36:Excitabat fluctus in simpulo.
先を急ぐのなら、あいつの足は遅すぎる。背負おうか、言い出す前にあいつは彼女に奪われた。だけどリフルが振り向く、俺を見る。リフルが笑ってる。何がそんなにおかしいんだ。何がそんなに楽しいんだよ。不思議なくらい、あいつは嬉しそう。
(俺が、馬鹿みたいだ)
アスカはそう自嘲する。どんな顔して会えば良いのか。何を言えば許されるのか。そんな思いも吹き飛んだ。
(俺なんかのために……)
苦しいだろう、辛いだろう。それでも泣いてくれた。ほっとしたように俺を見て……。いつも通りを装う仮面すら、剥がれて俺も泣きそうになる。嗚呼、だけどそれは許されない。得意だよ俺は。嘘を吐くのも仮面を付けるのも。これから死ぬまで、それを続けることが俺の義務で責任だろう。
(こいつがこれ以上、悲しまないように……!)
例えこいつが死ぬ運命なのだとしても、どうかその日まで笑っていて欲しい。幸せを感じて欲しい。そこに俺が含まれていなくて構わない。俺は俺についてのことは何もかも諦める。だけどこいつの幸福については何一つ諦めない。嗚呼、俺らしくもない。でも、いいじゃないか。今までリフルがしてきたことを、俺が真似して耐えるだけ。
「何笑ってんのよ」
「いや……」
俺の疑問をあいつにぶつけたのはロセッタ。そうだ。状況は最悪だ。気が触れたと思われてもおかしくはない。
「相手はとんでもない成長を遂げた大精霊よ?人格とかそんな物もう消し飛んでる……怨みと悪意だけが残った無精霊!毒とか騙し討ちとか色仕掛けとか……あんたの得意なこと、一つも効きやしない。数術使いでもないあんたに何とか出来ると思ってるの?」
「まさか、私に出来るわけがないだろう」
「はぁああ!?」
「だからアスカとロセッタを連れてきた」
「ぐっ……」
こいつも言うようになったな。口でロセッタを言い負かすとは。……なんて感慨に耽っている時間はないか。実質問題、俺達三人でどうにかなるとは思えない。
「でも具体的にどうすりゃ良いんだ?俺の数術と剣術、それからロセッタの教会兵器でどうこできるレベルの話か?」
「残念だけど……私そろそろ弾切れ。元々のこれに仕掛けられてる技はあるけど……水相手じゃ相性最悪」
しばし全員が無言になり、勢いが増した雨の下……進む足も一時止まった。
「そ、そもそも……相手はあの雲の上か中にいるわけでしょ?んで、この中に空間転移を使える人間は居ない。でもあんたは可能性のありそうな……あの混血ロリとか闇医者は連れてこなかった」
何か考えはあるの?ロセッタが混乱を隠すよう、無駄に落ち着いた声で問いかける。
「……まず咆吼の聞こえる方へ、一番雨脚の強いところへ行く。恐らくそこが、あの精霊の真下だ」
「防音数術あっても、かなりきついわね」
クレプシドラに近付いてきているのだろう。防音数術は切れていないのに、頭がガンガンする。この状況で戦えと言われても、全力出せるかわからない。
「ロセッタ、一度ゴーグルをかけて私の方を見てくれないか?というかアスカ……お前は気付いていそうな物だが」
「は?」
「え?」
リフルに言われて俺はリフルを……いや、その近くにある気配を読み取る。今まで気にもしていなかった……というかリフルの方ばかり見ていて、ロセッタの纏う物に気付いていなかったのだ。
「炎の……精霊か、これ」
「この数値……、フェスパァ=ツァイト!!どうして……適合者はもう現れないって言ってたのに!!」
「……本気で気付いてなかったのか、二人とも。ロセッタが……先程東の人間を叱りつけた時にくっついてきたようだが」
「グライドとシンクロできなくなっても、近くを彷徨いてはいたのか……それで私に」
聞けばそれは元々あの坊やが持っていた精霊らしい。俺が東に居た頃は、そんな気配も感じさせなかったんだが。疑問を口にした俺に、ロセッタは言う。
「そりゃそうよ。無精霊って膨大な元素の塊みたいなものだから、意思もないし会話も出来ない。だからあのクレプシドラを口先でどうにかするなんてのも無理」
「そうだろうか?」
「な、何よ?」
「エルムの死を悲しみ、その遺言を果たそうとしているのなら……クレプシドラは無精霊ではない。心も意思もまだ残っているはずだ」
「なるほど……確かに一理あるぜ。それでお前はその精霊を使ってあの雲を燃やし尽くすつもりか?」
「無理よ!フェスパァ=ツァイトは、資格のない私じゃ完全には扱えない。だからこんなに弱体化して……」
「なんかそれ……人魂みたいだな」
「聞いたことがあるぞ、妖怪だな」
「あんたらうっさい!!なんで変なところであんたら息ぴったりなの!」
リフルに一発頭突きをし、俺にも蹴りをくれてくるロセッタ。攻撃をされたというのにリフルはやっぱり笑っている。
(ま、まさか……!俺が色々やらかした所為で変な趣味に目覚めたんじゃ)
恐る恐る二人を見るが、俺の視線に気付いたリフルは、俺の考えを見越したようにクスリと笑う。本当に、今のリフルはよく笑う。そういうあいつを見ているのは、俺も嬉しいはずなのに……何か心が落ち着かない。暴走とかそういうのではなくて、……不安のような。
「アスカ」
「は、はい!」
「……?」
驚くことは無いだろう。だってのに、俺はあいつに名前を呼ばれただけで、ビクリと肩を振るわせてしまう。ロセッタはそんな俺を困ったように眺めていた。
「リフル……こいつ大丈夫なの?」
「大丈夫も何も、アスカは数術使いだ。ロセッタとはまた違う意味で数術には詳しいだろう?」
俺の見解を求めるよう、リフルは言う。そう言われれば彼女も食い下がりはしない。
「あんたって、本当どうしようもない馬鹿ね。あんな目に遭って、まだこいつを本気で信じているんだから。救われないわ」
「仲間だからな。お前のことも」
信じているさ。静かに告げたリフルの言葉。付け加えられた言葉はロセッタに対する物。この不意打ちには流石の暴力嬢ちゃんも狼狽えている。
「あ、ああ、ああああんたねぇえええええ!!」
「おいリフル、こんな時に嬢ちゃん口説いてどうするんだよ」
「可愛いじゃ無いか」
「か、可愛いか?」
「ああ、一生懸命で」
「まぁ……そりゃそうだがよ。あれって全部神子の命令なんだろ?」
「職務に忠実な人間は好感が持てるぞ?似ては居ないが……あの精霊が憑いた理由が、私にも分かるよ」
彼女を聖十字の誰と重ねてか。そんなの聞かなくても解る。気が滅入りそうにもなるが、自分を連れてきてくれたのだ。俺がここに居ることにも、意味があるって俺は信じるさ。
(だが……)
元がどんな物だったのか俺達にはわからない、ロセッタの肩に張り付いている小さな炎……それがこの状況を打開する策になり得るのか?どうにも頼りない、微妙な感じの元素だ。
「俺のこの触媒剣は多少の風は操れるけどな、火なんかどうするんだよ」
「一応数術学の理屈としては、火と風は相性最高だけど……」
「……今回私は両目を失ったが、それでも魅了の力は消えはしなかった。精霊は毒殺できない。だが、私の血は……私の肉体の、魅了の力の一部だと言えるのかも知れない」
「えっと、つまりなんだ」
「視覚数術は高等数術。モニカがいなくなった今、アスカ一人じゃ扱えないはずだ」
「……返す言葉もねぇ」
「ロセッタも視覚数術の弾は切れたんだったな」
「……不可視数術使いすぎたわ」
「上手く行くかは解らないが……私の毒で、精霊を狂わせる。魅了の力で見たい物を見せてやる」
目的の場所に着き、自分の足で立ったリフルが俺達に告げた作戦。それは本当に賭けのような物だった。
「俺が風数術で、この炎の精霊の力を増幅する……?」
「それで私が雲に炎の矢をぶち込ませて、穴を開けるのね?」
「ああ。クレプシドラは血水の精霊……後は私との根比べと言うことだ」
「お前は本当……治した先からそうやって」
モニカが最後の力で治したというのに……こうして身を削るしか方法がないなんて。
リフルは平然と自らを傷付け血を流し始める。この降り続ける雨は、クレプシドラそのもの。雨水は地に染みこみ、流された血を吸い上げ、糧とし数値を増していく。
ならば水に触れる血に、リフルのゼクヴェンツが混じればどうなるか。血も肉体の一部なら、僅かに魅了の力はあるだろう。リフルをエルムと誤認させられるほど、相手を狂わせるには……いったいどれ程の血が必要なのか。最悪、本当にリフルはここで死んでしまう。
「何中途半端に泣きそうな顔をしているんだ?」
泣けもしないのに。嗚呼、だから辛い。
「何笑ってんだよ、本当……お前は」
俺が辛そうな顔をしているのに、リフルはいつも通り冷静だ。いや……いつもより明るく見える。やっぱり嬉しそうなのだ。
「……さて、な」
「おい!」
ここではぐらかすのはなしだと文句を言えば、くすくす笑いながらあいつが答える。
「私はずっと……私なんか、Suitで……人殺しで良いと思っていたんだ」
「……リフル」
それは、どこにも属さない誰か。だけどこうして窮地に陥る度に、他者の存在を強く知る。自分は弱いからいつも助けられてばかり。毒と邪眼が孤独を強いても、決して自分は一人ではなかったと……過去と今を強く見据えた瞳でリフルは言った。
「那由多を名乗る時は……王子としての責任を取るとき。その後は何時だって、辛いことが訪れる」
その名を名乗っていたとき、こいつは殺され……今度はその名であの女王に目を付けられた。そして……ラハイアの命が奪われた。本当の名前が、こいつにとっては呪わしい物。
だけど、こいつは……さっき何と名乗った?そうだ。俺がマリー様から託された……こいつに伝えたその名前。
「知らない誰かのためじゃない。私は私のために今ここに居て、だけど守りたいと思える。責任ではなく……本当に。フォースだけじゃない。グライド……彼を見て、私は東を……人を信じてみたいと思ったんだ」
命を奪うことしか出来なかったリフルが、命を救う者になれるかもしれない。なろうとしている。それなら俺は、これがどんなに無謀なことだって……絶対に叶えてやりたい。
「これを上手くやり遂げることが出来たら、私は初めて……那由多の名に恥じない人間に、王子になれるのかもしれない」
(その理屈だと、俺は一生王子になれねぇよ……)
苦笑する俺を、あいつは不思議がっている。ますます俺は俺の正体を伝えられない。多分俺が王族になる日も、その資格を得る日も来ない。
(こいつがロセッタを連れてきたのは……ロセッタが聖十字だからとか、精霊とか教会兵器のためだけじゃなかったんだな)
王子としての決意を、覚悟を。仕える俺に、償うべきロセッタに見せたかったんだろう。
(モニカを失った俺に……どれだけのことが出来るか解らない)
この数術に幸福値をどれだけ持って行かれるか解らない。それでも覚悟を決めて俺はダールシュルティングから、ハルモニウムを抜刀。風の元素を集めロセッタの精霊へを送り込む!幸福値が何時尽きるか、そんな不安はあった。だが、思ったより消費が少ない。
(リフル……!)
コートカードに振り分けられた幸福値。それで俺の負担を減らしてくれているのか、お前が。心中する気は無いと言いながら、こんなことしてくれるなよ。俺だけ使い捨てて死なせれば、他の奴らへの面目も立つだろうに。
(いや、死ぬ気は無いって……ことだよな)
だからまだ俺が必要だ。そう言ってくれている。そこまで言われたら、俺はやれる。もっと頑張れるはず。ロセッタもリフルの気持ちに答えようとしている。教会の歌だろうか?詠唱と言うには些か長い。違う、歌い続けているのか。ロセッタ自身には数術が使えない。俺とモニカのようにはいかないのだ。精霊の力を引き出すために、正しく意思を伝えるために……そのための言葉をひたすら繰り返しているのが今の彼女……。
風の元素を送られて、次第に火の勢いは増していく……それでも炎は空へは伸びない。リフルの白い顔も、血の気を失い青くなってきている。駄目なのか?何が足りない?
「くっそ!いい加減動きなさいよ!!何よ!あいつだとあんたあんなに凄かったのに!!私が女だから!?だから言うこと聞かないわけ!?私の歌は全然駄目だっての!?」
とうとう痺れを切らしたロセッタが、火玉に向かって吠える。
「こいつは……っ、リフルはタロックにとって、この世界にとって必要な人間なの!こんな所で死なせたら、絶対に許さない!!」
八つ当たりだろそれ、と言いたくなるようなその言葉。しかしそう投げかけられた火の玉は……必要だった物を手に入れたと言わんばかりに空へと向かい伸びていく。
「なんかよくわからねぇが、でかした嬢ちゃん!」
「本当に何なのよ……」
何かを思い出すように、仕事を終えたロセッタは恥ずかしがっている。そんな場合か!
こんなんで行けるのか?僅かに不安に駆られる俺は、あいつの方を縋るように見てしまう。先に見たのは俺。だが、動いたのはロセッタだ。ふらつくあいつを寸前で支えてくれたのも。
「リフル!?あんた、何を!?」
「私には……数術は使えない、だが」
「!!」
そうだ、ロセッタのような後天性混血とは違う。リフルは先天性混血児。その目は数術に優れた混血が生まれ持った触媒。リフル自身邪眼以外の数術を使えない、それでもここへ来たのは……触媒となるため!
空へと飛んだ炎の精霊が、力を増して炎の勢いを増していく!
「そうだ……グライドがフェスパァ=ツァイトを使った時には、リフルの目を」
「持ってた……ってか?」
「片割れ殺しのリフルの目は、触媒として最高の物。リフル自身数術が使えないから宝の持ち腐れではあったけど……」
俺の数術、ロセッタの使役する精霊の制御と強化、負担減少をリフルが担う。
俺もロセッタも、もう何も出来ないのか?触媒として数術に身を任せることなんて、あいつには初めてのこと。脳や身体への負担も何も解らないからあんなに消耗している。今は回復数術もかけてやれない。
(くそっ!)
悔しさから俺がハルモニウムを握りしめ、苛立ちをぶつけるよう地面を叩く。その時歌った風の歌。それが空まで届いたはずがないだろう。けれど、空に変化が現れた。
*
やっと雲の間に空けた、まるい穴。そこから微かに見えるのは、赤い光。クレプシドラがこちらを見ている。様子を窺っている。ひとまずあの咆吼は止められた。迷いを与えることは出来た。しかしこれでは足りない。不審に思われたら、もうあれは聞く耳を持たない。
私と……いや、俺とエルムの決定的な違いは何だ?クレプシドラに届かないのは何故だ。
(考えるまでもない)
リフルはすぐに答えを見つける。彼と自分の違いは……思いを向ける矛先だ。
エルムはいつも、たった一人を見つめていた。西に居た頃はディジットを何より大切に……彼女に捨てられ傷付いた彼は、あのヴァレスタに傾倒していく。そんな風に心の底から誰かを思い、仕える気持ち。
もしも私が……瑠璃椿だったなら。彼のようにたった一人を見つめられただろう。そうだ、あの頃の気持ちを思い出せ。お嬢様への心を強く思い出せば良い。
僕は貴女が笑っていられるなら、どんな苦痛も受け入れる。其れが僕の幸せになる。笑う貴女を見ていると嬉しい。それだけで天にも昇る心地だ。だけど狂った貴女を見て。それでも心は変わらない。ずっと一緒に居られたら。貴女の物でありたいと思う。貴女と死ねたらどんなに幸せか。
エルムはどんなに悲しかっただろう。その時、隣に大事な人は居なかった。お嬢様は、どんなに辛かっただろう。こうして僕だけ生き延びて、目移りし惑う僕を見て。
(クレプシドラは……)
死に損なった、瑠璃椿と同じ。主を失い怒り狂ってた。あの屋敷の惨劇を引き起こした私と同じ。ならば尚更、私が止めなければ。
お前に必要なのは、最後の命令だ。主人を失った道具に、価値は無い。だから、エルムの命令通り、お前はそれを果たそうとしているだけ。
私はあまりにちっぽけで、出来ることより出来ないことが遙かに多い。けれどアスカを前にしたときほどの脅威や恐怖、不思議とあの時のような絶望は感じない。
セネトレアが、この腐った国が、私の憎み続けた場所が……変わろうとしているんだ。東と西が力を合わせ、他島の縁者も協力している。私の隣には、かつて私を憎んだ少女がいてくれて……彼女はあのまま終わるしかなかったはずの、私とアスカを止めてくれた。
私一人なら、負けていた。悔しい思いをしたことは何度もあった。だけど請負組織になって……仲間が増えて、出来ること、守れるものは増えたんだ。それなら今は、やれるはず。それを信じて、魅了する。
「クレプシドラ!!」
かつてエルムがそうしたように、精霊の名を呼んだ。その存在を信じ、頼って、使役する。最大限の信頼と親愛を込めた響きで。
しかし精霊は降りては来ない。再び上がった咆吼、その直後……雨の強さが一気に増した。
*
「雨が……止んだ?」
「違う」
「グライド?」
もうくたくただ。結界を解いて良いならそうしよう。気が緩んだほっと俺の言葉に、幼なじみがすかさず訂正をする。
「Suitが向かった先に、数値が集中している。結界はこのまま……いや」
「何してんだグライド!」
かと思いきや、グライドが数術を解除してしまった。俺一人では支えきれないし紡げない。あくまで俺が彼に力を貸していただけなのだから。その維持は俺には出来なかった。
「奴が注意を引き付けている間に、避難をさせるべきだ。彼らが注意を引いている内は、ここは安全。安全な場所まで人々を……」
「そんな勝手な!リフルさんはお前を信じて、東を信じたんだ!!なのに」
「信じる信じないじゃない!あいつは人間だろう!?」
あの人を置いて自分たちだけ逃げるのか!そう責めたが返ってきた言葉がおかしい。混血なんか人間じゃない。そう言い続けたグライドが、あの人を今……人間だと口にした。
「う、うん。そうだよ」
混血を、リフルさんを信じてくれているのは嘘じゃない?それならどうして退却を?
「あの技は……リゼカも使った。この手袋と靴を見ろ」
「溶けてる……!?」
「これが、あの精霊が使う最も危険な技だ」
「それじゃ……あの雨!!」
「たった三人で……どうにか出来るとは思えない」
彼は薄情なのではない。冷静なのだ。だから正しいことを口にしている。それは俺も解ってる。
(グライドは、頭が良い。俺と違って……)
あんな危ない雨、人の身体だって長く当たれば……助からない。
「フォース……」
彼は地に足が根付いたよう、動けない俺の腕を引く。俺もすぐに反応できないくらいには、彼の言葉に賛同していた。だけど、俺の何かが引っかかる。あの人と行動を共にして、色んな顔を見てきたよ。だけど真っ先に思い出すのは、いつだって……俺を助けに来てくれる、苦しそうなあの人の笑顔なんだ。
「グライドっ!!」
お前は東の長を継ぐのだろう。それならお前は思い出さなきゃならないはずだ。
「お前が慕った人はどうだったんだ!?」
ヴァレスタは酷い奴だ。俺が知ってることは少ないけれど、エルムやお前がそんなに慕った人間だ。お前は本気でその人に憧れたんだろう?最低最悪の金の亡者でも、奴は商人。約束には、契約には真摯で無ければならないはずだ。
「リフルさんは嘘も吐くし人を騙すけど……ボロボロになっても、約束は守ろうとしてくれる!!あの人は強くはないから、果たせないことも多いけど……いつだって死ぬ気で一生懸命だ!」
「……フォース、だけど僕たちはカードだっ!!誰かを犠牲にしても守らなきゃいけないものがあるだろう!?」
「あの人は、タロックの王になる人だ!王を犠牲にして生き延びるのが国なのか!?リフルさんだって間違ってる!国のために民のために……他人のためにいつも傷ついて死ぬような思いをしてる。そんな人を俺は置いて行きたくない!!一緒に戦って、一緒に生きる!……死に場所を、死に時を失ったって言うんならグライド!ここに居ろ!」
「昔の君は……そんな風に一度も言わなかった」
俺の言葉を、違う意味で捉えた?そういうわけじゃない。唯、昔を思い出したのだろう。彼が笑った。
「あ……」
辛いとか寂しいとか、俺は素直に言えなかった。強がってばかりの嫌なガキだった。そんな俺と、グライドは一緒に居てくれた。俺、本当に嫌な奴だった。今だってまともかって言われたらそうは言えない。それでも……昔より本音で生きられているとは思う。俺の抱えていた棘を、取り去ってくれたのがこの最低最悪なセネトレア。そこで出会った人達だ。何も知らない子供の頃より、俺の手はずっと汚れているけど。
(無意味……じゃない)
掌がほんのり温かい。俺にカードを……幸運を分け与えてくれた人が居る。俺の贖罪は、まだ終わらせられない。こんなとこで、終われない!
(グライド……お前だって、そうだろ?)
黙って傍に居てくれたのが昔のお前。昔みたいには戻れなくても、俺もお前もまだ、前に向かって歩いて行ける、そのはずだ。
「贖罪は……苦しむためにあるんじゃない。自分の幸福も、その先になくちゃいけないんだ」
「幸福、か」
大事な主を死なせた自分に、そんな物が残っているのだろうか。俯くグライドに声をかけたのは、不思議なことにカルノッフェルだった。
「フィルツァー君、そう落ち込むことはないよ」
「領主……様」
「姉さんを失っても、僕がこうして立っていられるように。意外と希望という物は、残されているものさ」
「良いこと言ってると思うしこんなことあんま言いたくないけど、お前が言うなよそういうの」
「それなら殺しに来ても良いんだよ?」
「アルタニアに帰れ、馬鹿」
軽口を言い合う俺たちに、グライドが戸惑いがちに小さく笑う。
「領主様とフォースは……一応仇と復讐者の関係だったのでは?」
「そりゃそうだけど……」
今となっては、こいつを殺しても良いのは俺じゃない。奴の復讐と、その後の姿を追いかけた俺だから解る。もしかしたら無意味な事って、本当にこの世界には……殆ど無いんだ。ただ一つ、あるとしたら……それが俺のしようとしていたことだって解ったよ。
「暗殺組織SUITは、自分のためには殺さない。今だってそうさ。リフルさん……気持ち的にはあの精霊、殺したくなんか無いはずだ。でも殺す」
あの人は、今日はもうどんな人間も死なせたくないと言った。俺はその中に、あの三人も含めたい。もしあの人達で力が足りないなら、駆けつけられる位置に留まるべきで、逃げるなんて選択肢はあってはならない。生きるか死ぬかだ。逃げるでも見捨てるでもない。
「俺がこいつを殺さないのもそう。SUITは……助けるために殺すんだ。自分のためには殺さない。だから逃げないでくれ。数術がなくたって、ただ居てくれるだけで良いんだ。俺たちのために、この街のために命がけで戦ってるあの人達を……!待つことからはせめて逃げないでくれ」
グライドもカルノッフェルももう何も言わない。だけど小さく頷いて、俺の傍へと留まった。ざわついた人々も、グライドの判断には逆らえない。彼の傍が今、最も安全だと思うから?それならそれでも良い。彼がここに留まるなら、逃げて離れるのは正しい判断とは言えないからな。自分の命惜しさからでも、東の奴らが数術を受け入れている。数術に守られるくらいなら死んだ方がマシだなどと、逃げる強さもない。だけど肯定している。それは純血であるグライドが、これまで東のために尽くしてきたことを、彼らが知っているからだ。
「……随分大人になったのね、ニクス」
エリザの正体を知った第五島の連中は、彼女を安全な場所へ逃がそうともしているが、彼女はそんな誘いをかわし、少し離れた場所から俺たちを見ていた。
本当の名前を口にしてからの彼女の他人行儀、その本心は分からない。だけど俺の何かを見定めるような……そんな視線を送る。
「まぁな」
「エリアスが……あの子が私のようにならないと、本気で思える?」
「どういう結果になろうと、俺はエリスに救われた。その恩は返したい」
「……そう」
「あと、俺忘れてないからな」
「何?私への恨み言なら……」
「そうじゃなくて」
「俺の賞金、狙ってただろ?」
「は?」
エリザは忘れていたんだろうか。それもそうか。彼女は公爵令嬢。本当は金なんかどうでもいいのかも。あの彼女は全て演技、本心とはほど遠い……笑顔。
あのキスは……俺がエリザを傷つけていたことへの報いだろう。丁度良い。俺だって罰が欲しかった。
(もし俺が死んでたら、頼むよ。それでグライドを助けてやってくれ)
「ち、ちょっと!ニクス!?」
彼女だけに聞こえるように、小さくそう告げ、俺は笑った。そして彼女を下がらせる。
「グライド!数術は変化が現れるまで待機だ!お前が頼りだけど無理すんな!休んどけ!」
「どちらにしても、僕らには他に道がないらしい」
「グライド?」
「フォース、お客様だ」
「何だよ、神様でも来たってか?」
「僕らより多い幸運値……コートカードだ」
赤い目で、通りを見つめてグライドが言う。耳を澄ませれば確かに、何か聞こえる。あれは馬の蹄の音?
「撤退だ。SUITを信じて……彼らの方に」
*
(失敗……か?)
雨脚の強さより、その雨を見て終わりを悟る。これは唯の雨ではない。これは酸の水。如何に毒人間の私であろうと、肌を焼くような水には勝てない。
「ハルモニウムっ!」
ダールシュルティングが一形態、触媒剣ハルモニウム。両手で得物を横に掲げたアスカが叫ぶ。風の数術で私達の周りから雨をはじいてくれる。しかし豪雨全てから私達を守るには、その風圧も強まって……ふらつき吹き飛ばされる私。そんな私を支えていたロセッタも風の数術から外れてしまう。
「リフルっ!!ロセッタ!」
起き上がろうとして手を着いた場所から手が焼ける。膝も足も痛み出す。こんな雨、ずっと触れていたら本当に死ぬ。早く起き上がらなければ。痛みに耐えて私は身体を起こす。その間に雨が、少し弱まった、そんな気がして空を見上げた。
(違う。数値が移動したんだ。別の所にまた数値が密集している……別の技を繰り出すつもりか!?)
それは他の二人にも見えたのか。数術を解き、私を助けに来るアスカ。そこを狙ったクレプシドラの水滴。空から勢いよく繰り出された水は、刃物のような切れ味で、大地を抉る。
「こいつっ!リフルを狙ってやがる!!」
アスカは私を庇うのに精一杯。次々繰り出される水の刃を触媒剣で打ち落とし、軌道をそらしているが……。こうなれば、降り続ける雨からは身体を守れない。ここに居れば全員が……
「リフル!」
諦めかけた私を叱咤するよう呼ぶのはロセッタだ。次は何をすれば良い?どうしたら良い?そう問いかけてくる赤い瞳。盲目では無く、それは信頼。信じてくれている。こんな所で私は死なないと。死なせないと告げるみたいに、強く、強く私を見つめる。
(攻撃が、止んだ?)
ロセッタが私を助け起こしたこと。それが何のだと言うのだろう。空からは、苦しむような、歪な叫びが響いた。
《ィエ"ルム……ッ!!》
「え?」
今の姿を、見せたくないのか。人型の精霊を模し、雨と共に彼は地上に現れる。
《……暖かい、水の数値。エルム……良かった、死んでない》
「クレプ……シドラ?」
赤い瞳の水の精霊。目一杯に貯めた涙は赤い水。彼がエルムと呼ぶのは私ではなく、赤い髪の……彼女の方で。驚いたロセッタのことなど気にせず、彼は彼女に抱きついた。
(おい、もしかして……あいつ、視力が低下しているのか?)
(なるほど……私と彼女の髪の色か。あの判断力の低下……魅了は成功していたのかも知れない)
赤い髪の従者と、銀髪の主。髪の色だけなら確かに……似た者同志がここにいる。私をヴァレスタと見て、クレプシドラは攻撃していたのか。ならば私は奴を演じることにするか。
「使えん犬め」
「は!?」
「リゼカ、何をこれに命令した!私の……俺の治めるべき場所を何故壊す!?」
突然犬など言われ、ロセッタは私を睨んだ。けれどその後の言葉に、私の言わんとすることを理解してくれたよう。
「ヴァレスタ……様。俺は……貴方のためにっ!」
「俺のためだと?笑わせるな駄犬っ!!この俺の惨めな姿を見ろ!!この俺に、何が残っていると言うのだ!!」
「貴方こそ、どうしてここにいるんですか!?」
「どうして、だと?」
質問に質問で返すとは。その場しのぎの答え?いや違う。考えて見ろ。エルムは、何故精霊にこんな命令をした?
(エルムは、ヴァレスタを……逃がしたんだ。それでもあの男は……あの場所に)
クレプシドラは知らないのだ。その姿を変えた時から、地上で何があったかなんて。契約者が失われたことだけは、数値で解っていたけれど。
「私は王だ。この国の……セネトレアの王たる男だ」
「……」
「王には、民が必要だろう」
「ヴァレスタ……」
両腕を広げ、彼女がやって来るのを私は……俺は待つ。だがクレプシドラが離さない。
《エルム……駄目だ》
「クレプシドラ……?あの人は俺の大事な人だ。解るだろ!?」
《俺、ずっとエルムの言うこと聞いてきた!だけどあいつは許せない!あいつはエルムを苦しめた!!あいつがエルムを……エルムを死なせたんだ!!》
精霊は錯乱している。まともな精神ではない。エルムが死んだこと、知っている。それでもそれが受け入れられない。完全にそれを理解する前に、息の根を止めなければ。先ほどの暴走では済まないぞ。
ロセッタに指示を送ろう。でも何と?咄嗟に思いついた物は一つ。
(しかし、それは彼女があまりに危険だ)
彼女は死なせない。死なせてはならない。何に、換えても。
動けない彼女に近づいて、俺は精霊ごと彼女を抱きしめる。そうして歌うは、先ほど彼女が祈り歌ったその歌だ。
それに効果があるかはわからない。けれど彼女には伝わる。フェスパツァイトで焼き払え。私とお前と一緒に、あの精霊を。
「リフルっ!!」
すっかり部外者感と疎外感に悩まされていたアスカも、我に返って私を呼んだ。お前の役目は勿論あるよ。彼女が炎。私が触媒。この暗殺は、お前の回復数術が頼りだ。
(信じてる。お前のことを)
私のこと、ずっと守ってきてくれた。狂っても殺せなかった。お前は決して私を死なせはしないと。
*
我に返れば、そこは火の海。私の視界は炎に包まれる。その暖かさにぞっと肌が凍り付いた。ここはどこ?今はいつ?私はどうしてここに、戻ってきたの?助けられたなんて、助かったなんて、全部夢?
(違う)
私燃やされている。誰かに押さえつけられ、その火の中に留まらせようとする者が居る。
(い、嫌ぁあああああああああああああっっ!!)
煙の所為で上手く喋れない。だけど私の悲鳴を聞いた者が居て、火の勢いも僅かに弱まる。誰かが火を消してくれているんだ。私を押さえる者は誰?力が弱い。もう振り払えている。私は逃げられる。
「ロセッタ」
炎の中私を呼ぶのは、誰の声?そんな名前、もう長いこと呼ばれていなかった気がするのに。
炎に焼かれながらも、貴方は綺麗。その目もその髪も。ちゃんと貴方の色を残しているわ。
おいでと広げられた腕。いつもはそんなこと、しない癖に。こうして、一緒に居てくれる。痛みは、幾らだって感じてきた。炎は嫌い。炎は怖い。嫌なことを思い出す。それでも……不思議と、変ね。苦しいのに、暖かい。胸に水の精霊を抱えたまま……貴方に近づけば、貴方が私を抱きしめる。
(リフル……)
貴方は回復数術なんて使えないのに、そうされると……肌焼く痛みもなんだか和らぐ。
どうしてこんなこと、考えるのかしら。ロセッタは笑う。
もしあの場所にあんたがいたなら。神子様が助けてくれる前に、こうやって……一緒に足掻いてくれたんじゃないの?
フェスパツァイトがよく燃える。リフルが触媒だからじゃない。リフルの歌は……グライド程までは行かないけれど、成長の止まった少年の歌。私の歌よりずっと精霊の力を呼び出せる。
(燃やして、フェスパツァイト。もっと、もっと)
私の悲鳴に、炎にぶつかってくれたのでしょう?焼かれてしまって、元素が数値が減っているわ。助けてくれようとしたのよね。ありがとう。貴方が本当に狂ってしまう前に、優しい精霊のまま……この可哀想な精霊を、貴方を眠らせてあげましょう。せめて最後まで、私は一緒に居てあげる。混血を、狂うほど愛してくれてありがとう。それは私じゃ無いけれど、せめて一緒にいてあげる。
(不思議ね。神子様に助けを求めることも、忘れていたわ)
*
カーネフェルの空は、そこに住まう人に似て……こんな日にも、何も知らないように晴れ渡る。夜が訪れた部屋の中、窓から見上げる景色はこの上なく美しい。でも、こんな物に価値は無い。
これは、彼と同じだ。この空の下、どれ程の脅威が差し迫っているかも知らない。教えたところで彼らは彼らの生き方で生きるだけ。脳天気までは言いたくないが、危機感が足りていないのだ。日常を守るために、非日常はある。それから目を背けるためにあるわけではないのに。
からかいたくも、虐めたくもなるだろう。あれにどれだけの責任が、人の命がかけられたのかさえ、彼は知らないのだから。もっとも……僕も人のことを、言えないか。
(変な物、食べるんじゃ無かった)
異国の地で、幼い神子は苛ついていた。身体がだるい他、胃がムカムカして寝付けない。精神的なものだけではなく、これは食べた物にも心当たりがある。
《神子様?》
回線を繋げたつもりはない。向こうからの連絡か。ならば彼方で進展があったということ。
(こっちの話。甘味に香辛料は鬼門だとだけ覚えておいてくれればいいよ。少なくとも僕はそういうアイスは買いたくない。もし仮にだよ?寝ている僕の耳元で百倍唐辛子ペッパーとか囁く奴が居たら最終的に死ぬまで呪おうと思う)
《神子様は寝起きと夜中は機嫌が悪い。百倍唐辛子ペッパーは鬼門っとメモしておきます!了解です!殿下とのデートの際には気をつけます!》
(デート……ねぇ)
《む!その反応!!私のセンサーに引っかかりました!!神子様誰かとデートしてきましたね!!それでときめきのあまり眠れないのですね!!詳しく!詳しく!!教えて下さい原稿用紙百枚以上で!!》
(き、却下!!……メディア、僕にそんな暇はないよ。君も解っているだろう?)
《怪しいです。神子様今の声のトーンが怪しい!!狼狽えてますね!!》
(仕事の話に戻りましょう、ノーチェ。セネトレアは無事、)
話を無理矢理切り替えさせれば、部下も渋々それに従う。
(仕事を簡単に、完璧に遂行するとは言えないけれど、あの王子様達は仕事が早すぎる)
部下からの報告を受け、神子は深く溜息を吐く。西の勝利は計算通り。とは言え結果が出るのがあまりに早い。幸福値をなるべく多く残して勝つには、早急な決着は望ましい。だが程ほどであってくれなければ望ましくないのだ、此方としても。
死に物狂いというか、生き急いでいると言うのだろうか?一度軸となった人間達は、そう簡単には御せないか。ならば大怪我で、那由多王子が目覚めないというのは好都合。それは良い時間稼ぎにもなろう。
(本当に、困るんですよ彼らには)
このままでは此方の到着を待たずに、彼らがセネトレアをどうにかしてしまう可能性もある。そうなってはお終いだ。表舞台がタロック王と那由多王子の物語になってしまう。あの男が勝ち残ったところで、この審判は終わらない。あんな男の気持ち悪い狂気のために、振り回されるのははっきりいって僕らはごめんだ。しかし、そのための駒は………道化師の邪魔もあり育成が思い通り進んでいない。ジャックの話もラハイアさえ居れば、こんな面倒な展開にはならなかったのに彼がもう居ない。予備として確保していたあれを、最終戦までに使えるようにしなければならないのだから気が重い。
(本当にね……此方の都合というのを考えてくれないお人だな)
《神子様、つまり……?》
(必要な書類と仕掛けは用意しよう。メディア、思いきりやれ。君は暴れて構わない)
《きゃあああああああああああああああああ!!!神子様大好きっ!私の王子様の次くらいに!》
ひとまず、一区切り。長かったギミック編もこれでお終いです。
大事な話なのに上手く書けずに何年経ってしまったんだろう。
ギミックのメンバーは、皆思い入れのある者達だったので、大事に書いてあげたかったけど、自分の力量不足に悩まされて壁にぶち当たり続けました。
お待たせして済みません。見守って下さった方々、本当にありがとうございました!殺戮を強いられて、どんどん作者としては辛くなる物語ですが、大事に大事に書いて行きたいと思います。