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32:ne vivam si abis.

挿絵(By みてみん)

(くそっ……)


 さっきから身体が重い。頭が痛い。数術の使い過ぎか?エルムは自問自答する。


(いや……違う)


 数術はクレプシドラの力を借りている。多少無茶したことは認めるが、こんな風になったのは初めてだ。手袋の下にあるのはハートカード。僕は水属性なんだから、こんな雨が何だ。


(大丈夫だ、大丈夫……まだ、やれる)


 あの女との戦いで、やり過ぎたんだ。あいつは化け物だ。あいつの腹の中に居るのはもっともっと恐ろしい化け物。多分、ヴァレスタでも勝てない。第五元素とは一体何なのだろう。ヴァレスタはあれについて心当たりがあるようだけど、詳しくは教えてくれなかった。「無駄口を叩く暇があるならさっさと歩け」と言って。その判断は正しいと思う。

 あまり遠くまで飛べなかった。あいつの攻撃で、集中が乱れた所為だ。


 「……ごめんなさい、ヴァレスタ様」

 「……」


 まずは自分を回復させないと。体力が無ければ空間転移のための集中力も保てない。フィルツァーを……グライドを撒くためには、もっと遠距離の移動が必要だ。治療のためとは言え同じ場所に留まるのは危険。あいつは情報数術の片鱗を見せている。数術自体は精霊が居なければ雑魚に等しいが、見て解析する方はヴァレスタが頼るくらい秀でていたんだ。あいつ、頭が良いから。それに、接近戦も得意。


 「ぐずぐずするな」

 「はい……」

 《ヴァレスタ!お前、エルムはお前を庇って怪我をしたんだぞ!なのに……》

 「そんなことを頼んだ覚えはない」

 「いいんだ、クレプシドラ」

 《うー……》


 先を歩くあの人を、僕は必死に追いかける。走っているのにその距離が次第に開けていくのは気のせいか?あの人の背中が霞んでいくのは気のせいか?


 《エルムっ!》

(大丈夫……大丈夫、だから)


 倒れそうになる身体に鞭打って、心配してくれる精霊に一度微笑み僕は、ご主人様を追いかけた。


(僕は、後回しだ)


 今日は数術を使いすぎた。あとどのくらい僕に時間が残っているか解らない。徐々に、逃げられる距離が狭まっている。怪我と体力の消耗で、集中力が乱れているんだ。

 いつかはあいつに追いつかれる。何とかしなきゃ。

 そんな風に考える自分を笑っている僕が居る。何こんなに必死になっているんだろう、この男のために。理由は分かっている。それはどうしようもないほど。無気力に唯影のように生きていた僕が、憎しみ以外でこんなに強く……何かを思うのはこいつが初めて。いろんな感情が入り交じり、心臓がバクバクと激しく動く。

 数術の使いすぎだろうか?頭が痛い。体が怠い。それでも僕は、無理矢理笑う。ちゃんと笑えていると思う。心の底から、穏やかに慈しむように。


 「大丈夫ですか、ヴァレスタ様」


 立ち止まったその人を追い越して、慌てて振り返る先、あの人が泣いているように見えた。


(あ……)


 その表情で気付いてしまった。この人は、独りぼっちになってしまったんだ。

 ロイルさんの気配が、数値がどこからも感じられない。冷静になったヴァレスタはその真実を事実として受け入れた。そして、あれだけこの人を慕ったグライドの裏切りに……この人は可哀想なほどに痛めつけられた。

 僕だけは知っている。この人の心を。この人が見ようとしないこの人の心も。あれからずっと、僕はお前を……貴方を見ていたんだ。貴方に助けられてからというもの……刃向かう気持ちも、穏やかに……どんなことでも受け入れ従い許せる心を僕は得た。

 貴方はとても我が儘で、理不尽で傲慢でどうしようもない。だけど貴方は置いて行かれた、捨てられた……可哀想な赤ん坊なんだ。それはきっと、僕と同じ。だから貴方の痛みも苦しみも、僕じゃなきゃ解らない。

 貴方は唯、信じたかったんだ。裏切られたかったんだよ。金こそ全てと言いながら、金で買えない絆を求めた。

 ロイルさんとあの頃のような兄弟に戻りたかったし、リィナさんには全てを許し愛して欲しかった。そう、自分を捨てた母親の代わりに。だけど幼かったリィナさんにそれは出来ない。出来なかった。自分より年上の兄に、母親代わりを強いられて耐えられる妹が居るだろうか?否。


(僕だって……)


 姉さんに世界の全てを押しつけられるのは苦痛だった。あの頃の姉さんにとって僕は、父親であり母親であり兄であり姉であり弟であり妹であったし、夫や恋人の役割まで背負わされた。それは耐えがたい苦しみだ。リィナさんだって辛かっただろう。でも僕は、大丈夫。

 姉さん相手じゃ耐えられない。だけどそれがヴァレスタなら耐えられる。貴方が言うなら僕は何だってやるし何にだってなれる。

 貴方が他の役割を別の誰かに押しつけるのが嫌で嫌で堪らない。

 僕だってロイルさんみたいに貴方の兄弟に、家族になりたい。それが忌まわしい物であっても、リィナさんみたいに貴方と過去を共有したい。グライドみたいに貴方に優しく甘やかせて欲しい。出来ることならリフルさんみたいに……貴方の時間を、瞳を奪いたい。なんてね。

 僕はきっと、貴方にとっての世界になりたいんだ。空であり海であり、風であり……踏みつけられるだけの土にも。でもそれは難しい話だから、僕の世界が貴方になった。貴方に何かあれば、それは僕にとっての世界の終わり。だから僕は貴方のために……僕のために、こんなにも必死になっている。


(僕が、いる……)


 誰も居なくなったと貴方は雨に隠れ、嗤い泣くけど、僕はちゃんとここにいます。貴方が最低なことなんか十二分に理解してます。それでも僕はここにいるんです。貴方はそれを解っていない。

 血が繋がらないと駄目ですか?王家の血を引かなきゃ駄目ですか?純血じゃないと駄目ですか?貴方に信じてもらえませんか?


 「ヴァレスタ様……寒くないですか?」


 僕が姉さんだったら。もっと強い数術を扱えた。もっと貴方のためになれたかもしれない。でも補助数式……こういうのだって、悪くないじゃないか。今は貴方の名前を呼ぶだけで、数術が巻き起こる。保温数術。こんなのもあったんだな。

 式なんか細かいことを考えるでもない。唯穏やかな気持ちで貴方を呼べば、それだけで。頭痛はますます酷くなるけど、貴方のために何か出来るのが嬉しい。


(そうだ、これが……幸せ)


 僕が何より望んでいたはずのこと。安らかに、穏やかに……自分を偽らずに笑えている。

 もう一仕事がある。大きな仕事だ。その博打のためにしばらくこの場に留まり、精霊と集中力を回復させなければ。幸い雨は続いている。グライドの怒りとヴァレスタの……二人の慟哭が、まるで雷雨を呼び寄せたような土砂降り。水の元素は有り余りうる。クレプシドラも小一時間で力を回復させるだろう。


(これが、僕の……最後の仕事)


 今度逃げ込んだ路地裏は、まだ追っ手の姿を知らない。下手な建物内より安全かもしれない。


 「ヴァレスタ様……」


 僕は貴方を見上げて笑う。どんなくだらない会話でも良い。辛らつな言葉でも八つ当たりでも構わない。もう少しだけ、貴方の声を聞いていられたら。僕はきっと、頑張れる。


 *


 「とうとうしっぽを掴んだぞ馬鹿犬!!」


 少年の足と、自らの片手を繋いだ銀の鎖。この年で男と同衾するとは何とも色気のないことだ。キャンキャンうるさい犬が相手では、せっかくの夜(明日の商いのために必要な睡眠時間)もがりがり削られはた迷惑。この俺に時間外労働を強いるとはこの糞ガキさっさと殺したい。

 こんな風に面倒ならば、さっさと解体してパーツを売りさばいた方が良い。その方が安全だ。そう思うのに、何故俺はこいつを生かしてやっているのか。


 「トイレに行きたいだけですっ!」

 「俺が混血であることを言いふらしにいくつもりなのだろう!この裏切り者め!!」

 「んなわけあるか!少しは人を信用しろ!っていうか漏れるっ!!」


 夜中に寝所から抜け出そうとした少年は、用を足しに行きたいのだと言い訳をするが、どうも様子が怪しい。顔は赤いし挙動不審だ。何か隠しているのは見えている。


 「そこに壺を用意しておいた。あれを使え」

 「そ、そんな高度なプレイ誰がやるか!!この変態っ!!」

 「変態とは何だ、失敬な。精神的苦痛で慰謝料請求するからそのつもりで」

 「僕に給料も払わない癖に……」

 「奴隷が飼い犬風情が何か言ったか?」


 最初はそうだ。生意気で可愛げのないガキだった。いや、その前は無気力の死にたがりだったか?昔のロイルを見ているようで苛ついたが、ほんの僅かに興味を持った。けれど、実際はこんなガキ。あいつに全く似ていない。


 「どうして、俺のことばっかり……っ」


 このガキは愛でられることを知らない犬だ。甘え方が解らない。だからこうして噛み付くばかり。それを愛いと思うような趣味はない。俺がそいつを誰より側に置いたのは、信用できないからだ。自分から自分を信じろという奴の戯れ言など、借用書や口約束にも及ばない。

 信じて、信じてと嘘のない目で俺を見るその子供。お前の中に何がある。信じるに足る物が果たしてあるのか?よほど飼い犬などではなく奴隷として育て、挨沙のように拷問で恐怖で従えさせて……そういう風な道具として作り直すか。


(……そうじゃない)


 そうだ。そのガキ、俺の与えた褒美をまるで宝のように扱う。嬉しそうに首輪をしている。こいつが俺を救った時に与えたそれを、愉快げに首に巻く。

 道具は忠実でも忠誠は無い。道具は従順であっても心が無い。俺を主という記号としてしか認識しない。俺はこのガキを犬として扱うことで、心ある道具としての地位を与えてやったのだ。俺はお前を罰しても、お前の心までは縛らない。侮辱するなら打つなり蹴るなり勿論するが、心の中で吐く悪態くらいは目を瞑る。そんな寛大な温情だ。……あの少年の中に、俺は何を見たのだろう。何を見ていたのだろう。

 元々は、移動・携帯用サンドバッグ程度にしか思っていなかったのだがな。八つ当たりで殴れる相手。反発するならもっと派手にいたぶれる。面白いストレス解消相手。毒の王家の連中に嵌められ、身を隠す境遇に陥った半年前……反応と生きの良いリゼカを虐めるのは良い暇つぶしにもなっていた。

 あの頃は漠然と思った。そんな悪態を吐き合う関係が、続いていくのだと思った。そうだ……あいつが一度、攫われるまでは。


 *


 解らない。解らないことばかりだ。


(あのグライドが、この俺を裏切った)


 無性に笑いたかった。それでも逃げる手前、哄笑など不可能。押し殺す歪んだ歓喜の波は、苦しみに変わり、俺の胸をじりじり嬲る。例え正体を知られても……それに勝る関係を築き上げたと信じた。いつかこんな日が来るのなら、最後に傍らに残るのは……グライドなのだと思っていた。過去に俺を裏切ったロイルやリィナなどではなく、道具や捨て駒などではなく。


(それがこの様……惨めだな)


 傍に残るは混血の犬一匹。己の醜態に耐えきれず、ついにヴァレスタは笑みを浮かべる。笑った拍子に、傷が痛んだ。


 「大丈夫ですか?」


 すぐさま此方に近寄って、傷を見る赤毛の少年。先ほどグライドに刺されたのはお前だろうに、自分の回復をするより先に、俺の治療を始めてしまう。


 「まだ完全に傷がふさがって居ないのに……無茶するから」

 「お前の回復数術が中途半端だからだ」

 「はい、ごめんなさい」

 「……」

 「何ですか?」

 「気味が悪い」

 「はは……そうかも、しれないです」


 素直にリゼカが謝るなど天変地異の前触れか。きっとこんな最悪な事態に陥ったのもこいつがこんな顔をするからだ。そう責任を押しつけてみても、リゼカは曖昧な笑みのまま謝罪を述べて治療を続ける。


(最後に俺の傍に残るのが、このガキだとは……なんと惨めなことだろう)


 滑稽すぎて、いっそ涙が溢れそう。けれど代わりに漏れたのは、諦観の色を孕んだ吐息と失笑。俺には……傷をなめ合う趣味はない。同じ混血だから、同志だからとお前にもたれかかる気は毛頭ないのだ。だというのに……何故、俺の側にはこいつがいるのだろう?

 何一つ、こいつのためになることなど俺はしていない。出会った時から傷つける毎日だ。これまで多くの奴隷を教育し、多くの部下を率いたこの俺が、未だかつて得たことがない程の忠誠。

 血の繋がって肉親であるリィナですら俺を見限った。俺を愛してはくれなかった。打算はあったが俺が心の底から可愛がり、俺を兄と慕ったロイルでさえ……俺の側には帰って来ない。


(いや……)


 もうロイルは生きてはいまい。俺が見捨てたに等しい。俺はロイルを探しに行くことではなく、この駄犬と逃げることをあの場で選んでしまった。何故、自分がそうしてしまったのかが解らない。

 そこまで利用価値があるだろうか?この犬を捨て駒にして自分だけ逃げる……。それこそ一人分の空間転移を命じれば良かった。俺だけならこいつはもっと遠くへ飛ばせたはずだ。そしてリゼカが囮になれば、もっと多くの時間を稼げ……俺は無事に第一島を脱出できた。

 俺がそうしなかったのは何故か。それを何度も考える。


(もう、何度目だろう)


 計画はまた一からやり直し。それに疲れた……?嗚呼、それも事実。またコネを作って、部下を集めて……嘘の姿で自分を偽り、脅えながら生きていく。その先でまた、どこぞの阿呆に邪魔され計画を壊される。その繰り返しが俺の人生かという予測が出来て、無性に何もしたくない。こんな憔悴した俺は、いつぞやのロイルのようではないか。それに気付いてまた、嗤う。


 「……」


 もう一度、やり直したとして。こんなひたむきな目で俺を追う者を、俺は得られるだろうか?自分が死んだら新しい奴隷を飼えと、リゼカは言った。だが、そんなことを言う奴隷は初めてだった。

 「捨てないで」でも「殺さないで」でも、心を閉ざして何も語れないでもない。己の死を肯定し、俺のために命を消費することを喜びとした上で、この少年は温かな目で俺を見る。俺をこの世界中の誰より慈しむような目で。

 こんな目を、俺は知らない。それはグライドの目に似て、何処か違う色。赤より遙かに薄い赤。桜色の瞳の中には星がある。輝く星石榴石の目は、その目の中で光る星こそ貴方だと言わんばかりに俺を見る。俺の全てを許し、俺の全てを肯定し、悪態を吐きながらも俺を優しく見守る目。

 それは、幼き日の俺が……母に求めた物ではなかったか?あの女を見返したい。そのために俺は必死になって玉座を求めた。死んだあの女を見返すためには!俺を馬鹿にした者を!俺を愛さなかったあの女に、この俺を認めさせるためには!!どうしてもこの国の玉座が必要だったんだ。そのために俺は作られ、俺は生まれたのだから!!!


 「痛く……ないですか?」


 自分の方が痛いだろうに。回復数術をかける指が震える。もう数術を紡ぐのも辛いだろう。それでも弱音を吐かずに俺に仕える、奴隷の鏡だ。


(こいつは、俺が死ねと言ったら死ぬのだろうな……)


 リゼカには、何の身分もない。血統も家柄も庶民の庶民。こんな小汚いドブネズミ一匹に認められたところで、俺の願いは叶わない。そう思い馬鹿にしていた。

 だが、俺は認められていた。お前なんかに認められても嬉しくなどない。そう、拒み続けた忠誠だけが……今の俺に残された。土壇場で捨てられなかったのは、俺は知っていたのだ。こいつを失えば、代わりは居ない。もう二度と、ここまで心を捧げ……俺に仕える者は現れないだろう。この少年なくして、俺は王にはなれないだろうと。


(違う……)


 玉座に座らずとも俺は王なのだとこいつは言った。その通りだ。俺は王だ。お前が俺を王にしてくれていた。


 「くっ……くくっ、は、はははははははははは!」

 「ヴァレスタ……様?」


 傷口が再び開きかけるほど、笑い始めた俺を見て、お前は心配そうな顔をする。俺の精神が逝かれたんじゃないか?ではなくて、俺の刺された傷の方を。


(嗚呼、愚かだな)


 俺の願いは叶っていたんじゃないか。こうしてお前が仕えてくれるのならば、俺はすでに王だった。いや、玉座を望む必要すらもうなかった。俺が求めていた物は、すでに俺の側にあったのだ。俺があの女に求めた全てが、こいつの中にあったのだから。


(こんなになるまで、気付かないとは)


 失ってしまった。失わずとも良い物を。俺がもっと早くに気付けていれば……今俺の側にはもっと大勢の者があったかもしれない。ああ、そうだな。俺は満たされていたんだ。何故それに気付けなかった。お前が東に来て、俺の願いは完成していた。それが今、欠けた。お前以外の何もかも。ロイルもリィナも、グライドも。今更、それは取り替えようがない。すでに俺の願いは叶えられ、打ち壊され……二度と元には戻らない。夢の残滓を唯、この手に掴んでいるだけだ。リゼカ、お前なくして俺の願いは叶わない。だが、お前だけでも叶わない。もう、どうしようもないことなのだ。だからこれは後悔などではなく……


 「リゼカ、命令だ」

 「はいっ!」


 俺の言葉に嬉しそうに、少年は笑う。顔を上げ、輝かんばかりの瞳で俺を見つめる。疑うまでもない。お前の信頼を、お前の心を。仕方ない。今こそ認めてやろう。

 だからこそ、言わねばなるまい。


 「俺から離れろ」


 *


 それは半年くらい前、僕がルナールという純血至上主義者に捕らえられた日のこと。ヴァレスタと喧嘩をしてアジトを飛び出したのは、あいつの誕生日の一日前。もうどうにでもなれと逃げ出した先、巻き込まれる災難、災難。自分の力だけではどうしようもなかった日のこと。

 殺されるかと思った。捨てられたかと思った。だけどお前は……貴方は僕を助けに来てくれた。僕は一度貴方を捨てたのに、貴方は迎えに来てくれた。


 「帰るぞ、リゼカ」


 夜に、美しい銀髪の髪を晒して彼が名乗るは“殺人鬼Suit”。憎い男の名を騙り、僕を助けに来てくれた。貴方にとって何の得にもならないのに。危険な賭けをして。損得勘定以外で僕を助けに来てくれた。


 「でも……」


 贈り物を用意出来なかった。それどころか貴方に大怪我を負わせてしまった。


 「ごめんなさいっ、ごめんなさいっ……!」


 泣きながら回復数術を紡いだ僕の首に、僕が捨てていった首輪をあいつは巻き直す。首の寒さと違和感が、一瞬にしてかき消えた。


 「帰ったら、茶を淹れろ」


 贈り物は、僕で良い。あれはそう、そう言ってくれたんだ。僕さえ戻ってくれば、それでいいって。あんなに酷い奴なのに、いつになく優しい声でそう言った。疲れすぎて呆れてしまって、あいつもやけになってたんだと思う。でもその自嘲の顔は、初めて僕に向けられた……穏やかな笑みで。僕の居場所はここなんだって、解って安心から僕はボロボロ泣いてしまった。僕はここに居て良いんだ。この人の側に居て良いんだ。必要としてくれるんだ。こんな薄汚い僕なんかを、この人は。


 あんな風に笑ってくれたのは、唯の一回。それでも、それだけで十分だった。僕が貴方を好きになるのは。誰からも手を伸ばされなかった、誰にも気付かれなかった僕を、貴方は見つけてくれたんだ。僕の痛みも、僕の弱さも理解して、全てを鼻で笑って馬鹿にして。

 だから僕はもう二度と、貴方の手を離さない。貴方がくれた首輪は僕の誇りなんだ。貴方の犬であることを僕は誇りに思う。

 対等な人間関係じゃないとしても、僕は人間として生きていた頃よりもずっと満たされている。僕は貴方を支えるために生きている。そのために生まれたんだって、信じているから。だから嬉しいんだ。貴方に命令されるのは。仮にそれが人殺しでも。

 貴方によくやったって言われたくて僕は頑張る。貴方の側に帰ることを願って、僕は頑張る。大好きなんだ。貴方が。貴方のことが。貴方が良い王様じゃなくても、僕にとっては貴方こそがこの世界の王だ。貴方の望みは何だって叶えてあげたい。だから僕は全てを切り捨てる。貴方のためなら僕は何だって捨てられる!過去の人間関係も、大事だった人も、血の繋がった肉親さえも!


(だから、ヴァレスタ……)


 僕は何をすれば良い?どうしたらお前の役に立てる?どうしたら貴方を助けられる?僕が思っている以上のやり方を教えて。

 見つめた先には深紅の瞳。大嫌いだった色の輝きに、見惚れながらに僕は瞬く。その刹那……彼が何かを呟いた。


 「……え?」


 伸ばされた腕、外された首輪……大切な宝物。横目で見ればそれは僕の宝物。首をなでる雨風に、魂までもが凍えるようで、貴方の声が聞こえない。石畳を打つ鎖の音が、何処か遠い世界のことのよう。何を言われたのかが理解出来ない。もう一度問い正した僕を、あの人は舌打ちながらに睨み付けた。


 「俺から離れろと言ったんだ。手負いのガキなど足手纏いだ。もう回復は不要だから着いてくるな」

 「嘘だ」

 「嘘なものか。邪魔だと言っている。次期セネトレイアたるこの私を、お前のような薄汚いガキと心中させるつもりか!?」

 「解る!俺はお前が何考えてるか解るんだ!」


 ヴァレスタは嘘吐きだ。自分の心にさえ嘘を吐く。貴方の声が聞こえるよ。嬉しくて、嬉しくて堪らない。僕はボロボロ泣き出した。

 僕が貴方に懐くのは、当たり前じゃ無いか。貴方自身、素知らぬ振りをしてるけど……さっきだって今だって、僕が本当に危ない時は、ちゃんと助けてくれるじゃ無いか。それがあるから、本当は大事にしてくれているんだって僕は貴方を信じられる。唯どうしようもなく不器用で、子供で我が儘で、どうしようもない人ってだけなんだ。

 だからこれは、自惚れじゃ無い。幻聴じゃ無い。貴方の声を、本当の声を僕はこうして聞いている。


 “ここにいたら、お前は死ぬ。俺から離れて空間転移で一人で逃げろ”


 貴方は今、そう言ってくれている。嘘で隠した優しい言葉。だけどそれは僕の望んだことじゃない。リフルさんの邪眼なんか目でもない!こんなに貴方に魅了させておきながら、今更自分のために生きろだなんて、そんなの……本当に最低だよヴァレスタ!


 「クレプシドラ……」


 雨と僕の涙を吸って、姿を現した水の精霊。人間の少女くらいの大きさは取り戻したが、まだ完全じゃ無い。首輪が無くなり寒さに震える僕の首筋。その場所をなでるように労るようにクレプシドラの唇が触れる。名前一つで僕の命令を理解居てくれているのだ、彼は。

 血水の精霊は、血の穢れで力を増す。時間短縮にはやむを得ない。足りない分の数術代償はこれで賄おう。


 「待て、エルムっ!!!」


 首筋に噛み付く精霊。それを止めようと発せられた主の言葉。勿論僕は従わない。僕は貴方の命令をこなすだけの道具じゃ無い。意思あり心ある犬だから、僕は貴方のためなら貴方に刃向かう!

 無理矢理紡いだ空間転移。飛ばすのは二人じゃ無い。一人だけなら単純計算、二倍の距離を動かせる。防音数式も盗聴防止数式も、何もかも打ち消して空間転移に注ぎ込む。貴方を死なせないように、貴方の夢が叶うように!だって、王様が死んだら何もかもがお終いなんだ。僕は唯の……民草だろう?思う存分、踏みつけろよ!踏まれたらその分高く飛び上がれ!それが王の意地だ!草だって、空飛ぶ鳥を見たならば、その美しさに目を奪われる。それが最後に見る景色なら、そんな人生も悪くなかったんじゃないかなって……そう思えるはずだから。


 「エルムじゃなくて……リゼカ。お前が僕にくれた名前じゃ無いか」


 何も聞こえなくなってから僕は、呆れて笑う。笑って泣いた。

 本当に、最低な人。最後の最後で……僕を人間として。対等な物として、名を呼ぶことはないだろうに。


 「あは、はは……がはっ……!」


 寒さから?急に咳き込み口に手を当てる。そこには大量の血液。


 《エルム……》


 勿体ないと、或いは労るように。傷をなめ取るようにクレプシドラが手を舐めた。そんな僕の手には、ディジットの形見の腕輪。そこには先ほどまで見えなかった数式が刻まれている。


 「外せ、ない……」


 いつの間にかゆるかった腕輪が手首に食い込むほどに締め付けられている。やっと解った絡繰り。腕輪の触媒に負荷がかけられている。予め決められた所有者以外が使ったら、触媒は補助じゃ無い。リミッターを外し術者の脳に負担をかけ、早い段階で脳死するようにと計算式(どく)が盛られていたのだ。僕は混血だからこれまで保ったけど、これが純血だったなら、一発で脳死確定しているはずだ。だけどこんな恐ろしい物……精霊のクレプシドラですら気付かなかった、この仕込み数式。こんな物を作れるのは……思い浮かぶは西の主と言う少女。


(トーラ……さん、か)


 情報数式なんて華やかさに欠け地味。便利だけどつまらない……なんて思ったのが過ち。

 かつて自分を救おうとしてくれた人の一人。そんな相手に苦しめられる。これも報いか。

 触媒を外すには、腕を切断するしか無い。だけどそのための式を紡ぐためにまた脳に負担がかかる。どのみち、もう終わりなのだ。さっきの空間転移で僕は……力を使いすぎた。

 身を隠す数式を紡ぐ余力も無い。ヴァレスタとの口論も外に筒抜け。まもなく人がやって来る。


(だけど……)


 後顧の憂いは断ちたい。この触媒の所為で、ヴァレスタを遠くへ送れなかった可能性はある。


 「クレプシドラっ!!」


 心臓に手を当て、精霊を呼ぶ。さぁ、ここから食い破れ。浴びるほどに血をすすれ。そう血水の精霊を招く。


 「僕の体の血!一滴残らずお前にやるから!!だから力を貸してくれっ!!」


 グライドの時も、あの女の時も……ヴァレスタに守って貰わなければ僕はもうすでに死んでいたんだと思う。それはつまり、もう尽きているんだ。カードとしての僕の力は。唯横に、最大の幸運を振り分けられたヴァレスタが居たから、僕の命は続いていただけ。それなら、今僕がすべきことは……やっぱりヴァレスタに。

 僕の決意と死期を知ってか、精霊は悲しそうな目で小さく頷いた。少女程度の体だった精霊は血を啜る程大きく膨らんで、やがては人の姿を維持出来ず、もっと大きな影になる。その影は強大な元素の塊。水で形作られた、美しい飛竜に変わる。

 何処までやれるか解らないけど、一度はやれたことだから計算的には無理じゃ無い。触媒の負荷も、今となってはメリット。僕の体の安全装置を取り払い、数術の力を高めてくれる。それに加える精霊の力を最大限に利用するため、数術代償に全てを注ぐ。これまで来た道。あいつが築き守り、夢見た街を……追っ手ごと始末する。洪水で押し流す方向は西から東。あわよくばそれを北に聳える城まで巻き込もう。歯を食いしばって、僕は最後の数式を練る。


(全部壊してしまえば)


 あの人だって、……あの人だって、ようやく夢に手が届く。だってそういう事後処理とか得意だろ?状況から都合の良いように事実をねつ造してでっち上げて、何食わぬ顔で街を復興させ地位と名誉を手に入れて、そのまま玉座に収まってしまえ。


(これで、完成……!)


 僕は最後の息を吸う。首の寒さに、もの悲しさを覚えながら息を吸う。双子で生まれてきた僕が、これから一人で終わるんだ。


(嗚呼……)


 寂しいな。寂しいよ。この半年間、本当に近くに居たから。貴方の隣に、居られないことが。あの日のように足を引く鎖は無い。僕は自由で、ここに立っていたのに。首輪も無い。鎖も無い。貴方と繋がる物は何一つ無いんだなぁと僕が、血を吐き自嘲の笑みを浮かべたところで、身体が傾いだ。

 とても、とても……とても寒い。雨水に浸かって沈んでいく。ゆらゆら漂う意識の糸が……暗く深い所から伸ばされた黒い手に、引きずられるよう落ちていく。貴方を守って、貴方のために死ねるのに……何でかな。こんなに悲しいと思ったことは、無かったよ。これまでのどんな苦しみとも比べられない。他の何にも例えようが無いくらいに、胸を刺す刃。


(嗚呼、これが……死だ)


死にたいと思うことはあっても、死んだことが無いから死にゆく人の心を描写することのなんと難しいことか。

書いては消し、書いては消し。彼らがやってきたことを思えば、死は救いであってはならないし、止めの一撃であり報いで無ければならないわけで。


本当は通じ合える心があっても、言葉が足りなくて届かないまま、伝わらないまま。そういうもどかしさを出したかったなぁ。


ディジットの腕輪と、数術の酷使が伏線でエルム君は死に至るのですが……数年前に書いたプロット漫画でおおよその流れはあってもあれから色々変わったりもあったし上手くまとめられていないようで残念。


更新遅れて申し訳ありませんでした……とか言っても果たして何人待ってくれている人が居るのか(こら、そういうこと言うな)


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