに優しいリフルだもの、私を殺しはしないわ。……流石に一人で飲む勇気はなかった。ついてきてくれてありがとう。だけどもう大丈夫。ここならしばらく気絶してても大丈夫でしょ?」
そう言ってディジットは、微笑みながら毒を飲む。
「私が起きた時、先生がまだ傍にいたならぶん殴って軽蔑するから」
そんな物騒な言葉と満面の笑みを残し、彼女はゆっくり目を閉じる。毒と毒が戦いを始めている。その決着がどうなるのかは解らない。
(リフル様……)
ここから去れば貴方は俺を軽蔑するか。
「すみません、那由多様」
それでも俺は……また貴方を助けられないことの方がずっと耐えられない。
小屋一帯を数術で人目に付かないようにする。そして数術の気配を限りなく殺す数式を描く。これが今できるせめてもの……
「……ディジット、俺は君に……貴女に感謝する」
ああ、そうだな。俺も貴女を嫌ってはいなかったよ。長らく興味を持っていた。計算で割に合わないことをする、貴女に興味を持っていた。
(それでも……)
俺にとってあの人は、研究対象などという言葉では計り知れない、大きな存在で。悔しいが、俺は彼女の言うように……あの鳥頭と同じ物なのだ。俺にとって大事なのはあの人の命令ではなく、あの人なのだ。俺は愚かになりたくなくそこから逃げた。だが、俺は愚かだ。それを今認めよう。
邪眼に弄ばれるのが嫌だった。それは俺の心だと信じたかった。だから以前に増して美しくなったあの人を美しいと思うことが嫌だった。それでもあの人は、本当に美しくなった。あの頃以上に、その心が。魅せられて当然だ。それを受け入れるまで、一年半も掛かった。
(リフル様……待っていてください)
俺が貴方を助け出す。その後は幻滅されようと見下されようと、軽蔑されようとも俺にとってはご褒美です。あの人の俺を蔑む目?ぞくぞくするじゃないか。
そうだ、何でも良い。貴方が生きてさえいてくれるなら……俺は。
*
池の中に人形一体、深く沈んでまた消えた。それと同時にリフルが見ていた映像も、そこで途切れる。
「洛叉……」
悔しそうな彼の顔。薬と言われ毒を飲ませられている私を、救えない自分。王の命令に従いそんな処方を施す師。何もかも許せないと彼の漆黒の目が語る。
「私は……」
私は忘れていた。こんなにも彼が私を大切にしてくれていたこと。
「先生っ……洛叉っ」
思わず、来た道を振り返る。けれどそこには道がない。一度進むと決めた以上、引き返せない。そんな暗黙の了解をこの闇は私に迫る。
「私は……私は馬鹿だ」
どうして私はもっと彼を信頼してやらなかったのだろう。誰よりも昔から……私の傍にいてくれた人。私の他人行儀な態度。それが彼が東に行った発端の一つだったのだ。研究のためとか、埃沙のためとか、それだけじゃない。彼は私の態度が許せなかったんだ。
私がもっと彼を大切にしていたら、こんなことにはならなかった。ディジットの店はあの日と変わらぬまま、今日そこにあっただろう。
そう思うと膝が折れ、水面に顔が触れる。気が付けば、池は足が着くほど水位は低くなり、しまいには干上がって残されるのは道ばかり。先を進めと私に促す。
この先に何が待っているのか解らない。それでも立ち止まることは許されていない、それがなんとなく解った。
骨人形達は、私の周りをカラカラ音を立てながら回って踊る。励まそうとしてくれているのだろうな。
私はこれまで何度も死を望んできたけれど、未練というのはこういう事なんだろう。もっと言いたいことがあって、言えなくなること。未練なんかないと思っていても、私の忘れた記憶の中に、私の未練は眠っていたのだ。
「“俺は、約束さえ守れない”……か」
最後に子供の姿の洛叉がそう叫んでいた。城の中では臣下という身分。だから友達にはなれない。そう断る彼に、私はそうだ、言ったんだ。外に出られるようになったら友達になってくれる?と。そうして約束、指切りをした。
「ごめん……ごめんっ……洛叉」
破ったのは私だ。外で再び出会ったのに、私は約束を思い出せず、彼を友とも呼ばなかった。酷い裏切りだ。裏切ったのは私の方だ。
私が彼を、みんなのように先生と……呼び度彼は、傷ついていた。それならもっと呼んであげれば良かった。彼の名前を。
大好きな、大好きだった遊び相手。はじめての、私の友達。そして……多分もう、呼べない人。私の未練。