45:abiit ad plures
いっそと願った。貴女に堕ちてしまえたら。
なんて美しい人だろう。笑う女の深き色。これが本物のタロック人。最も高貴な黒……今の私は、神の使いたる烏を前にした雀。薄い茶色の髪。自分の外見が恥ずかしくなる。
怖い噂は何度も聞いた。それでも対面したタロックの姫は、子どものような純粋なまなざしで。笑った姿は愛らしい。
高貴でありながらはしたない。布面積の少ないドレス。不釣り合いなまでに女性らしい身体との、ギャップに戸惑うばかりである。
「はじめまして、じゃな。アニエス姫。妾のことは母として存分に慕うが良いぞ」
なんて、恐ろしい人だろう。二面性、という単純な話ではないのだ。札を裏返しても、賽子のどんな目を出しても。それはすべて彼女自身。常に刹那姫は刹那姫。彼女はそういう人間なのだ。裏表も側面もない。この世の美徳すべてを兼ね備えた女が、すべての悪徳をも網羅していたに過ぎない。もっと単純な話、彼女はプレイヤー。世界にとってのプレイヤー。一枚一個の札やら賽子などに封じられない化け物。もしかしたら、この人こそが世界そのものなのではないか。出会った瞬間、すべてが無駄だと悟ってしまう。その上で多くの者が惹かれるだろう。一声呼ばれるだけでいい、一瞥くれるだけでいい。命を奪われたっていい。一時でも彼女の慰めになれたなら。この世に生まれた意味も、幸福も、すべてがそこに詰まっている。
(でも……私は)
偽りの光でも、私の赤が宿した誇り。私はセネトレア王、正妻……第一妃の娘だ。その地位を母はこの女に奪われ、命も奪われ、義母を名乗られている。奴の赤目はまだ血を吸い足りない。セネトレアを反映させるためでなく、この女は我が国を滅ぼすためにやってきた。いいえ。暇つぶしの遊びにきただけ。
私が憎悪ばかりの後宮で、生き抜くためにしたことは……恨まれないこと。正妻の娘である誇りを忘れず、他の妃が生んだ兄弟たちにも優しく接する。血を分けた兄弟として、慕い愛した。そうあろうと努め続けた。妃達全員を母と呼び、本物の母同様に憧れ尊敬もした。一瞬でも、一晩でも……何年かでも。父がその方に惹かれた事実は本当だもの。切り捨てるのではなく、家族として抱え守ることこそが、セネトレア王ディスクの娘としての役割。私は兄様のように政治面で活躍できない女の身。母と兄弟たちが安心して穏やかに暮らせる場所を維持することが私の使命。
子どもの頃から十数年、そうやって私が生きてきた箱庭に……この烏は突然やってきて、すべてをめちゃくちゃに破壊した。
箱の中に残ったのは、私とわずかな兄弟と……憎き刹那姫。
「その目だ、アニエス。私を愛さない、その目が一番美しい。だが……御主の“目”は、どこにある?」
私の誇りを打ち砕く、悪魔の一言。どうしてみんなを殺したの、聞けばきっと彼女は答える。可愛い継子……すべてはおまえのためと。
「そう怯えるな。其方の秘密を知る者は、これでもう妾くらいなものだろう?」
海戦の道具として使われた時、私は飽きられたのだと思い知る。あの子が私に代わってしまった。女王の興味は余所へと移り、私はいつ殺しても良い……壊して良い玩具に格下げだ。失った片目から、流れるものは何だろう。血なのか涙か、もう分からない。自分が何を、悲しんでいるのかさえ今はもう。
(……嗚呼、悔しい。私はきっと、悔しいのです)
あの女を憎むのでは無かった。何の関心も抱かず、つまらぬ者として切り捨てられれば良かった。その方がどれほど私は楽になれたか、やっと分かった。
生き延びたこと、死に損なったこと。これがどんなに辛い罰であるのか。
私は私の心を殺せない。刹那に怯え、憎み……囚われ続けている。だから一目でわかった。貴方はあの女ではない。姿形こそ同じでも、目を見ればわかる。貴方は何かを愛している。まだこの世界を、愛している。だって、あの女には守りたいものなんて何一つないんだもの。
あの“子猫”でさえ、もう用済みと貴女は捨てた。
でもそれなら……貴方は、誰? あの女なら確実に。既に数人殺す場面で、まだ生きている。どうして誰も……、殺さない? そんなやり方で、自由が手に入るはずもないのに。
*
手っ取り早くは色仕掛け。味方を増やし仲違いをさせるなら。
おまけに今は姉の身体なのだ、即死はない。とはいえ無駄に狂人廃人を作る覚悟は持てない。この女の身体で罪を重ねたら、二度と自分に戻れないように思えたから。話術で言いくるめられないか、まずリフルはそう考えた。
「だから俺はあの馬鹿姫じゃない! 見りゃわかんだろ! 街に遊びに行ってる方が本物の女王だ!」
「女王陛下はお疲れだ。いえ、サボる口実かもしれませんが。他国からの侵攻を受け動揺しておられる。しばらくはこの書状の通り、ユリウス様に代わり第三公たる私が引き継ごう」
上手くいかない。入れ替わる前に本人が残した書状を出されてしまっては、リフルがいくら別人を演じようとも全てがお遊び茶番となった。カルノッフェルに憑依数術で乗り移った男こそが、セネトレア王その人。この場所のことも政も最も詳しい男である。
「陛下の身の回りの世話は……彼女らがいないな」
「いつもの騎士達は裏町へ、お姫様は陛下が連れ回した後隠したそうで」
「仕方ない。そこのお前達、護衛に付け」
「はっ!」
部屋の警備を固められた。不機嫌な私の顔を見て、憎たらしい男が笑う。然り際、耳元で囁く声は挑発。そして、私がいかに無力化を知らしめる声。
「逃げても構いませんが、貴女は一人きり。城の外は敵だらけ。ここにいるのが安全ですよ愛しい刹那」
なんと腹立たしい。しかし正論。無条件で此方の話を信じてくれる相手がどこにいる? 今の私を見て全てを理解できるのは、情報数術使いのトーラくらいなもの。そんな彼女は、もういない。そしてもう一人いるとするなら……会った事すらない、聖教会の神子。
(参ったな)
ロセッタも傍にいない状況で、どうやって彼とコンタクトを取る? 完全なる孤立無援。この城の主という肉体があろうとも、軟禁状態。城が攻め落とされればセネトレア女王として処刑されかねない。
(仕方ない、残る手段は……)
カルノッフェルは消えたが先の命令により、部屋の前には数人の見張り兵士がいる。
「のぉ、其処な男ども」
扉を開けて、そっと手招き。扉の隙間から甘い声で呼んでやる。
「辺りに女中はおらぬか? この部屋の掃除を頼みたい。どこぞの下女が掃除をさぼっておったようでな。妾の玉の肌がかぶれてしまった。背中が痒くてのぉ……あぁっ、もう我慢ならぬわ!!」
着用している衣服をはだけ、うなじと背を見せつける。
「何をしておる! 早く薬を取ってくるのじゃ!! 一番効く薬を持ってきた者は、褒美に直接薬を塗らせてやろうぞ? むぅ、あちこち痒くて敵わぬわ」
上やら下やら下着のきわどい場所に手を入れながら、かゆがる素振りをしてやれば……見張りは全員その場を走り出す。なるほど、兵士達を数術で操ってはいないようだ。
「し、しばしお待ちください陛下ぁあああああ!!!!」
「俺だっ!! 一番いい薬を取ってくるのはこの俺だああああ!!」
「金はいくらでもはらうっ! 俺に最高の薬を売ってくれぇえええええ!!!!」
あの様子なら、薬剤通りまで買いに行くな馬鹿共は。さすがは絶世の美女の体。最悪この場で襲われる危険性もあったが、怒り一つで首が飛ぶ。そんな女王相手に僅かな理性が勝ったか? 命令に従った上でご褒美の方がまだ、生きて楽しめると考えて?
(まぁいい、敵の手のひらの上になどいられるか)
どうにかして運命の輪と接触し、神子の連絡を取る。それ以外に私に道はない。幸いここは無駄に衣類が多い。これを裂いてつなぎ合わせればロープくらい作れるだろう。兵士が戻ってくる前にことを終わらせなければ。室内に戻ろうとした時、首筋に不意に冷たい物が当てられる。
「答えてください……貴女の兄の名は?」
全員散ったと思ったが。近くにまだ一人居たのか。背後を取った兵士は恐れ多くも女王の体に剣を突きつけ、質問をする。
「それでお前が本物か、影武者かはっきりする」
上手い質問をしてくる。私がティルトであれば当然それを知っていて、刹那であればそんな些事を覚えていない。数秒答えられないだけで剣が薄い皮膚まで触れてきた。いつもであれば流れたこれが武器になるというのに不便なこと。どうしたものか。私は丸腰。使えるのはこの口くらい。女王であると確信を得れば、こいつは私を殺すつもりだ。
「……“ユリウス”」
答えた名前は賭けだった。オルクスに殺された、セネトレア宰相……セネトレア王子だった男の名。そしてその男は……
「ふざけるなっ!! お前のような“きょうだい”がいるものかっ!!」
怒声と共に、私の傍で小さな爆発。何かを投げつけられた? ちがう。爆発したのは耳飾り。頬につき札痛みがあった。破裂した……床に落ちたそれからは、装飾の宝石が欠けていた。至近距離から土の元素に作用させ、砕いたのか?
(まずい!)
気付いた直後、首飾りをはずそうとしたが間に合わない。今度は砕くのではなく、成長させた!? 宝石は氷柱状に変形し、私の喉に突き刺さる。気付いたおかげで即死は免れたが見事なものだ。
「捨てるのですが、それを。それは、この国で最も重いものなのに」
正当なるセネトレア王の証し。国より己の命を選ぶ愚か者と責める声。あの名前への反応、そしてここまでの怒り……ならばこの者の正体も自ずと限られてくる。
こちらをいつでも殺せる状態の相手を見つめ、己のカード……手のひらの数値を掲げてみせる。私はこの状況からでも、逆転できる切り札そのものだと。
「私は、……敵じゃない。“アニエス姫”」
ディスクの話にヒントがあった。行方不明の王女の名。どういうわけか、雲隠れしたお姫様は兵士に扮して城に戻っていた。あの女が隠したというより、逃げられたのを自分の仕業に見せかけた。セネトレア王女は、刹那を殺すため城からカードが減る隙を窺っていたのだ。
「……貴方、“誰”? 確かに。あの女ならあんな真似はしない」
「見張りのことか。本人なら魅了して殺し合わせでもするか?」
「こんな状況にすらならない。なる訳が無い。でも……貴女は、あの子でもない」
「これは助かる。視えているんだな……」
視覚開花がなっている。そして先ほどの攻撃。数術使いだこの人は。
そっと兜に手を伸ばしても彼女は動かない。下から現れた素顔は、茶色の髪に赤茶の瞳のタロック人。肩口までの短い髪は不揃いだが、艶やかで元は美しかったのだろうと思う。顔立ちも愛らしく、隻眼であるのが勿体ない。可愛いお姫様をこんな風にしたのは……この体の持ち主に決まっている。
「先ほどの問いに答えよう。兄様は既に亡き人だから答えられんが、姉の名は“刹那”だ」
*
「遅かったのぉ、妾に薬を届けてくれたのはこの女中だったぞ? 愛い奴愛い奴ぅ♥」
「やめてください」
「ということで、あの猫もおらぬしな。妾は下女と楽しくしておる故、何人たりとも部屋に近づけぬように! いい子にして居れば、明日か明後日か……一通り試して物足りなくなった頃、声を掛けてやるやものぉ」
リフルはアニエス姫に簡単な計画を話した後、彼女を一般的な給仕服に着替えさせ、世話役として傍に置くことにした。
戻った兵士にも、適当な言葉であしらう。この城の奴ら馬鹿すぎないか? こんなことなら簡単に暗殺に入れただろうになぜ出来なかった? いや、それもこの体だからか。女王に魅了された連中は、簡単に従えさせられるが、忠実なる下僕。女王の愛を勝ち取るために、城の守りは強固となる。
兵士から姫の顔が見えないよう配慮したが、女王がすぐに人を処刑するため人の出入りが激しいのだ。まして、ここにアルタニア公の体で戻ったセネトレア王ディスク……奴が手引きした配下が増えている。王本人であれば娘の顔に気付くはずだが、……一般兵はその程度。
〔私の事なんて、みんな忘れていますよ。貴女が来てから、誰だってそう。他のものなんてかすんで見えなくなってしまう〕
随分と悲しいことを姫は言う。
〔そうか? 貴女はこの文字のように美しく見えるが?〕
返す言葉に、彼女は面白いよう取り乱す。
〔その姿で言われると複雑ですが、ありがとうございます。ですが、こんな馬鹿な方法取る必要あるんですか?〕
〔すまない。咄嗟に出来た真似があれだったんだ。一応貴女の正体は隠した方が良さそうだったから誤魔化したが、それで問題なかったか?〕
〔ええ。その点は感謝します。裏町へ行った騎士達が帰ってきても困りますから〕
私は彼女と筆談をしつつ、適度に腰掛けた寝台をギシギシ言わせ真顔でサービス嬌声を発する等馬鹿な真似を続けていた。その後、一通りの説明を終え……メモは暖炉で全て燃やした。
(そもそも、こんなことをなさらずとも……何か触媒があれば)
(わかった。探してみよう)
室内を探ってもたいした物は出てこない。自分で何か持っていないか確認すると……体に違和感がある。下着のワイヤーとは別に硬さのある物が入っていた。
(……聖十字の、耳飾り?)
なぜ姉様は胸の間にこんなものを隠していたのか。思い当たる人物の顔が浮かんで、視界がにじむ。あの女は私と入れ替わることが解っていて、これを残した。ラハイアの死を、誰が彼を殺めてか……それを忘れるなと言うために。
「……仕方ありません、これを。盗聴防止の数術を刻みました」
どこから取り出したのか、お姫様の手の中から宝石が現れる。彼女は先ほど、花瓶の方を調べていたが……? 飾られていた花が減っているような気がする。
「ありがとうアニエス姫。これは持っているだけで良いのか?」
「ええ。不要になったら土にでも埋めてください」
「……ええと、何か?」
「やはりあの女ではないようですね。あいつが私にお礼を言うはずがない」
じっと顔を覗き込まれて目を逸らす。魅了邪眼が手元になくとも、つい出てしまう長年の癖。
「そして何より……そのカード。視覚数術でもないようですもの」
「ははは……なんだか妙な感じだな。まさか正真正銘セネトレア王族とこうして話をする日が来るとは。いやトーラやロイルもセネトレイアではあったわけだが」
「他のきょうだい達の話も気になりますが、それは後でゆっくり聞かせてください。あまり時間がないんです」
「では、奴のこと……こちらが聞かせてもらう時間はあるか?」
少しなら。そう前置きをしてアニエス姫は頷いた。
「刹那は、この国を勝たせる気が無いんです。セネトレアを守るには、戦いを終わらせるには……シャトランジア・カーネフェル軍にあの女を差し出すしかない。私はあいつを殺すつもりでした。みんなを城から遠ざければ……あの女と二人きりになるチャンスはあったのに、駄目だった……」
第五島に出向いた際、刹那を殺すチャンスがあった。失敗して片目を奪われた。というのがことの顛末。私が眠っている内に、戦争が始まったとは聞いていた。第五島での戦い……シャトランジアとの海戦で、アニエス姫の能力が使われた。上位カードは元素に愛されている。セネトレア王族である彼女は土のダイヤ。相性も身分もおそらく釣り合う。
「そうだろうか? 貴女がAでもない限り、やれそうなものだが」
「あいつには厄介な女騎士がいます。タロックに一人、ここにも一人。タロックの方……天九騎士の女の力によって……刹那は絶対の幸運に守られている。今だって、あいつは危険な場所から逃げ出した! 弟である貴方の体を奪うことで!!」
姉は男にしか好かれないと思っていたが、どうやら事情が異なる様子。故郷から付き従った騎士がいたとは初耳だ。私は自分の騎士を思い出し、……思いの強い者ほど思い通りにならないものだからなと何とは無しに思いを馳せた。異母姉もそういったイレギュラーを好んだか。本当に彼女は遊んでいるな、人の命や世界をおも巻き込んで。戯れのよう生きている。
「まぁ、それでも腐ってもうちは暗殺組織だ。逆に考えれば、彼女の方が窮地だよ。自分より強いカードの強敵だらけ、そんな暗殺者集団の中に飛び込んだんだあの人は。その気になれば私の仲間は彼女を殺せる」
「不可能です。あの女自身が、自分の死を望まない限り」
「望んでいると思うがな。だから私に恨まれたいのだろう」
私が吐いた言葉に、アニエス姫は驚愕していた。
「……貴方は。こんなことになったのに、あの女を憎んでいないというのですか?」
「誰より大事な人を殺された。絶望はしたよ。生きる意味などないと一度はすべてを投げ出した」
一時憎みはしたが、短期間に色々ありすぎた。何というかあれはもはや歩く厄災としか思えない。審判的にも世の中的にもないほうが良いから排除したい。そも身内の不始末。
そう思える出来事があった。立ち直る機会を与えられた。だからこう思える。
「だが悲しいかな。心底惚れ直した。彼は死んでしまったが、彼の生き様は……高潔な魂は、私の胸を焦がし続ける。女王に対し一矢報いた。いいや、あいつが勝ったと私は信じている」
彼の十字架を手にするだけで、あふれる想いがある。奪われても、希望として残り続ける光だ。私が歩けなかった道を、最後まで駆け抜けた彼が眩しい。この心に私は永久に囚われ続ける。
「……思い出しました。あの、聖十字の……そうですね。ティルトと刹那の関係が、変わったのもあの日からだと思います」
アニエス姫も、当然知っていたか。あれは城の中での出来事だ。
〔アニエス姫。城内の異変は私以外になかったか?〕
再び筆談になった私に、彼女も事情を察してくれた。別の身体を乗っ取っても、カードが変わらないのなら。セネトレア王はアニエス姫以上に土の元素に愛されている。彼女にできることは、それ以上の精度で奴にもできると考えた方が良い。
セネトレア城は木造ではない。城は土の元素でできている。石材への響きを調べることは可能だろう。防音数術を破ることはできずとも“音のない不審な空間”には気づける。彼女はそこで、知らない声を感じ取り私の前に現れた。同じ肉体であろうとも、人格……感情が異なれば、声の印象は変わる。私が偽物だと気づいた彼女なら……父親がどこにいるかも調べられるに違いない。
〔あの男は、城から消えたようです。それから……ここに、奇妙な空間が〕
アニエス姫は、サラサラと城内の地図を書き記す。
〔罠かもしれないが、調べに行ってもよいだろうか? 幸運だけなら残っている。可能な限り貴女を守ろう。そして、この城から逃げよう〕
〔逃げるなんて、言われたの初めてです。ずっとここが、私の家だったから〕
行く当ても帰る場所もない。死以外に逃げる場所も。そんな悲しみを秘めた言葉が返ってきた。
〔それならどこにでも。何処にでも行けるよ貴女は。美しい二本の足がある。足りないなら手を貸そう。こんな汚れた手でも構わなければ、お嬢さん〕
少しキザすぎたか。恥ずかしくなりつつも、片手を彼女に差し出せば。思い切り胸に飛び込まれた。気丈な姫が泣いている。この子は敵に弱みを見せぬよう、たった一人で戦い続けてきたのだ。この子は異母姉の被害者だ。私はどんな手を使っても、ここから救い出す義務がある。今なら、この身体を使う覚悟もできる。
しばらく彼女の背中をさすっていると、落ち着いたのか身体を離す。
「ごめんなさい……那由多様は殿方ですのに」
「い、いや私の方こそ姫君に対し失礼を」
本当に申し訳ない。逆に癒やされていた。抱きしめても人をすぐに殺さない身体に感動している。人はこんなに温かかったんだと実感した。私の妙な反応に、アニエス姫はクスクス笑う。
「あいつは消えたから、もう筆談は不要ですね。行きましょう、那由多様」
「あ、ああ」
今度は私が手を差し出されている。そっと触れれば温かい。城のことは彼女の方が詳しいな。案内を頼むことにしよう。
トーラを重ねたわけではないが、アニエス姫を他人とは思えない。ひとまずディスクやヴァレスタのことは考えないようにして……ロイルの件もある。きっとこの子が最後のセネトレイア殿下だ。守れなかった、死なせてしまった人の分も助けてあげたい。
ささやかな私の願いに呼応したのか、手のひらの紋章が僅かに輝いた。その後の出会いと出来事こそ……幸福値の導きか? 運命の車輪はカラカラ回り、我々にとって忘れられない出会いをもたらした。
まだ幼きカーネフェル王、聖十字の聖女……そして、すべてを覆す《運命の輪》。嗚呼、私は影なのだ。改めてそう思う。私が歩けない道を見た。光はまだ消えてはいない。ならば私は、まだ……歩ける。
*
「何事かと思いましたよ。女王陛下は捕まったものだと聞いていましたから」
少々かび臭い薄暗い密室。窓もない地下。何に使われていた場所なのかしら。考えたくもない。でも秘密の話をするにはふさわしい場所ではある。
「まぁ、腐っても我が弟というわけよ」
「大馬鹿姫! 当てが外れてんじゃない!!」
ロセッタは怒鳴らずにはいられなかった。第一島に上陸して、届いた話は散々なものだった。再会した赤目の幼なじみは、問題の人物につけられてはいないが長居はできない。今の彼は、仮にも東側の主なのだから。
グライドからgimmickの隠れ家に呼び出され、第一島の現状を教えてもらっているのだが……喜んでいるのは馬鹿姫こと、リフルの体を乗っ取った刹那姫ただ一人。
「頭が痛いのはこっちですよ。今の手札で“彼女”に対処できるんですか? ティルトさんはあれでもコートカード」
「おお、愛しの美少年。相変わらず愛い奴よ! むぅ? 妾の体で迫った時より良い反応を……? うむ!! 理解したぞ!! 抱いてやろう!!」
美貌だけで生きてきた刹那姫。他人の心の機微はどうでもよくとも、殊に劣情欲望へのセンサーは異様に鋭い。グライドのリフルに対する……そしてヴァレスタへの複雑な思いを、出会い頭に蹂躙するな。もし仮に……銀髪男二人のどちらかがこのくらいのクソフットワークで迫っていたら、グライドの事情やコンプレックスが吹き飛び、先の抗争の展開が変わっていたかもしれないのが心底嫌だ。
「やめろって言ってんだろ!」
私より早く、今度はフォースの馬鹿が手を出した。手袋ごしに馬鹿姫に一発げんこつをくれてやる。怒りはもっとも。今でもグライドは、フォースにとってある種の聖域なのである。混血となり、この手も体も汚れた私にも……神子様には及ばないが、彼は眩しい存在だ。
ヴァレスタに先読み能力はないはずだが、商人故の先見の明か? グライドの価値を理解していた。このくそったれた国で、最悪の裏街で体が欠損しても。それでも彼は東の主の庇護を受け、清らかなまま生きていたのだから。
(……“塔”のためにも、彼のことは守らなきゃ)
他の男連中の事情を一人一人確認するのも難しいし、すぐ寝所に連れ込もうとする刹那姫の前ではとても言えない。
「其方らは主君に手を上げるのか? なんと命知らずな」
「リフルさんの時はやらねーよ」
「私はあの変態でも殴るわよ」
「おまえ達その辺にしておけ。怪我の具合は刹那様?」
馬鹿がもう一人いた。闇医者洛叉は外見がリフルであればそれでいいタイプの変態だ。中身が残虐非道な血の女王でも構わないとは体目当てのクソ野郎。
「まぁよいよい。那由多のことは理解した。ということで美少年、この果たし状を奴へと送りつけるが良い」
「うわ、気持ち悪い……なんであんたあの馬鹿の筆跡完璧にマスターしてるのよ」
「ふむ。そこな闇医者に代筆させたのだが?」
「何でもできるところが俺の欠点とはよく言ったもので」
「できて良いことと悪いことがあるでしょうが!!」
「まぁ、落ち着けよロセッタ。今回に限っては良いことかも……だし?」
闇医者の奇行に思わず叫ぶ。フォースなんかに窘められてちょっと悔しい。
「まぁ……でも、ここで問題になるのは、やっぱアスカだよなぁ」
「そうね。この状況、知らせずに割り込まれたらこっちも死人が出るわよ」
「だと思って、身動きが取れないよう縛って隣室に転がしておきました」
仕事が早い。グライド容赦ないな。味方になると心強くてやっぱ好き。開かれた隣室からは、酷く動揺した猿ぐつわ状態の金髪男が転がっていた。
「ほぅ、この鳥頭を相手に見事な手腕だ」
「はい! 私がやりました!! そんな姿の貴方様も素敵……❤」
感心する洛叉に向かって生産者表示みたいに言う馬鹿一人。今でこそ金髪青眼。本来なら黒髪の……外見色こそ違うが、この女には見覚えがある。
(め、メディアあんた!)
(やほーソフィア、久々ですね。那由多王子と関係進みました?)
(進むわけないでしょうが!! あいつの中身馬鹿女王になってんのよ!?)
運命の輪№15、事後処理班。記憶消しのメディア。仲間割れを誘うようになったリフルの魅了能力を押さえ込むに、神子様がこいつを配置してくださったのは本当にありがたい。ありがたいが、この恋愛脳だけどうにかならないものかしら。
(あんた……そいつのことどう思おうとどうでもいいけど、仕事だけはしっかりしなさいよ)
(あら……? ソフィア気付いてないんです? 私たちの“神子様”もう殉職されましたよ?)
(……え?)
何それ、知らない。聞いてない。どういうことなの説明しなさい! 大声で怒鳴りたいけど、今じゃない。対アスカの潜入任務をしているメディアの前で、私たちの関係は明かせない。少なくとも彼がいる場所では。
(可哀想に。イグニス様のカード、ソフィアのところに来なかったんですね。あんなにあの方を慕っていた貴女のところに。それじゃ、ルキフェルのところかなぁ)
「馬っ鹿じゃないの!!」
しまった。逆鱗に触れられ思わず奴を怒鳴ってしまった。私は怒りを隠すことなく、シームレスに誤魔化し移動。転がされているアスカの縄やら鎖やらを取ってやることにした。そうよ、私が怒っているのはこんなことをされている彼に対してなのよ。誤魔化せたかな。
「酷いことするのね。こいつだって一応仲間なんだし。もっと信頼してやりなさいよ。縛るなんて……」
「た、助かったぜ……ありがとなロセッタ」
みんな余裕がないのかアスカ以外も割と騙されてくれたみたい。愛しの彼の好感度を稼ぎやがってとメディアが怒っているが仕方ない。先に喧嘩を売ったのはあんたじゃない。言い値で買いなさいな。
「果たし状は良いんですけど、全戦力は割けませんよ陛下。よりにもよって、指定場所がライトバウアーだなんて……」
「この身体にとって、そこ以上にふさわしい場所はなかろう? 猫を抉りいたぶるにもちょうど良い場よの」
グライドの苦言も、刹那姫は笑って一蹴。リフルとは違う邪悪な笑みに、これまでの話が真実だったとアスカもようやく受け入れていた。
でもこの場の誰しも、一度はこんな彼を望んでいなかったか? こんな邪悪な男であれば、彼を討つこと憎むこと。苦しむ者はいなかった。邪悪の化身を宿しても、彼の美しさは揺るがない。より完成された存在に近づいたようにも思う。この男が次代のタロック王だと言われたら、混血という事実さえ忘れ、皆容易に平伏すだろう。この男を手に入れられるなど思うな。決して手など届かない。只ひたすら頭を垂れ、首を切られる時を待つだけだ。カードの相性も数値も関係ない。彼が望んだとおりに、この世界は回り続ける。
そんなの、私は御免だけど。
カーネフェル編(6恋人【逆】)とどちらでどこまで書くか悩みつつ、どちらも進めたくて迷っています。
仕事や活動が忙しい一年ですが、時間を見つけて続きを進めていこうと思います。
ライフワーク作品を、書ける喜び。書き切りたい。本当に。いつも……いつまでも見守ってくださる方々、ありがとうございます。




